空席の残響 〜 忘却の教室、腐敗する存在〜
水梨五月
第1話 妙な「整頓」
午後三時を過ぎたホームルームの時間。担任の
私の視線は、教室の窓際、一番奥の席に釘付けになっていた。
そこにあるのは、
佐倉さんが二週間前に突然学校に来なくなって以来、誰も座っていない、ただの「空席」だ。
季節はまだ夏の名残がある九月だというのに、その席の周りだけが、常にひんやりとした冬の空気を
その席の違和感は、ただ空いているという事実だけではない。
席の上に残された机と椅子は、まるで美術館の展示物のように、あまりにも完璧に整頓されていた。教科書は机の右上に直角に積み上げられ、筆箱は中央、そして消しゴムと鉛筆は、使用中のような自然な散らかり方ではなく、見えない定規で測られたかのように、正確に置かれていた。
佐倉さんの席だけは、まるで毎日誰かが念入りに掃除しているかのように、
「ねえ、陽菜、聞いてる?」
隣の席の親友、
「あ、うん。ごめん。」
私は慌てて視線を山際先生の方に戻そうとしたが、またすぐに引き戻された。その視線の先で、誰もいないはずの佐倉さんの机の上が、ほんのわずかに、しかし確かに揺らめいた気がした。
それは、熱気に揺れる陽炎のようなものではなく、古い写真が、ゆっくりと色褪せていく瞬間のような、時間の質感が異なる揺らめきだった。
「佐倉さんの席、おかしくない?」
ホームルームが終わり、クラスメイトが帰り支度を始める喧騒の中、私は遥の顔を覗き込み、思い切って尋ねた。
遥は手に持っていたスマホをピタリと止め、私の視線の先、佐倉さんの席を一瞬だけ見た。
しかし、その視線はすぐに
「…何が? 席、別に何も変わってないよ。」
「いや、だって、あんなに綺麗に整頓されてるの、おかしいでしょ? 誰も座ってないんだから、多少は
遥は私の言葉を遮るように、私の肩に強い力を込めた。
「陽菜。悪いけど、その席の話はやめなよ。誰も気にしてないんだから。気にしても無駄だよ。」
遥の口調はいつもより冷たく、その目は私ではなく、私のすぐ後ろを見ているようだった。まるで、私の背後に何か不快なものが立っていて、それを私に見せないように牽制しているかのように。
そのとき、教室の出入り口近くで、クラス委員長の
藤田真理は、佐倉さんが欠席し始めてから、佐倉さんの話題を出す者を厳しく注意し、クラス内の沈黙を強制している人物だった。まるで、佐倉さんという存在をクラスから完全に消去しようとしているかのように。
遥は急に顔色を変え、自分のカバンを乱暴に掴んで言った。
「私、今日部活で急いでるから。また明日。」
遥は私に背を向け、まるで佐倉さんの席に触れることを恐れるように、大きく迂回して教室を出て行った。
私は一人、教室に残された。夕焼けの赤みが差し込み始めた教室は、昼間とは違う、妙に湿気を帯びた薄暗さを帯びていた。
私はゆっくりと佐倉さんの席に近づいた。
近づくにつれて、冷たい空気と、生乾きの洗濯物のような、不快な匂いが強くなる。
私は恐怖心を押し殺し、佐倉さんの机の上に、そっと自分の指先を伸ばした。
そして、その机の天板の質感に驚愕した。
私の机や遥の机の天板は、長年の使用で少しザラザラとした感触があるのに、佐倉さんの机の天板は、まるで新品のガラスのように、冷たく、滑らかだった。
私は机の奥に置いてある、一本の鉛筆に目を向けた。
それは、佐倉さんが最後に使っていたはずの、ごく普通の鉛筆だった。しかし、その鉛筆の横に、佐倉さんの物ではない、小さな、青い消しゴムが置いてあることに気づいた。
その消しゴムは、私が二週間前に失くした、遥からもらった誕生日プレゼントの消しゴムと、全く同じものだった。
私は思わずその青い消しゴムを手に取ろうとした。
その瞬間、耳のすぐそばで、誰かが「フッ」と、鼻で笑うような、
私は心臓が跳ね上がり、反射的に手を引っ込めた。
同時に、背中の制服の布地の上から、氷のように冷たく、ひんやりと湿った、人の手のひらの感触が、「グッ」と一回だけ、強く押し付けられた。
私は悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。
振り返っても、そこには誰もいない。ただ、誰も座っていないはずの佐倉さんの椅子が、ギィ、と小さな木鳴りを立てただけだった。
恐怖と吐き気で立っていられなくなった私は、カバンを掴み、教室を飛び出した。
次の日の朝、制服に着替えるために鏡を見たとき、私は自分の背中の肩甲骨の下に、誰かの手のひらで強く押し付けられたような形の、小さな、赤い火傷のようなアザが一つできていることに気づいた。
佐倉さんの「空席の呪い」が、私に物理的な痕跡を残し始めたのだ。
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