棟梁と現存在

もしもノベリスト

第一章:冷たい階段

神崎健(かんざきたけし)は、音で木の機嫌を測る。


「……シュル、シュル……」


新品の鉋(かんな)が、集成材の手すりを撫でる。健の耳には、その音がやけに甲高く、不機嫌に響いた。まるで、喉の渇きを訴えているようだ。


(違う。お前が求めてるのは、その音じゃねえだろ)


健は手を止め、鉋の刃を親指の腹でそっと撫でた。完璧に研ぎ澄まされ、鏡のように光る刃。技術に一点の曇りもない。図面通り、ミリ単位の狂いもなく、手すりは滑らかな曲線を描いて二階へと続いている。


ここは、都心に近い新興住宅地に建てられた、モダンデザインの注文住宅。健の神崎工務店が内装の仕上げを請け負った現場だった。


「完璧だ。健さん、さすがだね」


背後から声がした。現場監督が、タブレット端末を片手に満足そうに頷いている。

「納期もぴったりだし、施主さんも喜ぶよ。この手すり、まるで工芸品だ」


健は無言で頷き、鉋屑を拾い上げた。紙のように薄く、くるりと巻いたそれは、しかし、健が知っている「木の香り」がしなかった。ツン、と鼻をつく接着剤の匂い。彼が子供の頃に嗅いだ、祖父の工房を満たしていた匂いとは似ても似つかない。


「……施主さんは、いつ見に来られるんですか」

「ああ、今日だよ。もうすぐ着くんじゃないかな」


その言葉と同時に、玄関のほうが騒がしくなった。

施主である夫婦が、期待に満ちた表情で入ってくる。四十代前半、身なりの良い二人だ。


「わあ……! すごい、図面通り!」

妻が歓声を上げる。彼女はまっすぐ階段に歩み寄り、磨き上げられた手すりにそっと手を触れた。


健は、自分の仕事が評価されるその瞬間を、緊張と共に待った。職人にとって、施主の「ありがとう」の一言こそが、技術への対価だ。


だが、妻の表情が、次の瞬間、わずかに強張った。

彼女は手すりを握り直し、数歩、階段を上がっては下りる。そして、戸惑ったように夫を振り返った。


「あなた……どう思う?」

「どうって……素晴らしいじゃないか。滑らかで、寸分の狂いもない」

「そう、そうなんだけど……」


妻は再び手すりを撫でた。その指先の動きに、先ほどの弾むような喜びはなかった。

「……なんだか、冷たいの」

「冷たい? 木材だぞ?」

「違うの、温度じゃなくて……なんて言ったらいいんだろう。完璧すぎて、怖い」


怖い?

健の眉がピクリと動いた。聞き間違いかと思った。


妻は困ったように言葉を探した。

「息が詰まる、っていうか……。まるで、精巧な『モノ』みたいで。触れても、私の手に馴染んでくれない感じがするんです」


夫は「考えすぎだよ」と笑ったが、妻は納得していない顔だった。

健は、握りしめた拳の指が、汗でじっとりと濡れるのを感じた。反論の言葉が喉でつかえ、ただ施主の顔を見返すことしかできなかった。


技術には自信があった。誰よりも丁寧に、正確に。それが神崎工務店の三代目を継ぐ自分の「本質」だと信じていた。だが、その完璧な技術の結晶が、今、「怖い」「モノみたいだ」と拒絶された。


その日以来、健は深刻なスランプに陥った。

鉋を握っても、刃が木に食い込まない。鑿(のみ)を打つリズムが、わずかに狂う。あの施主の妻の、「冷たい」という言葉が耳から離れない。


(俺のやってきたことは、ただの「モノ」作りだったのか?)


安価で、無機質で、ただの「箱」としての家。それが最近の主流だ。SNS映えするデザイン、効率化された建材。その中で、手間のかかる手仕事(=技術)の意味とは何なのか。


眠れない夜が続き、健は、何かに導かれるように、今は物置となっている祖父の工房に足を踏み入れた。

埃っぽい匂い。古い木の油が染み付いた、懐かしい香り。その一角に、祖父の遺品である書物が山積みになっている。その中の一冊が、なぜか健の目を引いた。


『存在と時間』


哲学書など、生まれてこのかた読んだこともない。だが、ボロボロになったその本の表紙には、祖父の丸っこい、力強い文字が書き込まれていた。


「タケシへ。迷ったら、これを開け」


健は、まるで禁忌に触れるかのように、その本を開いた。意味不明なカタカナと漢字の羅列。頭が痛くなる。

「……サッパリわからん」


投げ出そうとした瞬間、あるページに、祖父の筆跡でびっしりと書き込みがされているのが目に入った。


『道具存在(Zuhandenheit)』

『事物存在 (Vorhandenheit)』


その二つの言葉に、赤黒いインクで何度も丸が付けられている。


『道具存在とは、それが「在る」ことを忘れ、行為と一体化すること。ハンマーは手を延長する。』

『事物存在とは、それが「モノ」として目の前に在ること。壊れたハンマー。』


健は、雷に打たれたように立ち尽くした。

あの階段が、フラッシュバックする。


(あの階段は、「モノ」として完璧すぎたんだ。だから「事物存在」として、施主の目の前に立ちはだかった)


施主は「階段」という「モノ」を客観的に観察し、その完璧さに息が詰まったのだ。

もし、あの階段が、施主の「登る」という行為と一体化し、その存在が意識から消える「道具存在」であったなら。


祖父の書き込みが、健の胸に突き刺さる。


「これだ。ワシらの仕事は、こっち(道具存在)だ」

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