人らしく

うしき

ヒトのこころ

「残念ですが、現在の状況ですと御社への融資は不可能です」


「そんな、ずっと取引してきて、今さら梯子を外すって言うのか。あんたらは……」


「申し訳ございません。当行での審査の結果ですので」


 男は表情を動かすことなく、机の向こうに座る老人に冷たく言い放った。完全なる拒絶が込められた言葉に、老人は何か言い返そうと口をぱくぱくさせる。だが、空しく宙に救いを求める目線と同じく、その空洞からは何も現れることはなかった。


「これからの事は、改めて担当よりご提案させていただきます」


 そう言って男は横に座る若手の担当者に目配せする。その若手もまた、男を冷ややかな目で見つめるが、意にも介さない。


 項垂れたまま、抜け殻のように歩く老人を男は若手と共に見送る。


「後はうまくやってくれ」


 そう言って若手に資料を渡すと、男は自分のデスクへと歩いて行く。そこに温情や人らしい感情の動きは感じられない。ただ無機質に、機械的に処理をする男に対して若手は畏怖を越えて嫌悪感すら覚えた。


 磨き上げられた男の革靴が、ぬめった光を放っていた。




「あの人、仕事については凄いと思いますけどね。何ていうか、人間の心ってものが無いんですかね」


 紙を捲る音が響く中、そう呟いたのは若手だった。夜中のオフィスには、少人数の残業組が限られた灯りの中で黙々と仕事をしていた。 


 その言葉に、若手から上がって来た稟議書に目を通す上役が、ふふん、と鼻をならした。そしていたずらっぽい表情で、老眼鏡の隙間から覗く目を細める。


「あいつはな、真面目なんだよ。何事にもな。今日だってあの面談のあと、資料室で書類ぶちまけて暴れてたんだぞ」


「え、あの人がですか? 怒るところなんて想像できないですよ」


「不器用なのさ。自分で納得できない業務だろうと、あいつはこなすのさ。本心を隠してでもな」


 若手は「へぇ」と相槌を打ち、上役の顔を見た。パソコンに照らされて浮き上がるその表情は、いつもより感情が際立って見えた。


 新しい書類へと若手が目を戻すと、オフィスには静寂が戻る。どこかから微かに聞こえる、ブーンという機械の音が酷く耳障りに聞こえた。




 夜更け。

 男は薄暗いリビングで、ひとりウィスキーを飲んでいた。ロックグラスに入れられた氷が、時折澄んだ音を立てる。テレビに映るのは古いアクション映画。強い父が、窮地に陥った娘を助ける。


 香りに癖のある、アイラモルト。お気に入りの映画を見ながらこれを飲むのは決まって、男の心が濃い灰色の、ドロリとした感情に満たされている時だった。周囲から見れば、フラストレーションの発露、とすぐに受け止められるだろう。


 男の妻は、それを痛いほどに、その背中から感じていた。柔らかな間接照明の中に浮かぶその影に向かって「子どもと先に寝るわね。おやすみなさい」とだけ声をかけた。


 男は見ているのか見ていないのか、定かではない画面から目を離さずに「ああ」とだけ小さく返事をする。そして残り少なくなった琥珀色の液体を、名残惜しむようにして喉へと流し込んだ。舌からゆっくりと降りていく熱を、男はゆっくりと味わう。それは心の中の粘着質な何かを溶かす為の、儀式めいたもののようにさえ思えた。


 空になったグラスの中で、透明な氷がきらきらと光りを放つ。その中に男は再び、儀式の為の秘薬を注ぎ込む。今度はグラスに半分。これもいつものルーティンだ。


 その時、男の背後でドアがそっと開く気配がした。娘がトイレにでも起きてきたのかもしれない。ひっそりとしたリビングで、男が何をしているのか、興味本位で覗いてみたのかもしれない。


 娘はその時見た光景に驚いただろうか。普段は強く、穏やかで優しい父が、アルコールを前にして頭を抱え、うっすらと涙を浮かべる姿に。


 静かにドアが閉まる音とともに、背後の気配は消えた。目の前の画面では、映画がクライマックスを迎えている。爆発、轟音、そして再会。男はそれを、ただただ無表情に眺める。


 そこで男はグラスを置くと、両手で顔を覆った。まるで子どもが泣くときのように。そして、その手で顔を二度三度とこする。


 そして、男は口元に笑みを浮かべる。


 顔を覆った手を、額へと上げ、そのまま髪をかき分けながら天井を仰ぐ。


 まるで、顔面を覆う何かを、窒息するほどの息苦しさを覚える何かを剥ぎ取ったかのように、男は爽快感と、恍惚を湛えた表情を映画の主人公へと向ける。


 ――ヒトらしく生きるってのは、大変だなぁ


 歪んだ笑顔を浮かべる男に、画面の中の主人公は微笑み返す。


 グラスの液体を一気にあおる。氷が軽やかな音を立てるのを聞きながら、男は画面を消した。

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人らしく うしき @usikey

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