七番目のウワサ

 どこの学校にも、「七不思議」というものがある。


 私、相川凛あいかわ りんがこの春入学した北中学校にも、もちろんそれは存在した。


 一、理科室の動く人体模型。 二、三階女子トイレのハナコさん。 三、ベートーベンの目が合う音楽室。 四、誰もいないのに跳ねる体育館のボール。 五、赤く染まるプールの水。 六、十三階段。


 そして――


「ねえ、リン」


 放課後の教室。私は、新しくできた友人――アスカとミキに囲まれていた。 リーダー格のアスカが、わざとらしく声を潜める。


「七番目、ってなんだか知ってる?」


 私は、教科書をカバンにしまいながら、興味なさそうに「知らない」と答えた。 13歳にもなって、そんな非科学的な噂を本気にする気にはなれなかった。


「だよね!」アスカは目を輝かせた。「誰も知らないんだよ。ウワサによると、六番目まではただの前座で、七番目だけが『本物』なんだって」


「本物って……幽霊?」 臆病なミキが、不安そうに眉をひそめる。


「そう。だから、絶対に探しちゃいけないし、口にしてもいけないって。でもさ」


 アスカは、ニヤリと笑った。


「今夜、私たちで『七番目』、確かめない?」


 肝試し。 中学生になった私たちが、友情を確かめるためにしたがる、典型的な儀式だ。 私は「馬鹿馬鹿しい」と思ったが、この二人と仲違いして、このクラスで孤立する方がよっぽど怖かった。


「……いいけど。どうやって?」


「簡単だよ」とアスカは言った。「ウワサの『儀式』があるの」


 その儀式とは、こうだ。


 日付が変わる午前0時。 校舎に忍び込み、一から六までの不思議を、順番通りに回る。 すべてを回り終えた者が、最後に「七番目」の場所にたどり着ける、と。


「……行くの?」ミキが震えている。 「当たり前じゃん! リンも来るよね?」


 私は、小さく頷くしかなかった。


 その夜。


 午後11時50分。私たちは、用務員室の裏にある、壊れかけたフェンスの隙間から校庭に忍び込んだ。 月明りが、校舎を青白く照らしている。


「さっむ……」 ミキが腕をさすっている。まだ五月だというのに、夜の空気は冬のように冷え切っていた。


 アスカが、勝手口の鍵をピッキング用の細い針金でいじっている。 「こういうの、得意なんだ」 不良ぶる彼女に呆れつつ、私は暗い校庭を見回した。


 昼間はあれほど騒がしい学校が、今は巨大な生き物の死骸のように、静まり返っている。


 カチャリ。


 小さな音を立てて、扉が開いた。


 途端に、カビと、埃と、チョークの匂いが混じった、学校特有の「夜の匂い」が私たちの鼻をついた。


「よし、行くよ。最初は理科室」


 アスカを先頭に、私たちは懐中電灯の細い光だけを頼りに、一階の廊下を進んだ。


【一、理科室の動く人体模型】


 理科室の扉は、鍵がかかっていなかった。


 ギィ……


 湿った音を立てて扉が開く。 ホルマリンの匂い。暗闇に、無数のビーカーやフラスコがぼんやりと浮かび上がっている。


 そして、部屋の奥。


「いた……」


 月明りに照らされて、そいつは立っていた。 半分内臓がむき出しになった、不気味な人体模型。


「ほら、何も動かないじゃん」 アスカが強がって、模型の顔を懐中電灯で照らす。


 その、プラスチックの無機質な目が、私たち三人を見つめ返している。


「ねえ、もう行こうよ!」 ミキがアスカの袖を引いた、その時だった。


 カタ


 小さな音がした。


「え?」


 三人の視線が、人体模型に集中する。


「……気のせいだよ」アスカが言った。「風で……」


 理科室の窓は、すべて閉まっていた。


 私は、人体模型の「左腕」が、さっきより数センチ下がっていることに気づいた。


「次、行こう」 私は、二人の背中を押して、理科室から逃げ出した。


【二、三階女子トイレのハナコさん】


 階段を上るたび、空気が重くなっていく気がした。 三階の、一番奥にある女子トイレ。


「ミキ、あんたが呼んで」 「やだ、アスカが言いだしっぺじゃん!」 「いいから!」


 アスカに押し出され、ミキが泣きそうになりながら、奥から三番目の個室のドアを叩いた。


「……ハナコさん、いらっしゃいますか」


 シーン……。


 古いタイルの床に、私たちの影が落ちているだけだ。


「ほら、いない。次、音楽室!」 アスカが踵を返そうとした。


 ドン!


 突然、私たちが今ノックした個室の「内側」から、誰かがドアを叩き返した。


「「「ひっ……!!」」」


 ドン! ドン! ドン!


 激しいノックの音。 まるで、内側から「開けろ」と叫んでいるかのようだ。


「逃げて!」


 私たちは、転がるように階段を駆け下りた。


【三、ベートーベンの目が合う音楽室】


 二階の音楽室に着いた頃には、三人とも息が上がっていた。 「……今の、絶対いたよね」 ミキが泣き出している。


「うるさい! 気のせいだって!」 アスカは、自分に言い聞かせるように叫んだ。


 私は、さっきからずっと感じている違和感を口に出せずにいた。 (誰かに、見られている……)


 音楽室の重い扉を開ける。


 無数の机と椅子。 そして、正面の壁に飾られた、ベートーベンの大きな肖像画。


「目が合う、か」


 私が懐中電灯で肖像画を照らす。 厳しい顔つきのベートーベンが、暗闇の中から私たちを睨みつけていた。


「ほら、ただの絵じゃん」 アスカがそう言って、明かりを消した、瞬間。


 ポロ……ン


 部屋の隅にあるグランドピアノから、甲高い音が一つ、鳴り響いた。


 三人とも、声が出なかった。 誰もピアノに触れていない。


「……もう、帰ろう」ミキが言った。「私、もう無理」


「ダメだよ!」アスカが叫んだ。「六番目まで行かないと、儀式が完成しない!」


 アスカは、恐怖よりも「儀式をやり遂げる」という興奮が勝っているようだった。 私は、この時、本気でアスカが恐ろしくなった。


 その後も、私たちは儀式を続けた。


【四、体育館のボール】


 体育館の倉庫の扉を少しだけ開けると、暗闇の中で、バスケットボールが一つだけ、ダム……ダム…… と、低い音を立てて勝手にドリブルしていた。


【五、赤く染まるプールの水】


 屋外のプールサイド。月明りに照らされた水面は、ただの青だった。 「なーんだ」とアスカが笑った。 私が、懐中電灯の光を水面に向けた。


 光が当たったその場所だけが、まるで血を溶かしたかのように、じわり、と赤く染まっていた。


【六、十三階段】


 北校舎と南校舎をつなぐ、古い渡り廊下の階段。


「12段しかないはずなのに、夜中に上ると13段になってる、ってウワサだよね」


「数えるよ」


 アスカが、一段ずつ、声に出して数えながら上り始めた。


「……いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう、じゅういち……」


 彼女は、踊り場で立ち止まった。


「……じゅうに」


 アスカが、一番上、南校舎の廊下を踏んだ。


「ほら、12段じゃん」


 私とミキも、ほっとして後に続いた。


「じゅういち……じゅうに」


 私が、最後の段に足をかけた、その時。


 アスカの背後。


 私たちが今上りきった階段の「上」に、もう一段、存在しないはずの「十三段目」が、ぼんやりと現れていた。


 そして、その段の上には、濡れた足跡が、二つ、ついていた。


「……アスカ」


「なによ」


「うしろ」


 アスカが、ゆっくりと振り返った。


 そこには、何もなかった。 十三段目も、足跡も、消えていた。


「リン、脅かさないでよ!」


 違う。 今、確かに、あった。


「……終わった」 アスカが、安堵と興奮の混じった声を出した。「一から六まで、全部回ったよ! これで……」


「……これで?」


 私は、アスカに問いかけた。


 南校舎の廊下。


 午前0時20分。


「七番目の場所に、行けるんでしょ?」


「そうだよ!」アスカは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。「儀式は成功。ウワサによると、七番目の場所は……『旧焼却炉』だ」


 体育館の裏にある、今は使われていない古い焼却炉。


「行こう!」


 アスカが走り出す。 ミキが、慌てて後を追う。


 私は、動けなかった。


 違う。


 頭の中で、バラバラだったピースが、カチリ、と音を立ててはまっていく。


 懐中電灯の光が、ふ、と揺れた。


(一、理科室。私たちは、模型の『左腕』が動いたのを見た)


(二、トイレ。私たちは、ノックの『音』を聞いた)


(三、音楽室。私たちは、ピアノの『音』を聞いた)


(四、体育館。私たちは、ボールが跳ねる『動き』と『音』を見た)


(五、プール。私たちは、赤く染まる『色』を見た)


(六、階段。私は、十三段目という『形』と、足跡を『見た』)


 私たちは、六つの怪異を、すべて「体験」してしまった。


「リン! 早く来なよ!」


 廊下の向こう側から、アスカの声がする。


 私は、冷え切った体で、ゆっくりと振り返った。 十三階段があった場所。


 違う。


 ウワサは、間違っている。


 七番目の「場所」なんて、ない。


 一から六まで、すべてを体験し、


 六つの怪異を、その身に集め、


「七番目」の存在に、


「気づいてしまった」


 私が、


 私こそが、


「七番目」なんだ。


「リン……?」


 戻ってきたアスカが、私の顔を覗き込む。


 私は、アスカに向かって、ゆっくりと顔を上げた。


 私は、笑っていた。


「見つけた」


 アスカの顔が、恐怖に歪む。


「……なに、あんた……どうしたの、リン……」


 私は、自分の左腕が、ギギギ、と音を立てて動くのを感じた。 口を開くと、水浸しのハナコさんのように、ゴボゴボ、と水が溢れた。


「アスカ」


 私の声は、ベートーベンが奏でる、ピアノの低い不協和音になっていた。


「一緒に」


 私の足は、体育館のボールのように、その場で高く跳ね始めた。


「遊ぼうよ」


 私の目から、プールの水のように、赤い涙が流れ落ちた。


「十三回」


「……いやああああああああああああああああ!!」


 アスカとミキの悲鳴が、深夜の校舎に響き渡った。


 ――翌日、相川凛は、行方不明になった。 警察も、両親も、必死に探したが見つからなかった。


 北中学校の「七不思議」のウワサは、少しだけ内容が変わった。


 一から六までは、変わらない。


 だが、七番目。


『六つの怪談すべてを体験した者は、七番目の怪談そのものとなり、次に儀式を行う者を、永遠に校舎で待ち続ける』


 ねぇ。


 あなたも、


 確かめに、


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