第11話
俺が、守護者の塔に戻った時には、もう日が暮れかけていた。
セレスティアは、アメリアに「国王陛下への報告が先です!」と無理やり引きずられて、王城へ帰っていった。
これで、ようやく、静かに眠れる。
俺は、塔の一階ホールを通り抜けた。
昨夜の戦いの残骸は、いつの間にか片付けられていた。
アメリアの部下が、掃除したんだろうか。
まあ、どうでもいい。
俺は、お気に入りの寝床である、地下室への扉を開けた。
ギィ、と重い音がする。
真っ暗な階段を、降りていく。
いつもの、ひんやりとした空気が、俺を迎えてくれる。
「……よし」
一番奥の、物置部屋だ。
毛布を敷いて、寝るだけ……。
そう思って、俺は、部屋の入り口で固まった。
「……なんだ、これ」
そこは、俺が知っている物置部屋ではなかった。
冷たい石の床には、ふかふかして、足が沈み込むほどの、高級な絨毯が敷き詰められている。
殺風景だった石壁には、暖かそうな色のタペストリーが、何枚もかけられている。
そして、部屋の奥には。
俺が兵舎で使っていた、藁のベッドとは、天と地ほど違う、豪華な天蓋付きのベッドが、鎮座していた。
どう見ても、最高級品だ。
俺が、呆然と立ち尽くしていると、そのベッドの陰から、ゆらり、と人影が現れた。
「ふふふ。トール様。お気に召しましたか?」
「……クラリス」
聖女クラリスが、にこやかな笑みを浮かべて、そこに立っていた。
彼女は、いつ、どうやって、ここに侵入したんだ。
「どうやって入った。アメリアが、塔の周りを警護してるはずだ」
俺は、面倒くさそうに尋ねた。
「アメリアさんは、王女殿下を王城にお連れするのに、お忙しかったようですから」
クラリスは、平然と答えた。
アメリアの、完全な失態だ。
こいつ、抜け目がない。
「それに、私は、トール様の『神域』である、この塔に、祝福を与えるために参りました」
「こっそりと、です」
クラリスが、悪戯っぽく笑う。
「……地下室を、勝手に改造するな」
俺は、ため息をついた。
「俺は、ただの物置でよかったんだ」
「いけません、トール様」
クラリスが、悲しそうな顔をした。
「神の御体が、冷たい石の上で、お休みになられるなど……」
「このベッドは、神殿の宝物庫に眠っていた、特別なものです」
「歴代の教皇のみが、使用を許された、『聖眠のベッド』と、呼ばれています」
「これなら、トール様のお疲れも、きっと、癒やされるはずです」
『聖眠のベッド』。
名前からして、すごそうだ。
俺は、そのベッドに近寄り、試しに、腰掛けてみた。
……っ!
なんだ、これ。
体が、ベッドに吸い込まれるようだ。
柔らかいのに、しっかりと、支えられている。
これは、やばい。
このベッドで寝たら、もう、他の場所では眠れないかもしれない。
「……まあ、いい」
俺は、平静を装って言った。
「ベッドは、もらっておく。だが、お前は、もう帰れ」
「はい。もちろんです」
クラリスは、満足そうに頷いた。
「私は、トール様が、安らかにお休みになれるのでしたら、それで……」
「ああ、でも、その前に」
クラリスが、懐から、小さなゴブレットと、水差しを取り出した。
「昨夜、王女殿下に邪魔をされて、お渡しできなかったものです」
「『安眠の聖水』です。今度こそ、どうぞ」
「……いらん。怪しい」
俺は、即答した。
昨日、彼女が持ってきたやつだ。
原作の知識が、警鐘を鳴らす。
クラリスの善意(ヤンデレ)は、常に、ろくでもない結果を招く。
「まあ。ひどいですわ、トール様」
クラリスが、本気で悲しそうな顔をした。
「神殿に伝わる、ただの、快眠のためのハーブティーですのに」
「……仕方ありませんわね」
クラリスは、諦めたように、水差しを懐に戻した。
俺は、ベッドの寝心地が良すぎて、早く横になりたかった。
俺が、ベッドに腰掛けた、その隙に。
クラリスが、部屋の隅に、いつの間にか置かれていた香炉に、小さな小瓶から、何か、油のようなものを垂らした。
ジュッ、と小さな音がした。
ふわりと、甘く、それでいて、心が落ち着くような香りが、地下室に漂い始めた。
「……おい。何をした」
俺は、香炉を睨んだ。
「ただの、リラックスできるお香ですよ」
クラリスは、にっこりと微笑んだ。
「この地下室は、少し、カビ臭かったものですから」
「これなら、トール様も、快適にお休みになれるでしょう」
「それでは、ごゆっくり、おやすみなさいませ。私の、神様」
クラリスは、深々と一礼すると、満足そうに、地下室から出ていった。
俺は、その香りについて、一瞬、眉をひそめた。
だが、ベッドの寝心地が、あまりにも良すぎた。
そして、この香りも、正直に言って、悪くない。
むしろ、すごく、眠気を誘う。
深く追求するのも、面倒くさかった。
「……まあ、いいか」
「やっと、寝れる」
俺は、兵士服を脱ぎ捨て、聖眠のベッドに横になった。
体が、羽毛に包まれたように、沈み込んでいく。
甘い香りが、俺の意識を、優しく溶かしていく。
俺は、今度こそ、深い眠りに落ちていった。
……その頃。
塔の外に出たクラリスは、暗い庭園で、一人、月を見上げていた。
その顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいる。
「……これで、よし」
彼女は、空になった小瓶を、愛おしそうに握りしめた。
「あの香油は、神殿の秘薬、『神縛りの香』」
「トール様の、神聖な御体に、私の『聖印』の香りを、ゆっくりと、ゆっくりと、染み込ませるためのもの」
クラリスは、うっとりと、塔を見上げた。
「毎日、あの『聖眠のベッド』と、あの『神縛りの香』で、眠れば……」
「トール様は、もう、私の香りなしでは、眠れないお体に……」
「そして、いずれは、ベッドでも、香油でもない」
「私そのものを、お求めになるのです……」
「ふふふ、あはははは!」
夜の庭園に、聖女の、狂気じみた笑い声が、響き渡った。
……翌朝。
俺は、聖眠のベッドの上で、目を覚ました。
「……ん」
なんだ、これ。
めちゃくちゃ、よく寝た。
体が、羽のように軽い。
ここ数日の、面倒事の疲れが、全部、吹き飛んだようだ。
クラリスのベッドと香、恐るべし。
俺は、少しだけ、彼女に感謝した。
気分良く、地上ホールに出ると、そこには、アメリアが待ち構えていた。
彼女は、なぜか、鬼のような形相で、土下座していた。
「主君! おはようございます!」
「そして、誠に、申し訳ありませんでした!」
アメリアが、床に額をこすりつけて、絶叫した。
「昨夜、聖女めが、この神聖なる塔に、不法侵入したとのこと!」
「このアメリア、警護責任者として、万死に値します!」
「……もういい。結果的に、よく寝れた」
俺は、面倒くさそうに言った。
「それより、何の用だ。朝から、うるさいぞ」
「はっ!」
アメリアは、ガバッと顔を上げた。
その目は、なぜか、決意に燃えている。
「クラリス様が、主君に寝具を献上したと、聞きました!」
「ならば、私とて、黙ってはいられません!」
アメリアが立ち上がると、塔の入り口から、屈強な騎士団の兵士たちが、ぞろぞろと入ってきた。
彼らは、何か、巨大な木材や、鉄の塊のようなものを、運び始めた。
「……おい。何してる」
俺は、嫌な予感しかしない。
兵士たちは、俺の地下室とは、逆方向の、一階ホールの広いスペースに、それらの機材を、設置し始めた。
どう見ても、訓練用の、丸太や、サンドバッグだ。
「はっ!」
アメリアが、俺に向き直り、胸を張った。
「主君の、昨日の、あの『絶対守護』の御業! この目で見ました!」
「あの、敵の攻撃を、背中で受け止める、神業!」
「あれは、日々の、血の滲むような鍛錬の、賜物とお見受けします!」
「いや、俺は、ただ寝てただけだが」
「ご謙遜を!」
また、勘違いが始まった。
「そこで! 主君が、この塔の中でも、退屈なさらないよう!」
「我が騎士団が誇る、最新式の鍛錬器具一式を、搬入いたしました!」
「……いらん。邪魔だ。うるさそうだ」
俺は、心底、嫌そうな顔をした。
「ご心配なく!」
アメリアが、自信満々に言った。
「騒音は、地下の、主君のお部屋には、決して届きません! 私が、保証します!」
「そして、私も、今日から、この場所で、主君と『共』に、鍛錬に励みます!」
「主君の鍛錬を、間近で拝見し、その極意を学ぶのです!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます