9.────異声

──不意に空気が変わった。

現実が遠のき、何か異質なものに包まれる感覚。

非現実の世界に足を踏み入れたような気がした。


真結は目を伏せ、無言のまま澪の手を握り直した。

その手は冷たく、指先に力がこもっていた。

互いの不安を確かめ合うような仕草だった。


蓮司は眉をひそめ、老人の言葉を聞き返した。

「…は? 今なんて?」

その声には、理解を拒むような硬さがあった。

言葉の不気味さに、思わず身構えるような反応だった。


老人はゆっくりと蓮司の方を見た。

その目から鈍い光が消え、微かな哀れみが滲んでいた。

まるで、抗えぬ流れに呑まれていく者を静かに見送るようだった。


になったのだ……“繝ウ繝縺ィ”の……」


老人の言葉には、理解できない音が混ざっていた。

先程とは違う、ノイズのような声──

“獲物”という言葉だけが、異様に強調され、頭にこびりつく。


何かがおかしい。 その気配を感じながら、直也が恐る恐る口を開いた。

「……神様を怒らせたってことですか…その…祟りとか…?」


声は震え、言葉の選び方にも迷いが見えた。

何かしらの理屈で説明できるなら、まだ救いがあるような気がしていた。


ふいに、老人の首が小刻みに震え始める。

目は再び、ぎょろりと見開かれ、鈍い光は焦点を失っていた。

胴体はまるで固定されたかのように動かず、その異常さが際立つ。

口をパクパクと開きながら、絞るような声が漏れ出た。


「……違う!あれは……縺ェ縺」縺溘%縺、、、」


──人の声でないものが混ざっている。

首が縦に、横に、ぎこちなく揺れる。

その振動は次第に速度を増し、直也は目を離せぬまま、じりじりと後ずさった。

鈍い眼の光が、縦横無尽に暴れまわる。


「ころ……繝ウ……す……縺ウ縺……峨──」

その言葉の最後は、誰にも届かなかった。


風が震えた──

まるで、何かが通り過ぎたかのように。

ごく一瞬の風切り音が、場をかすめた。

空間そのものを、引き裂くような感覚。

そこで、老人の言葉は途切れた。


老人の目が見開かれる。 喉元に、細く鋭い赤い線が走っていた。

一筋の血が、筆で描いたように横一文字に広がっていく。

四人は息を呑み、視線がその傷口に釘付けになる。

さらなる異変が、混乱した思考に波紋を広げていく。


老人の口の端から、赤い液体が静かに流れ落ちた。

その血は顎を伝い、ぽたりと地面に落ちる。

その口元は、わずかに歪んでいた。

それは、どこか笑みにも見えた。

安堵か、哀れみか、あるいは解放か── 静かで、複雑な表情だった。


溢れる血に押し出されるように、ずず、ずず、と頭部が前へゆっくりと滑り始めた。

そして重力に導かれ、地面に沈むように落下した。

鈍い衝撃音が響き、わずかに転がる。

土と皮膚が擦れ、ざらりとした感触が耳にこびりつくように残った。

誰一人として動けずにいた。


首の無い胴体だけがそこに立っている。

崩れることなく、異様な静けさの中で、その場に留まり続けていた。

血がゆっくりと切断面から滴り落ち、地面に赤い模様を描いていく。


澪は足元の力が抜け、崩れるように地面に尻もちをついた。

転がる首と、立ち尽くす胴体を何度も交互に見つめながら、震える声を絞り出す。

「……え?ちょ…なに!?なになになに!?」

声が裏返り、悲鳴に近い叫びが静寂を裂いた。


真結がすぐに澪を抱きしめ、震える腕でその視界を塞ぐ。

「……見ちゃだめ」

そう呟く真結の肩も、細かく震えていた。


蓮司が、混乱した声で呟いた。

「どうなってんだよ…これ…意味わかんねぇって…」


「……ちょっと黙って。何か…聞こえる」

直也が言葉を遮るように静かに言った。

蓮司の方を見ることなく、祠の方角に視線を固定したまま、耳を澄ませている。

その横顔には、張り詰めた静けさと、ただならぬ気配への警戒が滲んでいた。


──キィィ。


草木が風に擦れる音に紛れて、微かに響く異音。

自然の音ではない。冷たく、硬質で、耳の奥を刺すような金属の擦れる音。


──キィィン……。

空気が震える。

その音が鳴るたび、森の温度が一度ずつ下がっていくような錯覚に陥る。

音は、先ほどよりもわずかに近い。


「……この音」

蓮司が呟いた。声は震え、言葉の先を見失っていた。


──キィン……キィィン……。


間隔が短くなっていく。

音が、森の奥から少しずつ、確実にこちらへ向かっている。


四人の背筋を、ぞくりと恐怖が撫でた。

それは、さっきと同じ感覚──

死の気配が近づいている。

闇が、再び襲いかかろうとしていた。


「逃げろ!」

直也が咄嗟に叫んだ。

その叫びは、森の異音をかき消すように、一本道に響き渡った。


澪は足に力が入らず、立ち上がれなかった。

直也と真結がすぐに駆け寄り、両腕を引いて無理やり立たせる。

澪は一瞬戸惑いながらも、引かれるままに足を動かし始めた。


蓮司はそれを確認すると、すぐに走り出す。

足がもつれそうになりながらも、全力で前へと駆けた。

背後から闇が迫り、飲み込まれそうな感覚があった。

抑えていた恐怖が、一気に沸きあがってくる。


アスファルトを蹴る音が鋭く響く。

荒い息遣いと足音が、道の上に響き続ける。


去っていく四人の背後で、首のない老人の胴体が膝から崩れ落ちる。

力を失った肉体はゆっくりと傾き、地面に沈むように倒れた。

まるで地面に吸い込まれるように、音もなく。


──静寂の中に、ただ、それだけが取り残された。

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