第36話 雨でも好きでいたかったから
その日は、朝から街がやわく濡れていた。
ハルミナの石畳を細くなぞる雨水、屋台の上に張られた色あせた布、店先で丸くなってる猫。空は白と灰のあいだで、音だけがぽつぽつと続いている――そんな日。
「ナギトさーん!! 雨でもやるー!?」
最初に水たまりを蹴ってきたのは、いつもの危険ポエム三人娘だった。ピンクはピンクのレインコート、ミントはミント、ラベンダーはラベンダー。徹底してる。
「きょうのやつはいけるやつですー! “雨に溺れても一緒だよ♡”!」
「没収だ。雨で響くとマジで死ぬって言ってるだろ」
「ええ~~雨のほうがロマンあるのに~~」
そこへ、診療所の白いドアがふわりとあらわれる。
いつもより少し丈の長い、淡いグレーのカーディガンを羽織ったリゼが出てきた。白ワンピの裾を濡らさないように片手で持ち上げる所作が、いつもどおりきれい。
「本日は“傘を渡すときだけ言っていい日”です。ここから先はすべて私が預かりますね」
机が出現し、小さなカードが並ぶ。
『きょうも無事でいてくれて嬉しいです』
『濡れないでくださいね』
『また晴れの日にも会えたらいいですね』
「うっす!!」
「雨の日はこれくらいが安全です」
リゼは淡々としている。でも、雨の日特有の“音が乗るから届きやすい”のを分かってる顔だった。いつもよりわずかに目が細い。周囲警戒モード。
――そこへ、人混みの向こうから、ゆっくりとした歩幅で近づいてくる影があった。
クリーム色のマント。雨をうっすらはじく布。
下は地味なクリームのワンピで、髪は茶色のロングをゆるく後ろで束ねている。顔だけが、雨でほんのり赤くなっていた。
「おはようございます……きょう、やってますか……?」
マリアだった。
声は小さいのに、ナギトの視界ではもう――濃い赤の糸が、雨粒の線を割って真っ直ぐ伸びていた。
(お。……今日は濃い日だな)
ナギトがそう思うより早く、リゼが半歩、前へ出る。さっきまでより明らかに“守る”位置。
「マリアさん。今日は雨ですから、短めのものだけにしておきましょう。“雨なのに来てくれてありがとうございます”が一番安全です」
「……はい」
マリアは素直に受け取る。カードを一度見て、しっかり覚えてから顔を上げる。仕草がていねいすぎる印象だった。
そして、雨の音に合わせるように口を開いた。
「――雨なのに来てくれて、ありがとうございます」
ここまではカードどおり。ナギトの糸も揺れない。
けれど、マリアはそこで1拍おいた。雨がポン、と軒を叩く。顔をほんの少しだけ上に向けて、さっきより素の声を出した。
「……だって、雨の日でも“好きでいられる”って、ここなら言えると思ったから」
来た。
「……っ、待て今のは直で来る」
ナギトの胸がきゅっと詰まって、片手が無意識に心臓のあたりを押さえた。深く息を吸おうとして、でも吸いきれない。倒れはしない。けど、“ほんとに効いてる人”の呼吸。
リゼが即座に手を伸ばす。片手でナギトの手を押し下げ、もう片手で小型の回復陣を胸元に貼る。動きがかっちり速い。
「はい。“状態の継続宣言”でした。雨の日は響きが増幅するので、これでもギリです」
周りの女の子たちはきゃらきゃら笑ってる。
「また大げさにしてる~」
「“ギリです”ってほんとに言うんだ~」
「雨ロケいいな~!」
ユノも木の上で撮りながらケラケラ。
「はい撮れた、“雨でも好きでいたかった回”~!」
――でも、リゼの目だけは笑ってなかった。
マリアのほうを見ていた。ちゃんと“この子は自分で濃くした”って分かってる目だ。
「マリアさん」
「はい……」
「いまのは、とても素敵でした。でも、あの文は“3日続けて言うと”ナギトさんが本当に倒れます。なので、今日だけにしておきましょうね」
「……分かってます。だから、止めてもらえるところで言ったんです」
マリアはうつむいて笑った。雨で前髪が少し頬にはりつく。泣いているように見えるのに、目は真っ直ぐ。
「外で言ったら、ナギトさん困るから……ここで言えば、リゼさんが止めてくれるから、大丈夫だなって」
一瞬、リゼのまぶたがぴくっとした。
(……“止めてくれるから言う”って、ちゃんと分かってるんですねこの子)
顔は笑ってる。けど内心で、警戒メーターを一つ上げた感じ。
「ええ。わたしが止めます。ですから――“ここでだけ”“たまにだけ”にしてください。あなたの文は、届きすぎますので」
“届きすぎますので”。
それはリゼがあんまり言わない言い方だった。周りの子たちが「え、届きすぎるって何」「別格扱いだ」とひそひそする。
その後ろで、ぬるっと紺ローブが現れた。セラだ。防水カバーに入ったファイルを抱えてる。ほんとに雨でも来る。
「――いまの、雨限定で記録させていただけますか。“雨でも好きでいられる”はとても良い文なので」
「すぐ拾うな荊」
「“天候条件つきの恋文”は需要が高いので」
「需要って言うな」
セラもマリアを見て、少しだけ首をかしげる。
「……なるほど。この子が“ここなら言える”と思って来ているわけですね。でしたら、うちではそのまま保存しておきます。“途中で止められるからこそ出た告白”は、価値が高いので」
「そのまま残すな。湿らせとけ」
「湿らせると読めなくなりますので」
やっぱり仕事みたいに言う。
そこへ、カンナが水をばっしゃんと跳ね上げて登場。
「なになになになに!! 雨告白ならあたしもやる!! “びしょ濡れのまま抱きしめて”は!?」
「最大限にダメです。雨は響きます」
「うわ一瞬で却下~~!!」
周りが笑いに包まれる。
でもナギトはまだ、胸を押さえたままマリアを見ていた。
(……“雨でも好きでいられる”って、“条件なしで続ける”って意味だよな。……それ、ほんとは一番危ないんだけどな)
マリアはそれを知らない。
いや、知らないからこそ、ここで言った。
それを、リゼはちゃんと見ていた。笑っているけど、視線だけはずっとマリアに。
(……この子は、“止めてもらえるなら、もっと深く言いに来る”タイプ。……次から、最初にわたしが診よう)
こうして、雨の日にも“本物”が来るようになった。
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