第2話

広場での騒動から数時間後。

俺は兵舎の自室で、ようやくベッドに寝転がっていた。

昼寝の続きだ。

これが一番幸せな時間。


しかし、その平穏はすぐに破られた。


「トール! トールはいるか!」

乱暴にドアが開き、俺の上官である隊長が飛び込んできた。

その顔は焦りと困惑で歪んでいる。


「……何ですか、隊長。俺は休憩時間ですが」

俺は寝返りを打ちながら答えた。

「緊急の用事でなければ、後にしてほしい」


「馬鹿者! 緊急の用事に決まっているだろう!」

隊長が俺のベッドの横まで来て、怒鳴った。

「お前、広場で何をした!」


「何をした、と言われましても」

俺は面倒くさそうに起き上がった。

「ただ、聖女様が冤罪っぽかったので、そう言っただけです」


「そう言っただけ、だと!?」

隊長が信じられないという顔で俺を見た。

「大審問官ザラーム様の処刑魔法を、お前は指一本で消し去ったと聞いたぞ!」

「衛兵たちの剣を、体に受けながら全て折り砕いたとも!」


噂が広まるのは早い。

しかも、尾ひれがつきまくっている。

指一本で消してはいない。ただ当たっただけだ。


「大げさですよ。俺は何もしていません」

俺は正直に答えた。

「硬かったのは、俺じゃなくて相手の武器です」


「貴様、まだふざけるつもりか!」

隊長の怒りが頂点に達した。

彼の手が、俺の胸ぐらを掴もうと伸びてくる。

強い敵意を感じる。

スキルが発動する。


「このっ!」

隊長の手が俺の胸の服に触れた。

その瞬間。


バキッ! という嫌な音が響いた。


「ぐあああああああっ!」

隊長が床に転がり、右手首を押さえて絶叫した。

その手は、ありえない方向に曲がっている。

どうやら、骨が砕けたらしい。


俺は自分の胸を見た。

服は無傷だ。

「……だから、何もしてないと言ったのに」

俺はため息をついた。


「ひっ……!」

隊長が、化け物を見る目で俺を見上げた。

「お、お前……。お前、本当に何者なんだ……」


「トールです。一兵士です」

俺はベッドから降りた。

「隊長、医務室に行きますか? 肩を貸しましょうか?」


「さ、触るな!」

隊長が後ずさった。

その目には、怒りではなく、純粋な恐怖が浮かんでいる。


ああ、これはもっと面倒なことになった。

上官にまで怖がられると、兵舎に居づらくなる。


コンコン。

控えめなノックの音。

ドアの外から、若い兵士の声がした。


「隊長、いらっしゃいますか? 神殿からお客様が……」

「入ってよし!」

隊長が折れた腕を押さえながら叫んだ。


入ってきたのは、神殿の騎士数名と、その中心にいる人物。

銀色の髪を整え、真新しい聖女服をまとった、聖女クラリスその人だった。


「トール様!」

クラリスが俺の姿を見つけるなり、ぱあっと顔を輝かせた。

そして、俺の前に駆け寄り、スカートの裾を持ち上げて、深くお辞儀をした。


「……様、はやめろ」

俺は眉をひそめた。

「あんたは聖女様だろ。俺はただの兵士だ」


「いいえ!」

クラリスが顔を上げた。

その目は、広場で見た時よりも、さらに熱っぽくなっている。

「あなたは私の命の恩人であり、神の奇跡を体現された方です!」

「トール様とお呼びします!」


「うわ……」

本気だ。

この人、人の話を聞かないタイプだ。

原作でも、その純粋さが裏目に出て、異端審問にかけられたんだ。


「あの、クラリス様。一体、どのようなご用件で……」

隊長が、痛みに耐えながらも尋ねた。

クラリスは隊長を一瞥した。

その目は、俺に向けるものとは違い、氷のように冷たかった。


「あなたの上官ですね? この方を、トール様を、丁重にお扱いなさい」

「は、はい……」

「トール様は、神殿が正式に『聖女の守護者』として認定いたしました」


「は?」

俺は素っ頓狂な声を出した。

「聖女の守護者? なんだそれ。俺は聞いてないぞ」


「今、お伝えしました」

クラリスがにっこりと微笑む。

「大審問官ザラームは、あなたの指摘通り、異端の証拠を捏造していました。彼は地下牢に投獄されました」

「すべて、トール様のおかげです」


「いや、俺は適当に言っただけなんだが……」

「ご謙遜を」

クラリスは俺の言葉を遮った。

「あなたの深慮遠謀、私にはわかります。あなたは全てをご存知だったのですね」


わかってたまるか。

完全に勘違いされている。

だが、訂正するのも面倒くさい。

この聖女、一度思い込んだらテコでも動かないタイプだ。


「トール様。これからは、私のそばにいてください」

クラリスが俺の手に、そっと触れようとした。

俺は反射的に手を引いた。


「断る」

俺は即答した。

「俺は兵士だ。あんたの護衛じゃない」

「それに、俺は静かに寝ているのが好きなんだ。面倒事はごめんだ」


俺の言葉に、クラリスはショックを受けたように目を見開いた。

だが、すぐに、うっとりとした表情に変わった。

なぜだ。


「……ああ、トール様。なんと謙虚な方でしょう」

クラリスが胸の前で手を組む。

「あれほどの御力を持ちながら、それを誇ることもなく、ただ平穏を望まれる……」

「その無欲さ! それこそが、あなたが神に選ばれた証です!」


話が通じない。

俺の「面倒くさい」という本音が、なぜか「謙虚」「無欲」に変換されている。

これが、ヤンデレヒロインの思考回路か。

恐ろしい。


「とにかく、俺は行かない」

俺はベッドに再び寝転がった。

「用が済んだなら、帰ってくれ。俺は寝る」


「まあ!」

クラリスが頬を赤らめた。

「私の前で、そのような無防備なお姿を……!」

「いけません、トール様。そのような場所では、お体が冷えてしまいます」

「さあ、神殿へ参りましょう。あなた様のために、最高の寝台を用意させました!」


「いらん!」

俺は布団を頭までかぶった。

「帰れ!」


「トール……。お前、聖女様に対して、何という口の利き方を……」

隊長が青い顔で言った。

だが、クラリスはまったく怒っていなかった。


「ふふふ。照れていらっしゃるのですね。可愛い方」

いや、本気で嫌がってるんだが。

「わかりました。今日はお引き取りします。ですが、トール様」

クラリスの声が、布団越しに聞こえる。


「あなたは、私の運命の人です。私は、決してあなたを諦めません」

「明日も、明後日も、あなたの平穏を守るため、お迎えに上がります」


そう言い残して、クラリスは神殿騎士たちと去っていった。

ドアが閉まる音がする。

俺は布団から顔を出した。


「……最悪だ」

平穏な生活が、音を立てて崩れていく。

隊長が、折れた腕を押さえながら、俺を遠巻きに見ている。


「トール……。お前、神殿に目をつけられたぞ……」

「みたいですね」

「……俺はもう知らん。お前は明日から、王都の警備に回ってもらう」


「は? 王都?」

「そうだ。ちょうど王女様の結婚式の警備で、人手が足りん」

「ここでお前と聖女様にイチャイチャされては、俺の胃が持たん!」

「これは命令だ! すぐに準備しろ!」


隊長はそう吐き捨てて、部屋から逃げるように出ていった。

俺は天井を見上げた。


王都。

王女様の結婚式。

……その言葉に、俺は嫌な記憶を呼び覚ました。


『堕天のアークナイト』の第二の鬱展開。

王女セレスティアの暗殺。


原作では、政略結婚を嫌がった王女が、結婚式の当日に暗殺者に襲われる。

犯人は、結婚相手である隣国のクズ王子。

王女を殺し、それをこちらの国のせいにして、戦争を仕掛けるのが目的だ。


「……また面倒事が」

俺は深い深いため息をついた。

聖女クラリスから逃げられるのは良い。

だが、その先には、もっと大きな面倒事が待ち構えている。


戦争が起これば、俺が最前線だ。

それは絶対に避けなければならない。

「仕方ない……。行くか、王都」

俺は諦めて、寝返りを打った。

まずは、王都に行く前に、もうひと眠りしておこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る