第5章 「鈴の余韻」


第5章① 「黎」

空は、静かに沈みはじめていた。


雨上がりの雲が、まだ街の端を名残のように引きずっている。

遠くで電車の音が途切れ、かわりに風が、濡れた葉の間を渡っていった。


私は、あの青年のアトリエを出たあと、無意識のうちに喫茶店へ向かっていた。

歩くたびに、靴底が湿った石畳を吸い、キュッと小さな音を立てた。

石畳を見ると、沈み始めたオレンジの光が柔らかに反射していた。

──あの絵の光の反射と同じ色だった。


喫茶店のドアを押すと、鈴の音が、いつもより一拍遅れて響いた。


「…カラカランカラン」


誰もいない。

小さなスポットライトが、カウンターの上に置かれた冷めかけたコーヒーと、開いたままのスケッチブックを照らしていた。

スケッチブックを覗くと、鉛筆で描かれた“輪郭”だけの顔があった。

目も口も、まだ描かれていない。

それでも、私はその線のひとつひとつに、見覚えがある気がした。


「……来てくれたんですね」


振り向くと、マスターが立っていた。

変わらない穏やかな声。

だが、少しだけ疲れたような笑みを浮かべていた。


「この顔、見覚えがありますか?」

私がそう尋ねると、マスターは静かに頷いた。

「ええ。これは、妻が最後に描いた下絵です。

 まだ“誰”を描くか、決まっていなかった頃の。」


“誰でもない顔”。

あの青年のアトリエで見た、あの“間”のような顔と重なった。


「……E・Nというサイン、覚えていますか?」

マスターの手がわずかに震えた。

「ええ。あれは……“Elena Nord”。妻の名です。

 彼女は、自分を描くことを恐れていた。

 けれど、描かずにはいられなかったんです。」


私は、青年の言葉を思い出した。


「──描くというのは、相手の中に自分を置いてくること。」


もしかしたら、Elenaは“描く人”であり、同時に“描かれる人”でもあったのかもしれない。

そして今、誰かの中で、その記憶が息をしている。


マスターはカウンターの下から、古びた木箱を取り出した。

蓋を開けると、中には乾きかけた絵筆と、薄く折れた写真が一枚。

それは、青年と並んで笑うElenaの姿だった。

白いスカーフ、淡い光、どちらが師でどちらが弟子か分からないほど似た横顔。


「この店は、もともと彼女のアトリエでした」

マスターの声が少し霞んだ。

「雨の日は、よくここで絵を描いていましたよ。

 “光が来る場所を待つ時間が、一番絵に近い”と、よく言っていました。」


私はその言葉を聞きながら、窓の外を見た。

光が傾き、街の隙間を最後の陽がゆっくり横切った。

その瞬間、時間がふっと途切れた気がした。


気づけば空にはもう、月が出ていて、

さっきまでの橙が、静かな銀に溶けていく。

そのわずかな移り変わりの中に、

“絵が息をする音”が確かにあった。


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第5章② その夜

部屋に灯りをともすと、静寂が一層濃くなった。

机の上にスケッチブックを広げ、私はゆっくりとページをめくる。

描きかけの絵をぼんやりと眺めながら、白紙のページを探した。


スケッチブックを開いたまま、目を閉じて思考とじっくりと向き合っていた。


昼間に見たあの絵――

途中で断ち切られた線、そしてそこに宿っていた微かな温度。

新聞を折りたたむ音。

古本屋で聞いた戦争とマスターの奥さんの話。

喫茶店の絵と、アトリエの鏡写しに描かれた絵。

「──描くというのは、相手の中に自分を置いてくること。」


私は鉛筆を手に取り、その記憶をなぞるように描きはじめた。


線を引くたびに、あの店の空気やコーヒーの香り、マスターの声が蘇る。

描きながら、私は思う。


――私は、誰を描いているのだろう。

そして、誰に描かれているのだろう。



外では風が月の光を揺らし、カーテンの影が静かに揺れていた。


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第5章③ 暁


翌朝。

夜の湿り気が消え、青々とした爽やかな太陽が街を包んでいた。

昨夜は絵に夢中になってあまり眠れなかった。

まだ朝靄の残る時間だったけど、私はスケッチブックを胸に抱えてあの店を訪ねた。


喫茶店までの道は雨上がりで透き通っていて、

昨夜の光の残り香が、どこかにまだ漂っているようだった。


ドアの前に立つと、マスターが中で掃除をしていた。

私に気づくと、静かに会釈をして、鍵を外してくれた。


「早いですね。今日は、窓から差し込む光が綺麗ですよ。」


差し込む朝日は、昨日の夕日とは違っていた。

柔らかく、透明で、今までのことをリセットしてくれるような光。

カウンターの上のスケッチブックは閉じられていたが、

その横に、新しいキャンバスが立てかけられていた。

そこには、薄く下塗りだけが施されている。

まだ何も描かれていないのに、不思議と“誰か”の気配があった。


「これは……?」

「アトリエの彼が、昨夜ここに置いていったんです。

 “これで終わりです”と言って。」


マスターは穏やかに笑って、続けた。

「でも、終わりじゃないんですよ。

 描くというのは、続けていくことですから。」


私は頷いた。

マスターは私の頷きに穏やかに微笑み、

昨夜描いた"半分の絵"の模写を、持ってきたスケッチブックの表紙を眺めながらなんとなく思い出していた。


「あなたも、誰かに描かれている人なんですね。」


不意にマスターが言った。


「……どうして、そう思うんです?」


「その目を見れば分かります。

 “まだ描かれていない何か”を見つめる人の目だ。」


私は返す言葉を失い、ただ微笑んだ。

スケッチブックの表紙が、艶で眩しくみえた。

その光の中に、確かに“半分の肖像”が揺らいでいた。

だがそれはもう、誰かのものではなかった。

描く人も、描かれる人も、境界を失い、ただ光と影のあわいに溶けていく。


──鈴の音が再び鳴った。

風が入り、ページがひとりでにめくれる。

白紙の中に、遠い声が滲んだ気がした。


「名前のないまま残る絵が、一番正直だから。」


光が静かに消え、残ったのはコーヒーの香りと、湿った空気。

私はそっとスケッチブックを閉じた。

この絵はまだ終わっていない。

そして、私の中の誰かもまた――まだ、描き終えていないのだ。

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