珈琲とはちみつ茶の温度
月野 咲
心まで冷たくなった夜
いつも通りの朝だった。
でも、いつもよりも瞳に映る太陽が暗く見えた。
いつもの通学路に少し迷った。
放課後の部活の練習をしていると、空は暗くなって肌寒くなった。
「はると今から暇? 暇ならちょっと付き合ってほしい」
ひまりが部活終わりに話しかけてきた。
「暇っちゃ暇だけど」
「ちょっと付いてきて」
ひまりとは部活も一緒で家の方向も同じだから、いつも一緒に帰っている。僕とひまりの家の方向はあまり人がいないから、途中から二人きりになる。
だから好きになってしまったのかもしれない。
自転車の漕ぐ音が流れていた。彼女のペースに合わせて漕ぐものだから音が重なって聞こえる。まるで僕とひまりが重なっているみたいで、それだけでも寒ささえ感じなくなる。
静かな環境音だけが耳を弄った。
彼女は話すつもりは更々なさそうなので、音だけを聞きこんで心を平静に戻した。
彼女は普段とは全く違う道を進んだ。止まった先は以前、一度訪れた事があるような、ないような。
それさえ曖昧なくらい小さくて暗い公園だった。
公園を照らしているのは控えめに立っている街灯が一つとポツンと置かれた自販機だけだった。
僕の欠伸の音が公園に鳴った。
二人用ウッドベンチに彼女は座った。彼女は手袋をしていない手を寒そうに擦り、息を吹きかける。白い息は風に流されて自販機の方に向かう。
自販機であったか〜いと書いてある缶コーヒーを買った。そして彼女が以前から好きなはちみつ茶も。
「はい、これ」
蓋を開けて彼女に渡した。
「ありがと」
はちみつの甘い匂いが鼻を触る。甘い匂いは鼻に引っ付くみたいだった。彼女はゆっくりと飲んで、その甘い香りで少し落ち着いたみたいで携帯を取り出して黒い画面を眺めた。彼女の瞳はどこか携帯の奥を見ているみたいで足をふらふらと動かして何かを逃がしているように見えた。
タブを開けてコーヒーを飲む。苦みが口全体に広がってつい目を細めてしまった。細めた視界の中で彼女の瞳が見える。潤んでいた。
「どうした?」
彼女はいつまでも一向に話そうとしない。
だから、自分の持てる限り暖かい声音で声を出した。
こんなにもしおらしい彼女を見るのは初めてだ。
彼女はふうと一息はいた。小さな肩が小さく揺れる。隣で揺れるその小さな肩を見ていると抱き寄せてあげたくなった。
「……ねえ」
彼女の声は甘い。
心臓がどくんと跳ねて緊張が駆け回った。
もしかしたら告白されるんじゃないだろうか。携帯の奥に見ていたのは数多のメッセージなんじゃないだろうか。ポケットの中にある僕の携帯は熱を帯びているように思えた。まるで携帯までもが恋をしているようだった。
ポケットに入れていた手を外に晒して寒さを肌に伝える。
昂った体を抑えるためにコーヒーを一口入れて味わった。苦味が自分を取り戻してくれる。
「私ね」
言葉の先に聞こえる、好きという言葉が耳の中で流れる。
うん、という返事を返そうと口を開ける。
「あやとのことが好き」
体が冷たくなった。サウナの後に水風呂を浴びるような感覚が体を駆け回った。心臓がギュッと圧縮された。
今の言葉は聞き間違いではないかと頭の中で流れる言葉を確認しても、聞こえてくるのは先ほどの言葉。
「言うかどうか迷ったんだけど、言った方がいいかなって。最初に言うならやっぱはるとに言うのがいいかなって思って」
とても甘い声音。
僕に向けられたことのない声音がそこにあった。
視界が暗くなって何も考えられなくなって、家路さえ忘れてしまいそうになって。
「はるとは優しいから私のこと助けてくれるし、誰にも言わないから。揶揄うこともないでしょ?」
しない。それはできない。
彼女が顔を赤くしている。それは僕に対して? それとも視界の中で笑っているあやとに対して?
今まで痛くなかった場所が急激に痛み出す。
痛い。
誰かに共有しないと自分という存在が潰れてしまう。
でも、それを誰かに共有するのは罪だ。
「どうした。大丈夫?」
彼女は顔をこちらに覗かせる。表情はいつも通りなのに顔が赤い。運動によって火照った頬じゃない。手を伸ばして彼女の頬に手を当てたい。彼女の熱にあたりたい。
でも駄目だ。僕じゃない。彼女を傷つける事になる。顔を逸らした。
「ううん。なんでもないよ」
持っていた缶コーヒーを呷る。苦味が自分を取り戻す。それがもっと辛い。もっと痛みに身を任せていたら良かった。そしたらもっとひまりは僕のことを心配してくれていたかもしれないのにそれもできない。
「あ、ごめんね。こんなに寒い中付き合ってもらって。それにはちみつ茶までもらっちゃって」
完全にいつもの彼女だ。ここで起こったことは全て夢だったかのようだ。
「大丈夫。あやとのことが好きだなんて知らなかった」
僕があやとという言葉を出すと彼女は顔を伏せた。伏せた顔の隙間からは口端が上向いていた。夢じゃないんだな。
「僕に、何が出来るのか分からないけど、応援してる」
乾きが強い。声が掠れる。
「じゃあ帰ろ。今日も部活で疲れたー」
彼女はすっきりしたのか声が伸びていた。
「ごめん。おつかいあるから先帰っといて」
「分かったー。本当にありがとうね」
彼女の無邪気な笑顔を見ると、やっぱりできない。ここで彼女に告白することなんて。あやとのことを悪く言うことなんて。
「じゃあね。また明日」
彼女が公園から出ていくと、寒さが増した。失恋ってこれなんだろうか、ってふと思った。
いっそ涙が出てくれれば良かった。あの場面で手伝えない、好きだって伝えることができれば良かった。それが出来ないくらい彼女のことを好きになってしまった自分は大馬鹿だ。
携帯を触ると、冷たくて熱なんてなかった。
「よ」
『よ。どうした』
あやとに電話した。あやとの声は疲れ切っている。
「今家?」
『おう。今帰ってきた。そっちは?』
「公園」
『ひまりと一緒?』
今日のことを彼女は話すのだろうか。それなら僕はそのサポートをしないとな。
「いや……さっきまで一緒にいたよ」
言えなかった。ずっと一人だって言おうとしたのに。
言いたい。ひまりはあやとのことを好きらしいよって薄笑いして馬鹿にしたような声をしながら。
僕がひまりのことを好きだ、って知ってるあやとなら、もしかしたら僕のために嫌われてくれるだろうか。こんなこと考えたら駄目だって分かってるのに止まらない。
「そういえば、僕新しい好きな人できた」
『え、まじで!?』
彼は一際大きい声だした。
「ひまりはどうした」
『いや、なんかさ。将来もし付き合ったらさ、キスとかするじゃん』
「生々しいな。疲れてる体に話題がヘビー」
彼は笑っていた。
『まあまあ。それでそういう事するって考えたら、なんか違うなあ……みたいな。そしたら、なんかあんまりひまりの事考える時間減ってきたし。多分、好きじゃなくなったんじゃないかなーって」
適当なこと言ってる。好きじゃなくなるわけない。彼女が僕のことを好きじゃない、って分かっても、まだ彼女への好きという気持ちが収まる気がしない。こんな理由で好きって理由がなくなるわけない。
でも、これくらいしか理由を思いつかなかった。
『変な理由だな。まあ、そっか。ていうことはデカイ女が好きになったってこと?』
「まあ、そういうこと。誰かはまた教えるからよろしく」
考えないといけないな。嘘の恋。
「おっけ。じゃあな」
彼との電話を切った。
はちみつ茶を買って蓋を開けた。
乾き切った体に染み渡らせるように一気に飲んだ。
水分が体を回ると涙が溢れてきそうになった。
珈琲とはちみつ茶の温度 月野 咲 @sakuyotukinohanaga0621
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