第2話 新聞
あの絵は、壁の一番奥に掛けられていた。左の半分が消えている。
「探してみてほしい」と言われたとき、私はなぜか頷いていた。
それが何を意味するのか、まだ知らないままに。
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カウンターの端で、紙がゆっくりと擦れる音がした。
ふと振り向くと、湯気の向こうで香りが少し変わった。
甘くて、苦くて、どこか焦げたような。
バニラと深煎りの豆が混ざる匂いが、光の筋に溶けて漂っていく。
まるで、この店が一瞬だけ違う時代に息づいたようだった。
その混ざりあう香りの中で、時間が少しだけ逆流しているように感じた。
男は眼鏡をずらし、いつの時代かもわからない新聞の活字を追うわけでもなく、遠くを見つめていた。
その視線の先には、湯気に包まれた“誰かの記憶”があるように思えた。
マスターが目で合図を送る。私はその隣の席にそっと、腰を下ろした。
「その絵のことを、聞きたいのかい」
新聞の隙間から、低く湿った声が漏れた。
「はい。……左側が消えた理由を」
ページが静かに折り畳まれる。
紙の擦れる音が、ひとつの時代を閉じるように響いた。
外では風が看板を揺らし、カラン、と鈴の音が転がった。
男はじっとカウンターを見つめ、しばらく黙っていた。
瞳の奥で、何かを確かめているようだった。
「戦争だよ」
その言葉は、灰を含んだように重かった。
眼鏡を外した彼の瞳は、まだ遠い炎を映しているようだった。
「──あれはな、奥さんが描いたんだよ」
男は新聞を畳んだまま、変わらずカウンターを見つめながら言った。
まるで、長い記事の続きを音読しているように。
指先がカウンターをなぞる。
皺の間にこびりついた灰の粒が、光を受けてかすかにきらめいた。
「描いても、描いても、顔の半分が浮かばなかった。
思い出せないってのは、残酷なもんだ。
あの戦火の中じゃ、誰もが何かを失ってた。
名前も、顔も、……明日もだ」
声は記録でも告白でもなく、夢の残響のようだった。
私は息を殺し、湯気の向こうでその言葉を受け取る。
手帳を開く。けれど、ペン先は動かなかった。
書くよりも、彼の“間”を記憶しておきたいと思った。
「疎開先に行ったきり戻らなかったって話もある。
あるいは、焼け跡に埋もれたままかもしれん。
誰も確かめようとはしなかった。……怖かったんだろうな」
カップの表面に光が落ち、微かに波打った。
静寂が沈んでいく。時間が、底のない水面に吸い込まれていくようだった。
私は手帳を開いたが、ペン先は動かなかった。
書くよりも、彼の“間”を記憶しておきたいと思った。
「昔、その絵と同じものを見たことがある」
彼がふいに言った。
「○○町の古本屋にな。埃をかぶった額の中で、
右側だけが色づいていた。左は、真っ白だった」
店のドアが軋み、冷たい風が足元をすり抜けた。
鈴の音がもう一度鳴る。
男は新聞を畳み、ゆっくりと立ち上がった。
「行ってみるといい。あの店は、まだあるはずだ」
その背中が扉を抜けると、喫茶の空気がふっと軽くなった。
残された椅子の背もたれが、微かに揺れている。
そこに、灰のような光が一筋、静かに落ちていた。
私はカップを手に取り、冷めかけたコーヒーを一口だけ飲んだ。
苦みの奥で、焦げた匂いが、どこか懐かしく滲んでいた。
ふと、カウンターの端に目をやると、
そこには古びた糸の切れ端が、新聞の上に残っていた。
淡い光を吸い込みながら、その糸は微かに揺れていた。
まるで次の誰かの記憶へと、手渡される合図のように。
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