暗闇の向こう側
保科早里
第一章
この街では、時々、子供が消える。
それは決まって、殴られた痕を隠すように袖を長く伸ばした子供たちばかりだった。
誰もがそれを「誘拐」だとか「逃亡」だとか囁いたが、本当のことを知る者はいなかった。
*********
朝が来るのが、少しだけ怖かった。
窓の外が白みはじめると、紗夜は目を開ける。
父が出ていったあと、しばらくしてからゆっくりと起き上がるのが習慣になっていた。
食卓には昨夜の皿がそのまま残っている。
冷めたごはん、倒れたコップ。
それらを片づけながら、紗夜はため息をつく。
母がいなくなってからはいつもそうだ。
母は父の暴力に耐えられなくなって、家を出ていった。
「いつか迎えにくるからね」
そう言って出ていったけれど、母が迎えにくることはないだろうと沙夜は思っている。母が居なくなって一年。
来年は沙夜も中学生になる。
学校の準備はどうしたらいいのだろう。
沙夜の心は不安ばかりだった。
父はいつからあんな風にになったのかは覚えていない。
もっと前、もっと沙夜が小さな頃は優しかったような気がする。三人で手を繋いでよく出かけていたのを、かすかにおぼえている。
そんそれなのにどうして……。
冷蔵庫の中には麦茶と古いパンだけ。自分で作ろう思えば、朝食くらいは作れるが、今はそんな気力もない。
朝ごはんの代わりに、そのパンを小さくちぎって口に入れる。
味はほとんどしない。
でも、お腹が鳴らないだけで十分だった。
鏡の前に立つと、頬に薄い青あざが見えた。
母が残していった化粧品のファンデーションを少し借りて、ぎこちなく塗り隠す。
それでも完全には消えない。
だから、今日もマスクをして学校へ行く。
***
教室のざわめきは、いつも遠い世界の音のようだった。
誰かの笑い声、鉛筆の走る音、机の軋む音――全部が柔らかい膜の向こうから聞こえてくる。
紗夜は窓際の席に座り、外の空ばかりを見ていた。
夏の風がカーテンを揺らす。
光の粒が床の上で踊る。
その瞬間だけ、胸の奥が少し温かくなる。
「ねえ、聞いた?」
前の席の女子の声が、ふと耳に入った。
「またいなくなったんだって。昨日の夜」
「え、また? この前の子も見つかってないのに?」
「うん。でもね、変な話なの」
彼女たちは小さく身を寄せあって、囁くように続けた。
「いなくなった子、昨日のお祭りの写真に写ってたんだって。笑ってたって」
「なにそれ、怖……」
「でも本当だよ。先生が言ってた。どこにもいないはずの子が、写真に写ってたって」
笑い交じりの声。
けれど、紗夜の心は小さく波立った。
――笑ってた。
その言葉が耳に残る。
いつから笑っていないだろう。
顔の筋肉がどう動けば笑えるのか、もう忘れてしまった気がした。
チャイムが鳴っても、しばらく動けなかった。
机の上で指を組んで、ぼんやりと光を見ていた。
「……もし、私もいなくなったら」
小さく口の中で呟く。
それは願いにも似た言葉だった。
***
その夜。
父は帰ってこなかった。
空っぽの部屋に、時計の針の音だけが響いている。
テレビの画面には、賑やかな祭りのニュース。
浴衣を着た子どもたちが、提灯の下で笑っていた。
紗夜は、思わずその画面に手を伸ばした。
ガラスの冷たさが指先を刺す。
光の中の子どもたちは、まるで別の世界に生きているようだった。
――あの子たちは、本当に幸せなのかな。
――もし本当に、いなくなった子が写ってるなら……。
胸の奥で何かがざわめいた。
気づけば、靴を履いていた。
外は風が強く、空には星が少なかった。
公園までの道を歩く。
夜風が頬をなで、街灯の明かりが時々ちらついた。
公園のブランコは誰もいないのに、風に揺れて音を立てている。
その音が、まるで誰かの囁きのように聞こえた。
ベンチに腰を下ろすと、草むらの影がかすかに動いた。
目を凝らすと、そこに一匹の猫がいた。
黒くて、小さくて、瞳だけが夜の光を映していた。
紗夜をじっと見上げる。
どこかで見たような、不思議な目だった。
「……こんばんは」
声をかけると、猫は一歩だけ近づいてきた。
逃げない。
まるで、紗夜を待っていたみたいに。
風が通り抜け、鈴のような音がかすかに響いた。
どこから聞こえたのかわからない。
でも、その音に、胸が少しだけ温かくなった。
紗夜は小さく笑った。
とても久しぶりに。
暗闇の向こう側 保科早里 @kuronekosakiri
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