沈黙の贖罪
加賀屋 博
第1話 犯行
その日は昼過ぎから降り続ける雨が、舗装の剝げた路地を薄く洗っていた。街灯の輪は頼りなく、濡れた木造の商店の裏口の軒先に冷えた光を落としている。その呉服店の引き戸は、昼間の賑わいを嘘のように静かに閉ざされていた。
影が一つ、裏の戸口の脇の植木の影に貼りついている。
英輔の両手には古い軍手、上着の右のポケットに小ぶりのナイフを忍ばせている息を潜める。
胸の内で鳴る鼓動は、雨音より近く、やけに大きく聞こえる。これほどの緊張は今までに経験したことのないものだった。
が、――やるしかない。
誰にも聞こえないはずの独り言が雨に攫われた。
鍵は甘い。昨夜の下見どおり、力をかけすぎなければ軋まない。
男は身を滑り込ませ、畳と反物の匂いに包まれた闇に目を慣らす。
帳場へ二歩、三歩。帳場の奥にあった手提げ金庫の中には思っていた以上の札束があるのを確認する。
男はその札束を鷲掴みにして必死にポケットに押し込む。
「……誰だ!」野太い男の声に英輔は動きを止められた。
呉服店の主人――阿部が、荒い息でこちらへ踏み込んでくる。腕を掴まれる。咄嗟に振り払う英輔。棚の反物が雪崩のように崩れ落ちる音が重なった。
「離せ!」喉から出た声は、自分のものではないみたいだった。
右手が勝手に動く。銀の軌跡が短く走り、主人の体がぐらりと傾ぐ。短い呻き。鉄の匂いが鼻の奥に刺さる。
階段の上から、細い息が漏れた。 「あなた……?」男の妻だ。目が合う。間を置かず、悲鳴。英輔は階段を駆け上がり、咄嗟に妻の口を塞いだ。
震える呼気が掌に当たる。一瞬、静かになる。
だが手を離した途端、妻は再び声を上げる。 「だれか――!」男は再び妻を押さえつける。その拍子に、刃が柔らかいものを貫いた。
妻は目を見開いた状態でグシャリと倒れ込む。目の光がすっと退く。何が起きたのか、脳が追いつかない。男は後ずさり、踵で棚の脚を蹴った。
上に置かれていた灯油ストーブが横倒しになり、ガシャンと音を立てる。
金属の擦れる音、油の匂い。小さな炎が、畳の上で猫のように身を丸め、次の瞬間、舌を伸ばした。
「……くそっ」振り返る余裕はもう英輔にはなかった。
暗い店を駆け抜け、再び雨の闇へと飛び出した。
呉服店の勝手口から飛び出し、1つ目の路地を曲がろうとした時に英輔は強い衝撃を受けてのけ反った。
目の前には男が倒れ込んでいる。
「なんだよちくしょう!誰だよ痛ぇなぁ」目の前に倒れ込んでいる男が叫んだが、英輔はすぐに立ち上がって「すいません」とひと言謝罪し、スグにその場を走しり去った。
男はしばらくうずくまっていたが、酔っているらしくフラフラっと立ち上がり、持っていた傘も拾わずに「ぶつぶつ」と独り言を言いながら路地の奥へと消えたいった。
公園まで無我夢中で走り、公衆便所の個室に逃げ込む。
公衆トイレの中は、蛍光灯が青白い光を放ち、壁の欠けや落書きを、逆に露わにしている。
英輔は蛇口をひねり、血に染まった軍手を剥ぎ取り染みこんだ血で汚れた手をこする。
爪の間に残った赤黒い筋が、いつまでも落ちない。軍手を裏返して捨てようとして躊躇い、ポケットにねじ込む。鏡に映る顔は、見覚えのない男のものだった。瞳孔が開いている。口角がひくひくと動く。
外でサイレンが遠く吠えた。雨に混じる赤い光が、トイレの入り口を一瞬舐める。消防車とパトカーのサイレンの区別がつかない。
英輔は逃げるように再び個室に入って鍵をかけた。雨は更に激しく降りつづき、その音にすべてが吞み込まれていくようだった。
緊急車両のサイレンの音はどんどんとその数が増えていく。
少し落ち着きをとりもどした英輔はトイレを出て、暗い並木道を隠れるようにしながら歩いた。
雨の匂いのなかに、焦げた何かが微かに混じっている気がした。
自分の部屋へ戻る道すがら、何度も振り返る。
追ってくる足音はない。ただ、自分の心臓だけが後ろから追ってくる。
やっとの思いで部屋に戻って鍵を締める。
部屋の隅で膝を抱えてたった今、自分が起こした悪魔のような所業を振り払う為に目を固く瞑るが逆に鮮明に蘇る。
とめどなく溢れでる涙を拭おうともせず男は目の前の壁を見つめていた。
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