そして、猫になる

水波悠

第1話 宛先から消えた日

 カーテンの隙間から差し込む光は、以前よりずっと弱かった。うだるような暑さは過ぎ秋を飛び越して季節はいきなり冬を迎えていた。毎日の幸福感を高めるために、と社会人五年目のご褒美として奮発して転居した1LDKの少し広めの部屋。


 カリカリカリカリ


 寝室とリビングを分ける扉の外から、扉をひっかく音がしたと思うと「みゃお」と愛猫「ニャオ」から朝ご飯を催促する声だった。


 僕、雨宮悟は布団をはねのけ、ベッドから降りるとふらふらとした足取りでニャオの食事を入れた。待ってましたと言わんばかりにドライフードを入れる僕の手に白黒のツートーンの柔らかい体をすりすりとこすりつけてきた。


「おはよ、ニャオ」


 僕はニャオの首元をひと撫ですると、食事をもらえて満足したのか日の差し込むリビングの窓際にそそくさといってしまう。


「まったく、相変わらずそっけないな」


 そんないつものやりとりをしながら、洗面上に向かい鏡の前の自分に目を向ける。すると生まれつきなのか起きたばかりだからかわからない、たれ目で眠そうな顔がこちらをのぞき込んでいた。どこで読んだかわからない「ビジネスマンは清潔感だ」というフレーズにあやかり、耳にかからない程度に切りそろえた真っ黒なツーブロックのショートヘアーは寝ぐせを直す手間もない。少し高めのコーヒー豆を朝から挽いてドリップしながら昨日帰りにスーパーで値下がりしていたメロンパンをほおばると、僕はクローゼットに何着も並ぶ同じ白シャツと紺のスーツの一着を選び、当たり障りのない戦闘衣装に着替えた。


 巷ではQOLの向上とか、思考の選択と集中とか、あの手この手で現状を満足させる手段で溢れかえっていたし、どこか満たされないと感じていた僕はしらみつぶしにそれを試していた。しかし、出来上がっていくのはどこにでもいるちょっとだけ意識の高い青年で自分の心の満たされなさを逆に浮き彫りにしていった。


 しかし、状況の変化は突然訪れた。


 通勤ラッシュでごった返すホームに、今時珍しい赤色のランドセルと黄色い帽子をかぶった制服をきた小さな女の子が今日もいた。


(あんな小さいのに、大変だな)


 その年の四月から見かけるようになった少女を初めて見たときにそんな思いを抱き、きょろきょろとなれない様子で回りを見まわしていた少女に何かあったときに助けになれるようにと、見かけた日から名前も知らないその少女の近くにいることにしていた。

 そしてその日、この子がホームから転落しそうになるのを僕は救い、その反動で線路に落ちて電車にひかれてこの世を去った。


***


 僕は電車でひかれて死んだ。すぐに警察が駆け付け黄色と黒のテープと見たこともない大きさのブルーシートがホームと線路を覆いつくす。あちこちで、警官がその場にいた人々に状況を聞きまわっていて、その中には当然僕が助けた女の子がいた。

 泣きながら警官に状況を説明する女の子。その傍らで慌ただしくスマホで文字を入力する女子高生。電話をしながら頭を下げるスーツを着た中年の男性。死んで実体を持たない僕は駅の天井近くからそんな状況を見守っていた。


(あぁ、こんなにいろんな人に迷惑をかけてしまって申し訳ないな)


 少女を無事助けられたことに一瞬胸を撫で下ろしたが、自分が巻き起こした状況の大きさに責任を感じていた。


 そして僕が死んだという事実は持っていた免許証や社員証からすぐに会社、親に知らされせわしなく、事務的に処理が進む様子を僕はただ見ているしかなかった。


(死んでも、迷惑をかけるのか)


 すぐにでも、その場からいなくなってしまいたかったが、どうやら今の僕はどこにいくかすら自由に選べなかったようだ。まるで神様が「お前は自分の本当の最期をしかと見届けよ」と言っているかのように、点々と僕の事後処理が行われている現場を見せられた。


 ***


 ふと気が付くと、都内の中心部に居を構えている僕が務めていた会社にいた。高層ビジネスビルの十五階にあるワンフロアを使った一面がガラス張りのきれいな一室に降り注ぐ柔らかな陽の光。僕が務めていたのはモノづくりの会社だったが、いわゆる財務や経理、人事、マーケティング、営業といった本社機能がここには集まっていて二百人ワンフロアを、三階分貸切っていた。

 時計は九時を少し回ったところ。僕が所属していたマーケティング部のメンバー二十人ほどが部長のデスクの前に集まっていた。いつもの朝礼のスタイルだ。


「おはようございます」

「「おはようございます」」


 部長の挨拶に疲れの見える顔、やる気のなさそうな顔、飄々とした顔、様々な顔をしたマーケティング部のメンバーが応えた。


「今日の連絡事項だが……」


 いつもと同じ朝礼の連絡事項の風景。ただ一つ違ったのが、普段は拘りがつまった茶色の皮張りの手帳カバーを付けた手帳の走り書きを見ながら連絡事項を読み上げる部長が、全員の顔を見渡していたことだった。


「実は今朝、二課の雨宮悟さんが電車で事故に亡くなった」


 その言葉に、僕の上司の高梨由衣は顔を伏せていたが、その他のメンバーはハッと息をのんで顔を上げた。おそらく、高梨は事前に聞いていたのだろう。


「葬儀に関する情報は追ってご親族から連絡があり次第、共有する」


 部長はそこまで言うと、今度は手帳を開いて読み上げた。


「えー、それではその他の事務連絡だが……」


 淡々と告げられる、いつもと変わらぬ事務連絡事項。僕の死は、職場の空気に一石を投じたものの、それ以降は何も変わらないいつもの退屈な日常が流れていた。


 上司の高梨由衣は少し低めの位置で黒髪をまとめ、細見でパンツスタイルのよく似合う、まさに仕事のデキる女性の雰囲気を醸し出していた。高梨は席に戻るとノートパソコンを開いた。パソコンの壁紙は趣味の海外旅行のときにとったときに撮ったであろう真っ青な海と空に白い壁が映える家々。地中海のどこかだろうか。整然と並べられたフォルダは仕事の几帳面さと丁寧さが表れていた。

 

 高梨はカレンダーを開くと僕を含む彼女がまとめる五人分のメンバーのスケジュールを一つ一つ確認していくと、僕の今日のスケジュールの中にウェブアクセス解析のツール会社との面談が入っていたことを見つけた。高梨はすぐに過去のメールから僕の面談予定の会社の担当者を探しあて、署名欄から電話番号を確認してスマホに入力して電話を掛けた。


「お世話になります。四谷ケミカルの高梨と申しますが……」


 高梨は僕が急遽打ち合わせに対応できなくなったこと、高梨が代わりに対応することなどを伝えた。


 その後も、次々と僕が対応していた案件を他の人にならないようにと捌いていく高梨の仕事姿を見て「これが最年少女性課長の実力か」と申し訳なさを感じながらも舌を巻いていた。でもそれと同時に、淡々と処理をしていく様子に寂しさを感じていた。


 高梨自身のタスクもこなす中で彼女が主催するマーケティング部の部長報告会のメールを開いたとき、はじめてその手が止まった。


 高梨は開催日、アジェンダ、誤字脱字のチェックをしたうえで最後に送信者の確認をする中でふと、メールの送付先のCCに入っているsatoru.amamiyaの文字を見つけて手が止まる。その止まっている時間は一瞬だったかもしれない。でも、これまでの仕事の様子をずっと見てきた僕からすれば、その停止は明らかに異質だった。彼女は天を仰ぎ、そして僕のメールアドレスを削除すると大きく息を吐いた後、送信ボタンを押した。


 メールを送った高梨は席を立ちゆっくりとした足取りでおもむろにフロア内の一角にあるパーティションで囲われたミーティングブースの席に着く。そこは僕が新入社員で、彼女が係長だったときからよく二人で話をしていたお決まりの場所だった。彼女が入口側、僕がなぜか奥側が定位置だった。普通逆だろう、と思いそう提言したものの「私、そういうのなんとなく嫌いなんだよね」と笑った顔が今でも思い出された。

 彼女がその日座ったのもいつもと同じ入り口側の椅子。そして彼女の正面にはテーブルをはさんでぽっかりと空いた椅子。ついつい上司だということを忘れて色々としゃべりたくなってしまうその笑顔を椅子に座ったその時はしていた。しかしその笑顔はみるみると崩れ去り、そして瞳から一筋の光が溢れ出すとそれは堰を切ったかのように止まることがなかった。


 この涙が、僕が死んでから流れた一つ目の涙だった。

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