第16話 集結の場
部屋の扉が、突然に開かれた。
無作法に。乱暴に。
最低な記憶を再現するように。
「なっ……」
ハーヴァはベッドから飛び起き、テーブルを後ろ手に部屋の奥へ逃げる。過去の結末が、冷静な判断を奪う。
「行くぞ。仕度はできたか?」
ナリファネルが言い放つ。ハーヴァの怯える様子など、目にも入っていない。
「セレニアは!」
こういうことが起こらないための、あの子なのに。
叫ぶもナリファネルは首を振り、濁った瞳で睨みつける。
「いない。悪魔の首輪を繋いでおくのは、誰の役目だ?」
「……わ、私……?」
「ふん。後で制裁を加えてやる。お前は俺と一緒に来るのだ。この宮殿に迎え入れる女どもに、王の正妻として挨拶でもしろ」
「迎え入れる? 正妻? 何の話よ!」
ソファの背から滑り落ちた服。ぶつかったはずみで、棚から落ちた写真立て。全てを土足で踏み付けながら、
「家畜王国の賢人王の妃だ。喜べ! 世界一大きな肖像画を飾ってやろう。祈れ! 王国の繁栄を。永遠に続く、俺とお前、一代きりの王朝の」
「嫌よ! 誰があんたなんかと!」
嫌だと叫んで何になるのだろう。だが、叫ばないことに意味もない。大人しく宥めることも、抵抗することも、虚無を演じても、何も良くなった試しはない。
抵抗は、虚無よりはまだマシな結果を招く。
「俺が、わざわざお前を立ててやろうとしているのだ。大人しく言うことを聞け!」
激昂したナリファネルは肩を掴み、無理やり部屋から引きずり出した。扉の角に何度も何度も打ちつける。抵抗する力を失うと、赤い絨毯の上に投げ捨てた。
「セ、レ……ニア……どこにいるのよ、セレニアアアア!」
廊下を引き摺られて行く。ハーヴァの悲痛な叫び声は、宮殿中に響き渡った。
▪︎
トゥヴァリは一人、馬の背から降りた。慎重に、アンズィルの牙がナランサの毛先にも触れないようにしながら。
『その牙は、魔法で不死となっている者を殺せるだろう。しかし、お前を魔法で助けることも出来ない。その牙を持つ限り』
「わかりました」
トゥヴァリの手には、新しい傷が刻まれた。どんなに注意して触れても、手にする度に持つ者を傷つける。アンズィルの牙は、そういうものだった。
「トゥヴァリ! やっぱり、一緒に……」
馬上のペルシュが不安げに言う。トゥヴァリは近付き、出来る限り軽く、優しく、左手で彼女の頬に触れる。
「待っていて。必ず、君の世界を取り戻す」
ペルシュの目が潤む。それでも、絶対に譲ることは出来ない。
彼女のためじゃない。二度と触れさせたくなかった。視界の端にも入れさせたくなかった。
取り戻したペルシュを大切に思うほど、トゥヴァリの怒りは増していく。何度も何度も――あの残虐な光景の記憶が蘇り、悲しみと怒りで気が狂いそうになる。
右手の傷みが生む脈動が体を奮わせ、呼吸が荒くなる。ペルシュを怖がらせないように平然としているのも、そろそろ限界だった。
ナランサはトゥヴァリの意を汲み、ペルシュを乗せたまま空中へ前足を踏み出した。
黒い扉を、力強く開く。
▪︎
「アイピレイス様!」
その声は頼もしく地下牢に反響する。夢から覚めたアイピレイスは、半日ぶりに顔を上げた。
「トゥヴァリ……? どうしてここへ来た。今、恐ろしいことが起きている。ナリファネルが……」
「待ってください。これは、どうやって開けるんですか?」
トゥヴァリは鉄格子を揺らす。鉄の棒は天井から床まで突き抜けており、腕の力ではびくともしない。
「鍵があるはずだ。入り口の辺りに」
概ね牢の檻は、そういう風になっているものだ。
トゥヴァリは何かを引きずりながら、
「鍵? 鍵なんて……ありませんよ?」
「何だって?」
アイピレイスは檻を隈なく調べた。
トゥヴァリの言う通り、牢には鍵穴も扉も無い。鉄格子だけが、端から端まで並んでいる。
(……ルヨはどうやってここに私を入れた?)
記憶が見つからない。気を失った覚えはないというのに。
「アイピレイス様、離れていて下さい」
トゥヴァリは目の前に立ち、引きずっていた白銀に輝く剣のようなものを振り上げる。
(鉄格子を切ろうというのか?)
金属音のひとつもしなかった。しかし、剣が触れた瞬間、アイピレイスを閉じ込めていた檻は塵のように、光の輝きを残して消えた。
「やっぱり! 魔法の檻だったんですね」
差し出された手を掴む。逞ましい腕は、軽々と、アイピレイスを立ち上がらせた。
「一体何をした?」
「魔法を消したんです」
トゥヴァリは反対の手を上げ、“アンズィルの牙”という名の剣を掲げて見せる。その刃先からは血が滴り、彼の笑顔は冷や汗をかいている。
アイピレイスがその異様さに気づいたときーー
「――セレニアアアアア!」
と遠くから、悲痛な叫び声が聞こえた。
「ハーヴァの声だ」
アイピレイスは天井を見上げ、言った。
「……あの人、俺たちを、騙していたんですよね」
低く憎しみのこもった呟き。トゥヴァリのこんな声を聞いたことは、今までになかった。
「トゥヴァリ、それはどうしたんだい?」
「これは、北の山で手に入れました。アンズィルの牙――大精霊セレニアの魔法を、打ち消すための力です」
持つ者を傷つけ続けるアンズィルの牙は、宮殿に入ってからさらに鋭く、熱を帯びていると言う。白銀の輝きを見つめていると、唸り声が聞こえてくるような気がした。
(そうか。この子は……私たちに、死を与えに来たのだな……)
死神でも未知の光でもなく、怒れる人間の姿をして、やってきた。
傷だらけの手から、こんなも危険すぎるものを取り上げてやりたい。しかしその役を担うことは、今のアイピレイスには出来なかった。
「トゥヴァリ……君はもう、私の知らないところで物事を成し遂げていたのだね。その力でこの町、この世界を変えるのだろう」
アイピレイスは、肩を落とす。
自分に与えられた三百年という時間に意味を成せたか。何も為さず、ただ生きた。
――落胆と同時に、肩の重荷が降りる。やっと、この役割が終わるのだ。
「トゥヴァリ。ハーヴァは、私たちを騙したわけじゃないんだ。どの言動も、本心に違いない。三百年の間に、心が壊れてしまったんだよ。
だから、どうにか救ってやりたい。……今の叫び声はただ事じゃなさそうだ」
トゥヴァリは頷いた。アンズィルの牙の切先から、血を滴らせながら。
▪︎
広場に王が現れた。
その傍らにいるのは、先日とは異なる女だった。髪を振り乱し、悲鳴を上げながら、人々の前に晒されている。あの静かな精霊王とは正反対の姿だった。
レニスもミスラも言い争いをやめ、大階段を見上げる。
「何か問題でも起きているような有様だな」
「君の提案に、納得していない人間がいるみたいだよ」
ルヨは平然と、肩を竦める。
ナリファネルは事もなげに広場を見渡した。その目は、まるでつまらぬ遊戯でも見ているようだった。
レニスの顔に緊張が浮かぶ。
「お前が主犯だな?」
目が合った瞬間、王は言った。女性の腕を無造作に引きながら、真っ直ぐレニスへ向けて階段を下りてくる。
レニスは、小さく悲鳴を上げるラナを背中に隠した。
「その人を、離してあげてください。乱暴はよくありません」
「家畜の分際で!」
ナリファネルが腕を振り上げる。
レニスが目を瞑ったその時、
『不死者ナリファネル。我ら精霊の獲物を奪うこと、傷つけることは、人間にも不死者にも許されてはいない』
広場にいた全員が、その言葉を聞いた。
風が頭上を駆け抜けていく。レニスは遠く離れた上空に、草色の馬の姿を捉えた。
「邪魔をするな! 忌々しい駄馬めが!」
ナリファネルは声を荒げ、歩を進める。
人々は息を殺し、自然と道を開けた。
「それ以上、みんなに近づくな!」
階段の上に現れた青年の声が広場に響く。
堂々と立つトゥヴァリの姿を見つけ、レニスは安堵した。
▪︎
「何だ、お前は?」
階段の上を睨む、ナリファネル。
陽の光に、白銀のアンズィルの牙は眩しく輝き、彼の顔を歪ませた。
「精霊王セレニアよ! もしどこかで見ているなら、この男の欲望を上回る、俺の願いを聞き届けてくれ! 悪を滅ぼし、人々の自由を取り戻すために!」
トゥヴァリはアンズィルの牙を振りかざす。牙はいよいよ、掴んでいられないほどの熱さで手のひらを焼く。爛れた右手を左手で握り締め、大階段を飛び降りた。
当然、それが剣のようなものであると、ナリファネルは気付いていた。不敵に笑い、右手を掲げた。掴まれていたのは、ハーヴァの腕だった。
「あ……っ!」
アンズィルの牙が、ハーヴァの首筋をかすめた。
ナリファネルは高らかに笑い、気を失っているハーヴァを地面に捨てる。
「はははは! 何だ、その武器は?」
ハーヴァに駆け寄ったトゥヴァリは、強い衝撃に襲われ、倒れた。頭は殴られた痛み、肩は地面にぶつけた痛みだ。息を吸う間もなく、腹や顔面に激痛が走る。
「あぐっ…う!」
胸を踏みつけられ、段差にぶつかる背骨が軋む。
「どこで見つけた? 何だ、これは……?」
もう一方の足が、トゥヴァリの腕を強く踏みつける。物のように跳ねる腕、裂けた掌から、アンズィルの牙が零れ落ちた。
「トゥヴァリ!」
レニスがナリファネルに飛びかかった。二人はトゥヴァリの上から転がり落ち、揉み合いになる。
精霊がすかさずトゥヴァリの元へ飛んできて、手のひらの傷と体の痛みを治した。
押さえつけようとするレニスに対し、ナリファネルは容赦なく、何度も何度も拳を振るった。顔を殴られたレニスは視界が飛び、力が抜ける。
その一瞬、ナリファネルはさらにもう一撃、顔を肘で殴りつけ、ふら付くレニスを払い除けた。
「力とは、振るい方を知らぬ者には災いしかもたらさない――だからこそ、手にする者は選ばれるのだ!
当然、美しい物も」
ラナたちに向かってはいるが、眼光はアンズィルの牙を射る。
恐怖一色へと変わる悲鳴。人々は他人を押し除け、逃げ惑った。
「はははは! 良いぞ! 畜生どもめが!」
ナリファネルは、アンズィルの牙を拾い上げた。
牙は堅い手の平を、指を焼く。
焦げ付く匂いと、煙。
「ぐ……っ! ふざけるな、何だ、これは!」
レニスを助け起こし、トゥヴァリはナリファネルを睨む。
「手にしたな! 魔法を消滅させる、アンズィルの牙を! これでお前はもう、不死じゃない!」
アンズィルの牙を取り落とし、ナリファネルは、恐ろしい形相で叫んだ。
「セレニアアアアアァ!」
右腕と額に血管を浮かび上がらせ、焼け爛れた拳を握りしめる。熱傷に泡が立ち、傷が閉じていく。
どこかにいる精霊が、ナリファネルを再生しているのだ。
トゥヴァリはすかさず、アンズィルの牙を拾った。
目の前に、ペルシュが受けた仕打ちの一つ一つが映し出される。自身が経験した痛みと重なり、胸が張り裂けそうに苦しい。
せっかく治った手が再び裂けるのも厭わず、ナリファネルに切りかかる。
「トゥヴァリ! ルヨだ!」
大階段の上から、アイピレイスの声が落ちてきた。
「こいつは賢人じゃない! セレニアの代わりに魔法を使っていたのは、この子どもだ!」
中腹に座り傍観していたルヨを、まっすぐに指差す。
「えっ」
ルヨは驚いてアイピレイスを見やり、それからトゥヴァリの握るアンズィルの牙へ視線を移すと、はっとして逃げ出した。
「い……いやだ! 僕はまだ、死にたくない!」
トゥヴァリはナリファネルから向きを変え、階段を駆け上がる。
ルヨは振り返り、痛みに顔を歪めるトゥヴァリが止まらないのを見るや、
「僕を切らないで! 助けて、セレニア!」
――と、精霊王の像に身を投げ出し、飛び込んだ。
▪︎
それは、白ではなく――深淵の闇だった。
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