みかんジュースの光、村の声

共創民主の会

第1話 海の見える議会――数字の向こうに、人がいる

標題:大川村通信――三月十五日の記憶


 この村に来たら、報道の原点を思い出した。


 午前八時四十五分、高知県大川村役場。木造の廊下が靴底を吸い込むようにきしむ。窓からは土佐湾が見える。村長室のドアを開けると、みかんの香りが先に出迎えた。


「よう来てくれた。寒いだろう、これでも一服」


 村長は自前のポットから手作りジュースを注ぐ。グラスの縁に薄く残った果肉が、朝の光に透ける。


「兼業条例、どう思う?」


 切り出しながら、私はメモを開いた。四月施行の「議員兼業明確化条例」。定数六に対し、今年は八年ぶりに八人が立つ。キーワードは「副業」。村の請負収入の五〇%以下なら、議員報酬と両立できる。シンプルなようで、実は複雑だ。


「請負関係の五〇%基準、これが一番悩ましいところや」


 村長は眉間に皺を寄せる。


「例えばな、海の仕事でイカ釣り請負うたとき、漁獲高が村の市場に全部入れば、それは村の事業収入になるわけや。でも実際は天候や船の老朽化で、予測が難しい。議員になろう思うたら、まずエクセル開くんやろうけど、漁師にそんな器用なこと、でけんのや」


 私は「でけん=できない」とメモし、隣に座る総務課長・山本さんが補足する。


「制度設計は国のモデル条例を参照しましたが、『生活の場』をどこまで数値化するか。これがポイントでした。最終的に、『生活の場』=『収入源』という単純な式に落ち着きましたが、正直、歯切れの悪さは残ります」


 村長はみかんジュースを一息飲み、苦笑い。


「でもな、若いもんに挑戦してもらわんと、村は終わる。制度はあくまで誘いの水や。使い方は人次第」


 時計は九時半。私は役場を後にし、海沿いの県道を十五分走って商店街へ向かった。


 ――


 喫茶「かつお」は、昭和の匂いが詰まった小店だった。カウンターに並ぶレモンスライスは、地元の無農薬レモン。本田義郎会長は、それを爪楊枝でつまみながら話し始めた。


「条例ができる前は、立候補するやつが『村の金で飯を食う気か』って、バチが当たってな。今は逆に、『自分の仕事を持ちながら村を守れる』って、肩身が広い。若いもんが増えたのは、その気持ちの差や」


「具体的には?」


「例えば、移住してきた建築士の山崎くん。家を建てる仕事しながら議員になれる。彼に言わせると『仕事の現場で困ってる声が、そのまま議会に持ち込める』んやって。理屈じゃなく、生活者視点の制度設計や」


 レモンの酸味が、彼の言葉に爽快な後味を添える。


「会長はどう思います? 村の未来は」


 本田さんは窓の外を見た。通りを走る小学生の声が遠く響く。


「村の未来は若者の手に。繰り返しになるが、こればっかりは変わらん。俺らの役目は、あんたたち記者が『事件』みたいに騒ぐんじゃなくて、あの子らの背中を押すことや」


 私は「事件」と聞いて、胸が少し痛くなった。編集部の指示が、頭をよぎる。


 ――


 午後二時、移住者・山崎翔太さん(32)の家は、海を見下ろす小高い丘に建っていた。元地域おこし協力隊。二年間の任期を終えた去年、定住を決めた。


「実は、任期中に村議選を目指すつもりはありませんでした。でも、条例の話を聞いて、『自分の仕事を続けながら議員になれるなら』と思い直したんです」


 リビングには、彼が手がけた木の建具が並ぶ。檜の香りがする。


「今日、本田会長に『村が自分を必要としてくれた』と言われて、涙しました。東京では味わえない感覚です」


 私はスマホを開き、編集長からのLINEを確認。


【吉田】


「数字が足りん。立候補者増加率をデータで示せ。移住者出馬=活性化、これが見出し。写真は若手候補の顔アップで」


 タイムスタンプは三分前。翔太さんの涙と、編集長の指示が、頭の中で重なった。


 ――


 夜七時、民宿「潮騒」。古いアパートを改装した宿の一室で、私はノートPCを開いた。原稿用紙モードの画面が白く浮かぶ。


 キーボードを叩きながら、みかんの皮を剥く手つきが頭から離れない。


 データは揃っている。


・定数六に対し立候補者八人


・過去三回は無投票だった


・新規立候補者の半数が移住者


 だが、これで「活性化」という言葉が本当に蓋をできるのか。


 私は翔太さんの言葉を再生する。


「村が自分を必要としてくれた」


 必要とされること。それは数字にできるだろうか。


 スマホが震える。吉田編集長から着信。


「原稿、どうだ?」


「今、まとめています」


「見出しは『若者が動いた高知の村』で決まり。サブで『議員副業解禁、八年ぶり選挙戦』。写真は若手三人の顔を並べて、インパクト重視だ」


「……はい」


「どうした、元気ないな」


「いえ、ちょっと風邪気味で」


「早く仕上げろ。締切は九時だ」


 通話が切れる。画面の時計は八時四十分。


 私は一旦PCを閉じ、窓を開けた。海の音が近い。街灯に照らされた防波堤が、白く浮かぶ。


 今日出会った声が、重なる。


 ――制度はあくまで道具。村を動かすのは人の温かさ


 本田会長の言葉だ。


 私はPCを再び開き、見出しを一文字ずつ消した。


『若者が動いた高知の村』→ 消す


『議員副業解禁、八年ぶり選挙戦』→ 消す


 新たに打ち始める。


『海の見える議会――大川村が教えてくれた“兼業”という生き方』


 原稿の最初に、こう書いた。


〈三月十五日、高知県大川村を歩いた。定数六に対し八年ぶりに立候補者が八人集まった。理由の一つは四月施行の「議員兼業明確化条例」だ。だが、私は数字よりも、もっと小さな喫茶店で出会ったレモンのスライスを忘れられない。〉


 九時五分、原稿を送信。すぐに吉田編集長から返信が来た。


【吉田】


「リードが長い。数字を前に出せ。写真は若手三人で」


 私は深呼吸して、こう返した。


「申し訳ありません。今日の記事は、私の“人間の物語”にしたいです。数字は後付けでも、心は先に書きたい。ごめんなさい」


 返事は来なかった。でも、私の指はもう次の原稿に向かっていた。


 海の音が、キーボードのリズムに重なる。


 明日の朝、新聞の紙面はどうなるか。私にはわからない。でも、今夜の私は、データより人間の物語を書く記者でいたい。


 窓の外、満月が道を照らす。大川村の三月十五日は、静かに眠りにつこうとしている。


 私はみかんジュースのグラスを持ち上げ、誰にも聞こえないように呟いた。


「制度はあくまで道具。報道も、また同じだ」


 そして、原稿の最後に一文を追加した。


〈村の未来は若者の手に、と自治会長は言った。私も、未来は読者の手に託したい。だから、今夜は“人間の物語”を書く。データは、朝刊の別記事でお詫びします〉

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