郷愁

銅鑼鳴 慧瓏

郷愁

 溜息が夜の街へ流れて、溶ける。

 私はベランダからあてもなく感情のない世界を打ち眺めていた。いつまでも正確に動き続ける信号機。明かりを灯さない住宅街。三日月。オリオン座は今宵も形を崩さずに浮いている。陽に照らされるまでは私の影すらも隠すらしい。

 私は大学を出てから一般企業に入社したものの、プライベートな時間では独りで過ごすことが多くなった。テレビを買わなかったせいで無音だと自身ですらも哀れに感じるので、適当にラジオをつけて周波数を変えてみたり、たまにはAMにして冒険してみたりもした。受信料という概念が無ければテレビを買っていたのかもしれない。でも、世界が、生活が変わる訳ではない。

 咥えている煙草を手に預けて灰を落とす。灰は私の足元に落ちたような気がした。

 私は大学で愛人を持った。それは、大学に入学してすぐのことだった。愚連隊の大将のような風貌で、常にサングラスと煙草を常備していた。ただ、思いの外、彼は風懐と呼べるものがあった。彼は満月の日には必ず近くの公園まで私を連れて、二人だけでベンチで塩辛いピスタチオや脂っこいサラミなどを肴として缶ビールを飲みながらその日の月について語り合った。雨が降っていた場合、掃き出し窓から雨の様子を二人で眺めて雨の良さについて語った。しかし、曇りとなると彼は屋根のあるベランダで煙草をふかした。

 結局、彼が求めていたのは私ではなかった。そんな私に残ったのは酒と煙草だけだった。そして、気づいたら私は大学生と名乗れなくなっていた。

 私はそろそろこの一本に愛想を尽かして、しゃがんで足元に置いてある灰皿に煙草を押し付け、捨てる。既に朽ちた四本と同様に。

 しかし、すぐに口淋しくなって掃き出し窓を開けて身を乗り出し、ポケットから取り出した空箱を二メートル先のくずかごに投げる。いつものように空箱はくずかごに収まったのを確認して、窓の側に置いてある新しい箱を取り去って窓を閉めた。

 箱から煙草を一本選び出し、咥えてから火を点けると、孤愁が煙と乗っかって鼻に、舌に届く。

 無機物な夜。吐息が空気に馴染んでいく。徐々に見えなくなる。口元から漏れる音だけが微かに聞こえる。無機物で、退屈な夜。

 私はふとスマートフォンをポケットから取り出す。電源を付けると、一着のメールが届いていることに気づいた。既に日は跨いでいる。一時間前には何も届いていなかった。迷惑メールは殆ど届かない。友人がわざわざ改まってSNSではなくメールで連絡してくるはずがない。そもそも、こんな時間帯に誰が送ってくるのだろうか。

 私はそのメールを開いてみる。

 差出人は高校時代に付き合っていた春久だった。

 そのメールは「拝啓」という言葉から始まっていた。


「久しぶりです、紫苑さん。僕のこと、覚えていますか。春久です。

 来週、仕事の出張の関係で貴方の住んでいる土地へ行きます。

 もしよければ、貴方にもう一度逢えたらと思って。僕が都合の良い日時は下記に記しておきました。返信、くれると嬉しいです。」


 そのままメールを読んでいくと一週間後の日付と時間が添えられていて、やはり、そのメールは「敬具」で締めくくられた。

 春久。その名は私の高校時代を思い出させた。

 高校時代の私たちはひどく美しかった。

 暖かい陽と優しい月が交代で私たちを見守ってくれた。青空の中、ひらひらと落ちる桜の花びらを掴んで青春と呼んだ。いつも私たちの影は互いに寄り添っていて、終わることのない日常が天長地久続くものだと思っていた。

 しかし、成長という言葉が私たちを裂いた。

 私たちは高校を卒業して別々の大学に進学した。春久は東へ、私は西へ。私たちは故郷から離れ、やがて新しい日常を得た。

 高校卒業以降、私は春久と再会することはなかった。私と春久の実家がそれぞれ 異なる市であったために成人式さえも再び出会うことは無かった。

 高校を卒業してから、私たちは互いに連絡を取り合っていた。しかし、新しい日常がやってきて古臭い日常は薄れて消えてしまった。

 これが春久と再会する最後の機会だと思った。これを逃してしまうと、きっと次会うのはどちらかの葬式くらいだ。

 しかし、私は戸惑ってしまった。部屋に横たわる缶ビール。灰皿にある朽ちた煙草。あの頃の私はもういない。春久の求める私はもういない。春久を落胆させないためにも断るべきだ。

 しかし、私は「一日中空いている。その日なら。」とだけ書き、私の家の住所を添えて返信メールを送った。それは、私の求める春久がまだいたと思ったからだった。SNSではなく、ビジネスでしか使わないようなメールソフトをプライベートで使うところやメール内のやけによそよそしい姿はあの頃の春久を彷彿とさせた。その日、私はまだ春久を求めていることにやっと気づいた。

 翌日、私は約束の日に有給を申請した。

 春久はきっとあの頃の私を求めているのだろう。だからこそ、私は失われてしまった私を復元しようと努めた。もうあの頃の姿もなければ影すらない。

 でも、私は何かに手招きされているような気がした。あの頃の欠片のような何かが私を呼んでいるような気がした。だから、私はそこへ向かうことにした。

 


 私がリップを塗り終え、ベランダの隅にある満開のプランターと睨め合って花占いができそうなものを探しているとき、ちょうどインターホンが鳴った。

玄関扉を開けると、春久はあの頃の姿のまま、紙袋を持って立っていた。黒色でアルファベットが書かれている白いTシャツに新品のデニム。洋服への関心の無さは健全のようだ。

「風がこっちへ吹いたんだ」

 紙袋から箱を取り出して私の方へ差し出す。箱にはマドレーヌの写真がある。春久が現在住んでいる地方の特産品だ。

 私は少し口元をほころばせてマドレーヌを受け取り、春久を部屋に入れた。

 春久はちょこちょこと視線をあちこちに動かして私の部屋の様子をうかがった。それは、まるで汚れた水を新しい水に取り換えた後の水槽に入れた金魚のようだ。そして、春久は「おぉ~」という小さな感嘆をちょくちょく呟きながら食卓机の椅子に腰を下ろした。

 春久の向かい側に座る。春久はあの頃のままの雰囲気を纏っている。

「髪、伸ばしたんだね」

 少しの沈黙を破って春久が口を開く。春久が最後に見た私はショートボブだった。肩まで髪を伸ばしている私に尋ねてみたくなる気持ちもわからなくはないなと思った。

「髪がそう言っているだけで私は知らないわ」

 あの頃の私を模倣する。つでにマドレーヌを食べる。

「そんなところも紫苑らしい」

 春久はそう言って、くすっと笑った。そして、春久もついでにマドレーヌを食べる。

 それから、話題は高校時代の友人の現在から大学時代の変な友達、会社の愚痴話へと途切れることなく変わっていった。そして、私たちは話題が変わるごとに「成長してしまったんだなぁ」と何かに浸り、マドレーヌを食べた。やがて黄昏時になると、私はラジオをつけて床に寝っ転がった。春久はただ私の保護者のように私を優しく見守りながらラジオを楽しんだ。春久の住む地域では聞けないラジオ番組だったからだろう。あの頃のようにそれぞれが好きなようにしてくつろいでいる。距離は すっかり元通りになりつつあった。しかし、それはまだ親友と呼ぶべき距離感だった。

「まだ刺繍しているんだね」

 春久は部屋の隅にある裁縫道具を指さした。私が裁縫少女であったのは春久はよく知っていた。なにせ、私が春久の誕生日プレゼントとしてきんちゃく袋やブックカバー、果てにはクッションなんかをあげていたのだから。

「最近は全くやっていない。裁縫道具はこっちに持ってきたけど入学して数か月くらいでやめちゃったよ。風がうまく巡り合わないせいかもね」

 春久は驚いていた。

「高校で家庭科の看板みたいな存在だった紫苑がそうなるとは考えてもいなかった」

 私は大きく変わってしまったんだなと思いつつ、手付かずの裁縫道具だけがあの頃の私から受け継いだ唯一のものだと悟った。裁縫道具が部屋の中で唯一窮屈そうにしていた。



「そろそろお暇するよ」

 日はとっくに沈んでいた。鈴虫が鳴き始めても良いくらいの時間帯だが、コンクリートだらけの世界に鈴虫の声はめったに聞こえない。静寂が立ち込めるだけだ。

 春久は靴を履いて玄関扉の前に立った。久しぶりに春久の背中を見た。私がさよならといえばきっと終わる。満足感の裏に少しの違和感があったような気がした。

 最後に見たのはいつだったかとふと思って記憶を探る。最初はたわいもない日常だと思っていたが、何故かその記憶は深くにある気がした。潜って潜ってようやく靄に覆われた何かの記憶に触れたとき、私は呼吸が乱れた。

 思い出したのはひどく美しい夢の終わりだった。私は故郷を出る前日の夜、どうしても春久に会いたくなった。



 どうしたものか。いつも私に快眠を与えたベッドは私を拒絶している。いや、私が拒絶しているのか。時刻は十二時を回っている。明日は早く起きないといけないため、たとえ眠れたとしても五時間くらいだ。残念だが、朝に私があくびをすることは確定してしまっている。でも、きっと新幹線での移動中にぐっすり眠れるだろう。

 そんなことを考えていたら、唐突に私はあることを思い付いた。そして、一通のメールを送ることを決めた。頭に思い浮かんだ言葉をそのままメールに張り付ける。 迷惑メールになってしまうならそれで構わない、と思い送った。そして、「送信」ボタンを押した。



 指定した時間に公園へ向かうと、そこには見慣れた人影が薄暗い照明灯のもとにあった。

「風がこっちへ吹いたんだ」

 春久はそう言って笑顔を見せた。

 私は何も言わずに春久のもとに駆け寄って抱きしめた。ただこの温もりだけが欲しかった。

「一緒に夕食を食べてから四時間くらいしか経ってないじゃないか。心配だよ」

 そう言って私の頭を優しく撫でた。

「私は貴方がここにいて心配しているのよ。私が会おうって言ったら特急列車か新幹線で駆けつけてくるんじゃないの」

 静寂な空間が私と春久だけの世界を創る。たまに吹く風は春を伝える。しかし、 桜が咲く頃には私も春久もいない。

「本当に……先が思いやられるわ」

 私の強がりさえも彼の温もりには勝てないらしい。私はようやく顔を上げて春久を見た。そして、数秒間だけ私のかかとはそっと世界から離れた。

「これだから僕は心配しているんだ」

「きっと貴方は煙草依存症になるわよ。すぐに口淋しくなって煙草に火つけてチュパチュパ吸うんじゃないかしら」

「失笑だね……」

 春久は私に背を向けて言った。

「楽しかったよ。また、いつか——」

 春久は足音も立てずに一歩ずつ確実に私から遠ざかっていく。ああ、終わってしまう。本当に終わってしまう。本当に……。

 私はいてもたってもいられなくなって春久の背中に抱き着いた。

「もう振り返れないよ。振り返ったら僕のウクレレが星座になりそうだよ。風が吹けば桶屋が儲かるみたいにね」

 私は手を緩めなかった。ずっと、ずっと。放してしまえば終わってしまうと知っていたから。

 そんな春久は動じずに私を見かねてこう呟いた。

「僕だって——」

 私はその言葉を聞いて自身の行動の残酷さに気づいた。逆にもっと素っ気ない別れであったらどれほど良かったのか。

震えている。手に力が入らなくなる。

 春久の体がとうとう解放される。春久はまた私に背を向けて一歩、二歩と歩き始める。

 私は遠ざかっていく背に必死でこう言った。

「未来で、未来で会おう。罪滅ぼしは未来の私が——」

 それに応えてか春久は一度止まって言葉を私に置いて去った。

「待ってる」

 春久は待ち続けていた。あの日からずっと。なのに私は応えることができなかった。私が変わってしまったからだ。

 私にはあの頃の背が見える。どこか奇妙な静寂すらもあの頃の静寂を連想させる。きっと、私の行動でまたここからやり直せる気がした。私がすべきことはもう分かっている。

 でも、動けない。私はもう堕ちてしまったから。朽ちてしまったから。

 本能があの頃と同じ感覚だと言っている。

 春久は「さよなら」と振り返らずに言った。玄関扉に手を付け、開く。外はもう 闇に包まれていた。春久は闇に吸い込まれるように外へ足を進め、扉の閉まる音が 反響するとともに郷愁だけが部屋に残って、籠った。


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