菌糸
イロイロアッテナ
第1話 始まり
この物語はフィクションであり、特定の個人、団体とは一切関係ありません。
奥の襖を開けて、自分の部屋から出てきた母は、僕を見ると少し口を引き絞り、
「東ノ谷に行くよ。」
そう言った。
僕は、机に広げた教科書から目を離し、母を見上げた。
「これから、おばあちゃんちへ行くの?」
母は無言でうなずいた。
母の実家までは自転車で20分ほどで、行き来することも多かったが、急に出かけることは、今までなかった。
「わかりました。」
僕は違和感を覚えながらも、コートを取りにクローゼットに向かったが、すぐに母の鋭い声がかかった。
「これを片付けなさい。」
振り返ると、母は仁王立ちのまま右手を指先まで伸ばし、机の上に広げっぱなしになっていた教科書や問題集を指差していた。
僕は首をすくめると、
「はい、きちんと片付けます。」
と答えて机まで戻り、本棚のファイルケースに教科書や問題集、プリント類を片付け始めた。
プリント類を教科ごとに整理してクリアファイルに入れながら、こっそり母の表情を盗み見ると、こめかみに青筋が走り、口が半開きで呼吸が激しかった。
僕は急いでプリント類を片付けようとしたが、視界の外から、ピンクベージュのマニキュアを塗った母の手がプリントを鷲掴みにすると、ファイルケースに無造作に突っ込んだ。
僕は、整理されていないことに小さく
「あっ!?」
と声を上げかけたが、母に睨まれて、すぐに口をつぐんだ。
母は、ファイルケースに当たってわずかに剥げた自分のマニキュアを見て、
「ちっ!」
と舌打ちをし、勢いよく立ち上がった。
僕は急いでコートに袖を通して部屋を出て、庭の片隅にある鍵をかけていない自分の自転車を、慌てて引っ張り出した。
母も自分の自転車のハンドルを持つと、母屋の横を通って表へ出る細い路地を、自転車を引いて歩き始めた。
慌てて、僕も後を追う。
母が母屋の仏間の横に差し掛かったとき、通路に面した仏間のサッシが開き、和服姿の祖父が現れた。祖父は母を見て、
「これから在所に行くのですか?」
と聞いた。
母は先ほどとは打って変わって、柔和な笑顔を作った。
「はい。お伝えしたとおり、父の様子を見て参ります。」
「早く良くなるといいですね。」
「ありがとうございます。では、行って参ります。」
頭を下げて歩き出そうとした母を祖父は呼び止め、何かを言いかけたが、祖父はそれを言葉にはせず、口に右手の拳を当ててしばらく考えた後に、捻り出すように
「くどいようですが、康太を巻き込まないようにしてください。お互いのために。」
と言った。
一瞬動きを止めた母は静かに祖父を見て、
「心配には及びません。お約束しましたから。」
と笑顔で会釈をした。
しかし、母の後ろに並んでいた僕には、会釈の下で母の笑顔が一瞬だけ鬼の形相になっていたのが見えた。
表通りに出ると、母と僕は自転車を漕ぎ出した。
やがて、なだらかだがとても長い坂を下った先にある母の実家に着いた。
母の実家はただの小さな民家だったが、その壁際には数え切れないほどの自転車が止まり、おそらく違法駐車であろう、半分歩道に乗り上げた車両も数十台止まっていた。
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