この世界の均衡は、光の粒が守る ~あの男の知らない、紙一重の守護者~

黒瀬智哉(くろせともや)

和室の隙間から零れた、魂の遊戯

 朝。八帖の和室には、昨夜の微かな暖かさとは打って変わり、窓から差し込む十一月特有の、身を切るような冷たい空気が支配していた。畳の上に落ちた日の光の四角形は、その冷たさゆえに、まるで氷のブロックのように硬質に見えた。


 男は部屋に入り、視線だけで「奴」がいた場所を、まず確認した。



 どこにも、いない。



 昨日の午後三時にこの部屋に閉じ込め、二階の書斎へ戻る前、確かに生きた緑の塊がそこにいたはずだ。あの、季節外れの、完璧な姿をしたクビキリギスが。


 男は一歩進み、襖(ふすま)と柱の接合部に目を凝らす。指を添えて、閉まり具合を確かめる。上も下も、ぴたりと閉じている。古い和室の宿命である、わずかな隙間は存在する。だが、あの堂々たる体躯が這い出るとは考えられない、文字通りの紙一重の隔たりだ。


 窓の外には、冬を待つ庭の木々が、霜に打たれたように静まり返っている。透明なガラスは外の世界と室内を隔てる堅牢な壁となり、脱出経路を示唆するものは何もない。



「おかしいな――」



 声に出すまでもなく、その違和感は、理性の及ばない領域へと深く沈み込んでいった。彼の存在だけが、空間から綺麗に切り取られたように消滅している。その事実は、論理で組み立てた「監獄」の構造を、根底から揺るがすものだった。


 しかし、男は深く追及することをやめた。この不可解な現象に、説明を求める気力が湧かなかった。初代も二代目も、最後は静かに自然へと帰っていった。この三代目の消失は、以前の哀しい結末とは異なる、清々しい空虚感だけを残していた。



(おかしいな――)



 胸に残ったのは、それだけだった。あの完璧な緑色のクビキリギスが、跡形もなく消えたという、理屈では説明のつかない、ただ不思議な感覚。だが、それは男の平穏な日常を乱すほどの大事件ではなかった。彼は疑問符をそっと心の引き出しにしまい込み、二階の書斎の戸を開けた。



 物語は、彼の不在のまま、一階の和室で続いていた――。



 男が二階の気配と共に完全に去ったことを確認した和室は、再び深い静寂に包まれた。


 そのとき、金色の光の粒子がまだ微細に漂う畳の上、まるで待ち合わせていたかのように、ふわりと複数の光が揺らめき始めた。


 最初に現れたのは、透き通った緑色の光の玉。手のひらほどの大きさで、クビキリギスの体色をそのまま抽出したような、鮮やかだが儚い光だ。それは、窓の外へ飛び去ったはずの**「妖精の魂」**が、エネルギーを再構築し、遊び場に戻ってきた姿だった。


 そして、呼応するように、鴨居と長押の隙間、床の間の奥の小壁(こかべ)の影、畳の縁のわずかな段差から、次々と虹色の小さな光の粒が浮き上がってきた。


 それは、初代と二代目が長きにわたりこの部屋に滞在した際、彼らが残した感謝の微粒子が、三代目の奇跡の顕現に触発されて実体化したもの。和室の構造的な**「隙間」こそが、彼ら妖精にとっての「異界への扉」**であり、隠れ家だったのだ。


 緑の光の玉が、部屋の中央でくるくると宙を舞い、**「ふふふ」**と、風鈴のような微かな笑い声を立てた。



「ねぇ、見た? 主(あるじ)の顔!」



それに、床の間の陰から現れた青白い光の粒が応じる。



「見た見た! あんなに大きな体で閉め切ったのに、いなくなって『あれ?』だって!」


「わたしたちの身体は、彼(あるじ)の愛で編まれた光だから。鍵なんて、関係ないもの!」



 妖精たちは喜びの笑いを上げながら、八帖の和室を舞台に、無重力のようなダンスを始めた。彼らは、ふわりと浮かんだ段ボール箱の影を避け、障子に差し込む光の柱の中を、一瞬で駆け上がる。畳の上を滑るように移動し、時には敷居の溝に潜り込んで、また別の場所から飛び出してくる。


 彼らが通った後には、微細な魔法の残滓として、金色の粒子がキラキラと煌めき、まるで夜空の星屑が舞い落ちたかのように美しかった。


 窓の外では、十一月の冷たい風が吹き始めている。だが、この和室の中だけは、数体の妖精たちが繰り広げる、静かで愛らしい遊戯によって、生命の輝きに満ちていた。



 やがて、一番大きな緑の光の玉が、天井近くで静止し、満足げに囁いた。



「さあ、お別れだ。また、彼が寂しくなる頃に、誰かを遣わそうか。」



「ふふふ」という笑い声が、風のように部屋を通り過ぎ、そして、次の瞬間には全ての光の粒は、完全に消滅した。残されたのは、もはや誰も探すことのない、静まり返った八帖の和室と、かすかに漂うイ草の匂い、そして窓から差し込む、冷たくも美しい朝の光だけだった。


 男の「あれ?」という疑問は、この部屋で繰り広げられた一連の奇跡の、静かな前奏曲に過ぎなかったのだ。そして、この和室は、これからも、彼の愛情に応える小さな妖精たちの秘密の遊び場であり続けるだろう。

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