蒼海二鎮厶-蒼ノ断章-
海野 那智
海鳴リノ序章
《昭和十四年四月 乗員手記より》
「初めてあの人を見たとき、背筋が粟立った。
女だと聞かされていたが、艦橋に立つ姿は――人間ではないと思った。」
海は、まだ冷たい。
風が桟橋を抜け、艦の舷側を撫でていく。油と鉄と潮の匂いが朝靄に混じり、ゆっくりと溶けていった。
港の吐息はまだ灰色で、山肌は眠たげに濃淡を重ねる。起重機の鋼の骨が湿り、鎖の輪から滴る水が甲板で小さな星を弾く。
帝国海軍・重巡洋艦「
南方作戦で酷使され、この佐世保で傷を洗い、鋲とリベットのひとつまで磨き直された鋼鉄の巨艦が、再び海に戻る刻を迎えていた。
艦体は鈍い銀の反射を返し、グレーの塗膜の下に累積した履歴が静かに息をする。艦尾側では整備兵たちが信号のように短い合図を投げ、舫いの繊維には潮の塩が白く残っていた。
防舷材は黒く濡れて、夜露の名残りを重たく抱えている。
その艦橋に――一人の女が立っている。
海軍中佐・
黒髪は艦橋の風で僅かに流れ、後ろ手に組んだ指は微動だにしない。
真紅の瞳は常に水平線の先を射抜き、縁のない鏡のように朝の色を薄く受け取る。軍帽の庇が影を作り、その影は一分の乱れもなく頬と鼻梁を刻む。
艦橋のガラス越しに映る輪郭は鋼と同じ硬度で、声が出る前に、視線だけで艦を起こす力があった。
名簿にその名が載ったとき、誰もが一度、黙った。
異端と呼ばれ、女狐と謗られ、怪物とも囁かれた。
けれど兵学校時代からの演習記録は嘘をつかず、戦術判断は冷徹にして正確だった。
勝ち方を知り、負け筋を切る者――その評は、讒言より長く残るのだ。
桟橋の下で若い兵が囁く。
「……本当に女の艦長か」
「目を合わせるな。凍るぞ」
笑いはない。口の端に浮かぶのは、侮りではなく、触れてはいけない刃に対する本能の警覚だ。新條が放つ気配は静かだが、刃は鞘の内で光っている。
距離を間違えれば指を落とす、そういう類の静寂だった。
副長・
髪は軍律どおりに短く、襟章の金具は曇りを許さない。大きくはない体躯だが、姿勢は寸分も揺れず、言葉の前に場を組み直す手付きがある。彼は海図卓へ指先を置いたまま、艦橋の空気を測るように一度だけ息を吸い、低い声を一つ落とした。
「艦長。各科、出港準備整いました」
「了解」
返す言葉は、短い。刃の背で布を断つ音に似た響きだった。
艦内伝声が低く鳴り、ふたつ、みっつの応答が艦の骨に走る。
甲板では、最後の
航海長・
若い。が、若さは顔の線にしか残っていない。顎の骨は固く、視線には迷いがない。軍服の肩で生地がわずかに鳴り、指先は器用に静かだ。声は年齢の札を外している。
「港内潮流、南東へ零・八ノット。風向、北東。
新條はわずかに頷いた。
「当直、見張り強化。――出港用意」
そのひと言で、甲板の筋肉が音もなく引き締まる。
舫い手が駆けずに走り、
防舷材を係留索の間から引き抜く手がいくつも同時に動き、黒い円筒が海面に腰を落とす。
鳴海が艦橋端の滑り窓を開け、甲板へ声を投げる。
「艏の
返事はない。だが人が動く音が返事だ。
「艫のばね、残せ。――前ばね、解け」
舫いは順を追って抜かれ、艦は岸壁に対して一点で留められた状態へ移る。
加藤が艦橋のテレグラフに手を掛け、短く目を遣った。新條の視線が一拍だけ落ちる。了解、の代わりだ。
「主機――前進微速」
丸窓の向こうで号鐘が一打、重く腹の底に響く。
主機が目を覚まし、軸がひとつ、ふたつと拍を刻む。艦の体温が上がり、水面に薄い皺が走った。艦尾が桟橋からわずかに離れる。艦の重さが一本のばね綱に集まり、細い音で軋む。
「舵、
加藤の声は静かな刃だ。舵手は言葉の終わりを待たず、手首で舵輪を送り、角度を抱え込む。艦尾がゆっくりと港の外へ顔を向け、艦首はまだ岸壁に沿う。曳船が舫いを掴み、軽く息を合わせる。
「艏の横抱き、解け」
「前ばね、残せ――保持」
舫い手の掌から太い麻が離れ、海へ落ちる寸前に引き上げられる。
係船柱の鉄が冷たく光り、空になった輪を朝の風が舐めた。艦首はばね綱に引かれて岸壁を擦らず、艦尾が角度を取り切るのを待つ。防舷材が鳴り、黒い
「後進微速――一杯にはするな」
加藤の眼だけが一度細くなる。主機の調子が呼吸一つ分だけ変わり、艦首がわずかに岸から離れる。面舵はそのまま。艦体が水に絵を描くように回り、艦首と艦尾で別々の海を掴む。
「……よし」
鳴海が甲板の人影を追い、次の合図を飲み込む。
「艏のばね、解け。――総舫い、回収」
最後の一本が桟橋から抜け、海に落ちる前に甲板で飲み込まれる。
舫い手の胸が上下し、誰も声を出さない。離岸は既に終わっていた。艦体は自らの意志で港の水を押し、ゆっくりと外へ身を移す。
新條は目を窓外に据えたまま、唇だけで命じた。
「汽笛―― 一長」
低く、長い音が山に触れ、街の瓦を震わせ、港の鳥を遠くへ追いやった。
見送りの影が帽に手を当て、誰も振らない腕をそれぞれの脇へ戻す。ここでは挨拶は型であり、型は余計を許さない。
「主機、前進微速――据え置き。舵、中央」
「舵、中央――よし」
艦は己の幅を忘れずに、岸を離れた後も慎ましく進む。
艦尾の渦が白く細り、黒鉄の舷は港の影を手放す。曳船は手を引き、黒い小舟の腹で軽く礼をして離れた。防舷材がひとつ、ふたつと引き上げられ、濡れた跡が舷の低い位置に斑点のように残る。
後部射撃甲板では砲術長・
背は高い。肩は厚く、立ち姿は粗野に見えて整っている。短く刈った髪が光を吸い、口角は常に僅かに下がる。目は獣のように光を拾い、しかし獣よりもよく抑えられている。
声は太いが、報告は過不足がない。
「砲側、動作確認完了。各砲塔油圧よし。射界、障りなし。――乗員の息、上がっていません」
「了解」
新條の声は艦の骨格をなぞるように低い。
「航海長、針路一五度、速力十ノット。湾口へ――間断なく」
「針路一五度、速力十――了解」
加藤は舵手の肘の角度を一瞥し、滑らかに数字を送る。舵は水に触れ、船首は最短の軌跡で湾口へ向き直る。海図卓では鳴海が白い余白に細い鉛筆の線を足し、浅瀬の印を袖で隠すように押さえた。
艦橋のガラスに朝の光がかかり、海は銀の鱗を拡げた。
湾口の外側には、より冷たい青が待っている。波頭は短く、風はまだ硬い。煙突から上がる排煙が一度だけ艦橋の窓に絡み、それから鋼の背を撫でるように後方へ千切れていく。
「……良い艦だ」
新條が、独り言の高さで言う。
「よく、ここまで持った」
鳴海は視線で応じるだけだった。彼は言葉を増やさない。増やす必要もない。
加藤は一瞬だけ横顔を上げ、艦長の頬の陰影がわずかに柔らいでいるのを見て、何も言わず測定盤へ戻った。
村瀬は遠く、艦尾で煙草を吸いたくなる衝動を喉の奥で押し留め、既に用意された持ち場へ視線を巡らす。
湾口の手前、港の音は薄れていく。
起重機の軋みは遠く、陸の声は水に溶けた。
代わりに、艦自身の音が増える。
主機の律動、軸受の震え、舵角のわずかな泣き、風が縁を叩く音。それら全てが一つの拍に収束し、妙高の骨へ伝わり、人の骨へ移る。港外に出た瞬間、船は港の影から海の時間へ移るのだ。
そこから先は、陸の論理では動かない。
港の影が完全に後ろへ退いたとき、右舷外側に細い航跡が並んだ。
駆逐艦「
白い波を軽く裂きながら、妙高の呼吸に合わせるように位置を取っている。
小柄な船体は、しかし敏捷で、海面を跳ねる獣のようだった。
嵐のマストにはまだ早い朝の光が薄く差し、信号旗は風にわずかに揺れている。
――目的地は
南方の海へ向けて、艦隊は再編される。
そのための南下航路であり、嵐は妙高の影となり、刃となる。
妙高の艦橋の影に、誰も言葉を足さなかった。
行き先は命令ではなく、既に全員の体が知っている。
「見張りは目を馴らせ。陸の色を引きずるな」
鳴海が短く言う。声は硬いが、届く速度が速い。
「了解――見張り、双眼鏡、遮光。水平線、南東から南、雲脚に注意」
新人の水兵が双眼鏡の橋を上げ、最初のピントが合うまで呼吸を止める。
その脇で古参の下士官が言葉を使わず、肩の張りで失点を修正させる。艦橋後方の伝令は踵を鳴らさず立ち、手を後ろで組み、必要な文字だけが紙に刻まれていく。
海図は白の余白が広く、鉛筆の黒はまだ少ない。
鳴海は広げられた航路上の細い線を、指で追った。湾口、浅瀬、目標方位。
書き加えられた風向風速の小さな矢印は、眠っていた生き物の背に最初の毛並みを与える。
紙は薄い。だが、その上に書かれるものは薄くない。艦は紙の上で動き、現実の上でも動く。
どちらかが欠ければ、海は許さない。
新條は後ろ手に組んだまま、艦橋の空気だけを微かに変える。目の動きは最小限で、然し全てを拾い上げる。艦内電話の受話器をとる時でさえ、余分な力がどこにも残らない。
「機関へ。回転、維持。余裕を積む。――以上」
受話器が掛けられる音は硬質で、誰かの胸の内の迷いをひとつ減らす。
「……戦争は、長くなりましょう」
鳴海が低く言う。潜めたその声は感想ではない。見解でもない。ただ、未来の天気図に印をつけるような、事実の置き方だ。
「あぁ、分かっている」
新條は視線を水平に据えたまま答える。「だが、艦が沈むまで、私が舵を取る。それだけだ」
艦橋にいた全員が、そこで一度だけ体の奥を締めた。言葉は短く、意味は長い。若い水兵の肩の呼吸がわずかに落ち、伝令のペン先が一瞬止まる。
加藤は視線で「了解」を送り、舵角の微修正を指示する。村瀬は後部で双眼鏡を下ろし、笑いもしない顔で頷いた。
港外の海は、陸より冷たい。
しかし冷たさは敵ではない。筋肉を起こし、余計な熱を掃き出す。艦は自分の体温を取り戻し、速度は十から十五、二十へ上がる。水線が低く鳴り、艦首が波を割る角度に達すると、妙高は生まれながらの獣の呼吸を始める。
「南東へ針路維持。――航路、微修正」
加藤が示指で紙面の十度を軽く叩く。舵手が短く応じ、舵輪をほんの少しだけ送る。その僅差が、数時間後の数海里を決める。
海は、そういう世界だ。
新條は一度だけ目を閉じた。海の匂い、塗膜の溶剤の匂い、油の匂い。遠くに、古い煙の匂いが混じる。
――忘れていない。忘れるつもりもない。彼女は瞼を上げ、視線にまた海を戻した。
甲板上では、見送りの小さな影が遠ざかる。帽を振る者はいない。ただ、立っている。
陸の足はそこに留まり、海の足はここを進む。境界に挨拶は要らない。いるのは、それぞれの場所で果たすべき型だけだ。
「航海科、星位の再確認。昼の太陽高角、計画通り」
加藤の声は淡々として、速い。
「了解。星位、更新――」測位士官の返答は鋭く短い。紙に落ちる数字は骨で、線は筋、風は血。艦は図面から立ち上がり、立体の生き物として海を滑る。
村瀬は砲側に下り、砲塔の肌を掌で叩く。金属は鈍い音で応え、わずかに振動を伝える。
「よし」
それだけ言って、彼は砲側員の目を一人ずつ見る。焦点の定まらない眼を一つだけ見つけ、肩を軽く叩く。
「腹、使え。息が上に上がってる」
言葉は短い。だが、直す場所は的確だ。若い兵は一度だけ深く息を入れ、肩の位置が下へ戻った。
鳴海は艦内の空気が均一になっていくのを感じる。均一とは、全員が同じ熱になることではない。必要な温度が必要な場所に配られ、余分がどこにも滞らないことだ。艦は生き物で、熱が偏れば病む。副長の仕事は、それを病ませないこと。言葉で動かすのでなく、空気で整える。それは技術で、気配で、習いで、そして誇りだ。
「――艦長」
鳴海は一歩だけ近づき、横顔を見る。新條は返事をしない。しないが、彼女は確かに聞いている。
「天候、下り坂の兆し。南の雲脚、変調」
「現状維持。持てる。……崩れる前に抜ける」
判断は早い。早いが、焦りはない。鳴海は頷き、海図へ戻る。
艦は既に陸の規則から外れ、海の論理の上に乗っている。その論理は、躊躇を嫌い、虚飾を弾く。
伝声管がまた鳴る。機関科の声は厚く、整っている。
「回転、良好。負荷、余裕あり」
「了解」
新條は受話器を置き、窓ガラスに映る自分の瞳を一瞬だけ見た。紅の底で、小さな点が灯る。それは炎ではない。燃え尽きたものの灰の中に残る、常に在る熱だった。
「……南へ」
誰に向けたでもない、ひとつの合図。
鳴海も、加藤も、村瀬も、それを言葉としては聞かない。だが、各々の体が、次に為すべき役割へ少しだけ重心を移す。妙高の舳先は、山の影から海の凪へ抜け、緊張は別の質へ変わる。
そこに遅れはない。躊躇もない。艦は選び、動き、辿る。
港は遠くなった。山は低くなり、水平線は広がる。
空は薄く、海は濃く、雲は細い。鳥は減り、風は変わり、音は艦のものへ収束する。陸を離れるほど、艦は自分になる。人もまた、自分の役に戻る。
加藤は舵輪のそばで、短く肩を回した。若い筋肉は余計に盛り上がらず、必要な線だけを残す。
眼の底に熱がある。だが、それは出ない。出すべき時は知っている
。彼の熱は、航路にいる。見えない線上に、未来の安全と危機の目印を並べ、舵手の手首の角度を予告する。それが彼の仕事で、彼の自尊だった。
村瀬は艦尾レールに肘を置き、目だけを細くした。
風向、波高、微かなうねりの癖。砲塔の耳は金属でできているが、砲術長の耳は肉でできている。
肉は時に鋼より正確だ。撃たない時間のほうが長い。だから撃つべき瞬間のために、長い沈黙を整える。それが彼の火で、火を抑えることが彼の技だった。
鳴海は艦橋の入り口で立ち、背で扉を受け、視線で通路を掃く。
誰も走らない。誰も怠けない。音は少なく、意味は多い。副長の沈黙は、艦にとって日常の風景だ。
その沈黙に、乗員は敬礼で応える。言葉はいらない。いらないが、思いはある。それは艦の血で、ここまで来た彼らの誇りだった。
新條は後ろ手のまま、水平線を見続ける。目は遠く、耳は近く、皮膚は艦と同じ震えを拾う。
彼女は人を見ない。人の向こうの波の癖を見る。海は嘘をつかない。人は嘘をつく。
だから、彼女は海を見る。その習いは、彼女の中に深く沈み、誰にも剝がせない。
「――よろしい。南へ。更に南へ」
その一言で、艦はまた僅かに身を沈め、速度を増す。夜と朝の境が遠ざかり、昼の色が伸びる。艦首は水を切り、航跡は長く、白い糸のように尾を曳く。
艦の鼓動は一定で、海の呼吸と合う。
人の骨もまた、その律に従う。眠りは遠いが、眠りに似た均衡は保たれている――そう言う、良い出航の日だった。
誰も、口を挟まない。挟む必要がない。
ここから先は、妙高と、その上に立つ者たちの物語だ。
港はもう、彼らに何も言わない。海だけが、言葉を持つ。それは低く、長く、正確で、時に残酷だ。彼らはその言葉を読み、折り、切り、紡いでいく。
序章は終わる。だが、航海はここから始まる。
――妙高は南へ。更に南へ。
舳先は、いつだって黎明の岸に向いていた。
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