捨てられた聖女は、王の敵を救う
マルコ
第1部 第1章 断罪の聖女 ―祈りは届かずとも―
──王都アーベル。王暦六百二年、春。
陽光が差し込むはずの王城の大広間は、今日は冷たい鉄の牢獄のようだった。
磨かれた白大理石の床には、ひざまずく一人の女。
白衣に金糸をあしらった聖女服は、血と泥で汚れている。
「聖女リオナ・アステリア。お前は、王太子殿下に呪いをかけた罪により――断罪される」
宰相の低い声が響く。
広間の貴族たちは口々に囁き、冷笑を漏らした。
「ついに落ちたわね、聖女様も」
「やはり聖なる力など、まやかしだ」
リオナは唇を噛み、俯いた。
それでも、その肩は震えていない。
代わりに、青い瞳の奥に灯るのは静かな炎だった。
「……私は、呪ってなどいません。アレクト殿下が倒れたのは、神殿に仕込まれた毒のせいです。どうか、調査を――」
「黙れ!」
宰相の怒号が響く。
重臣の一人が杖で床を打つ音が、まるで死刑宣告の鐘のようだった。
「証拠はあるのか、聖女!」
「ないでしょう? 貴様の口は信じられん!」
群衆の中で、誰よりも沈黙している者がいた。
玉座の前に立つ、金髪の青年――王太子アレクト・リヴィウス。
彼は何も言わず、ただリオナを見つめている。
信じていた。
いつだって、彼だけは自分を信じてくれると。
神の奇跡を軽んじる者が多いこの国で、ただ一人理解者だった人。
「……殿下。私を、信じてくださらないのですか」
絞り出すような声。
だが、返ってきたのは、静かな拒絶だった。
「お前が信じていた神も、俺が信じたお前も――幻だったのかもしれない」
リオナの胸の奥で、何かが崩れた音がした。
足元の鎖が引きずられ、兵士たちが彼女を引き立てる。
広間の外、断罪広場へと続く扉が開くと、まばゆい日差しと群衆の怒号が押し寄せた。
王都の民が見守る中、聖女の処刑が行われる。
かつて病を癒やし、飢えた子どもたちにパンを分け与えたその手に、今は縄がかけられていた。
「裏切り者!」
「神を騙った魔女め!」
誰かが投げた石が頬を打つ。
痛みはほとんど感じなかった。
心が、もうそれ以上に傷だらけだったから。
広場の中央に設けられた断罪台。
聖堂騎士団が取り囲み、宰相が高らかに宣言する。
「神に仇なす聖女リオナ・アステリアに、神罰を!」
刃が振り上げられた。
その瞬間、リオナは静かに目を閉じた。
――女神よ。どうか、この国をお救いください。
私の命が、誰かの光になりますように。
その祈りが届いたのかどうか。
次の瞬間、世界が白く染まった。
轟音。閃光。空を裂くような光柱。
処刑台を包む神聖光の中、誰もが息を呑んだ。
「な、なんだ――これは!」
光が収まった時、リオナの姿はどこにもなかった。
遠く、砂に覆われた荒野。
ひび割れた大地の上で、一人の女が目を覚ます。
乾いた風。熱を帯びた空気。
見知らぬ空の下、リオナはかすれた声でつぶやいた。
「……ここは……?」
彼女の手に握られていたのは、焦げた聖印と、ひとひらの白い羽。
女神の声が、遠くで囁いた気がした。
『お前はまだ、終わっていない。生きて、救え。敵をも。』
リオナの瞳に、再び光が宿る。
「……生きろ、というのね。なら、もう一度……人を信じてみせる」
その歩みが、やがて“敵国の将軍”との出会いへとつながることを、彼女はまだ知らなかった。
砂に足を取られながら、リオナは陽炎の向こうに黒い影を見た。
岩山の稜線を滑るように、いくつもの騎影が近づいてくる。
(兵……? 紋章が違う。王国の騎士じゃない)
先頭の騎馬が手綱を引いた。砂煙の中、金属の軋む音。
黒鉄の胸甲。濃紺の外套。片肩に狼の徽章――。
「……アルステラ軍」
低い声が落ちた。
騎上の男がリオナを見下ろす。灰色の瞳は冷えていた。
「生存者か。身分を」
喉が渇き切って声が出ない。
リオナが唇を開閉させると、男は短く息を吐き、革の水筒を投げた。
「飲め。死にたくなければ答えろ」
砂の上に膝をつき、水に口をつける。
喉を走る痛みが引くと、ようやく言葉がこぼれた。
「……旅の……祈り手です。名は……リア」
男はすぐには信じない顔で、彼女の手元を見た。
焦げた聖印。リオナは反射的に袖で隠す。
「傷だらけだ。立てるか」
差し出された手は分厚く、硬かった。
リオナが掴むと、彼は容易く引き上げる。
「将軍。どうします?」
「連行かと」
副官らしき男の声に、先頭の男は短く答える。
「救護所へ運べ。働けるなら働かせろ」
将軍――そう呼ばれた男は踵を返した。
黒馬のたてがみが砂を弾き、隊は無駄のない動きで反転する。
(敵国の……将軍)
その背中が、ひどく遠く見えた。
アルステラ軍の野営地は、岩場を背にして組まれていた。
白い天幕が規則正しく並び、風向きに合わせて焚火の位置がずれる。
救護天幕の中は、薬草と血の匂いが混ざっていた。
粗末な寝台に男たちが横たわり、浅い呼吸を繰り返している。
「おい、そこに寝かせろ。……嬢ちゃん、動けるか?」
ひげ面の軍医が問う。
リオナは頷き、袖をたくし上げた。
「祈り手だって? なら手伝え。包帯、煎じ薬、消毒。奇跡が使えるならなお良しだが、期待はしない」
そう言ってから、男はじろりと彼女の目を見た。
「怯えてる暇はない。死ぬか、生かすかだ」
「……はい」
手を洗い、針と糸を受け取る。
指先が震えそうになるたび、深呼吸で落ち着かせた。
(できる。私は、何度もやってきた)
最初の男の肩口の傷を縫合し、止血。
次の男は高熱。湿布を替え、額を拭く。
幼い頃、神殿で教わった基本の看護を、ただひたすらに積み重ねる。
――ひとり、息が浅い。
胸に手をかざす。
祈りは、もう誰のために向ければいいのか分からない。
それでも、そっと目を閉じる。
(生きて。あなたにも、朝が来ますように)
微かな温もりが掌に満ちた。
傷口の周りの黒ずみが薄れ、男の呼吸が少しだけ深くなる。
軍医が目を見開いた。
「……おい、今のは」
リオナは小さく首を振る。
「勘違いかもしれません。ただ、手を温めて」
「ふん。どっちでもいい。結果が出りゃな」
男はぶっきらぼうに笑い、別の寝台へ向かった。
「将軍、救護の祈り手は使えます」
救護天幕の入口に影が落ち、あの男が立っていた。
灰の瞳は、炎の反射でわずかに揺れている。
「名は」
「……リアです」
「リア。働く意思があるなら、ここにいろ。報酬は食事と寝床だ。逃げれば、砂で死ぬ」
脅しでも、同情でもない。事実の宣告。
リオナは迷わず頭を下げた。
「置いてください。祈り手として、できることはします」
将軍は短く頷いた。
「俺はレオン・ヴァルグ。ここでは多くを聞かないのが礼儀だが――」
彼の視線が、袖の奥に隠した焦げた聖印をかすめる。
長く、重い一拍。
「……祈るだけの手なら、要らない」
言い捨てると、レオンは背を向けた。
リオナは思わず拳を握る。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
(祈るだけじゃない。祈ることから、手が動く。私は――)
「血止めの布! 誰か! この人、脚が!」
叫び声。
リオナは反射的に走り、男の腿の根元を押さえた。
「動かないで。今、縫います。麻酔は少しだけ。痛いけど、あなたは強い人です」
「……お、おう……っ」
血の温度。肉の抵抗。針の通る感触。
指先の震えは止まっていた。
終わった時、男は力なく笑った。
「ありがとよ、嬢ちゃん。祈り手ってのは、やっぱり……」
「祈るだけじゃ、ないですよね」
不意に漏れた言葉に、自分で驚く。
天幕の入口から、レオンが一瞬だけこちらを見た。
灰色の瞳に、ほんの僅かに、温いものが差す。
夜。
砂漠の冷気が天幕の隙間から忍び込み、焚火がぱちぱちと鳴っている。
支給された薄い毛布を肩にかけ、リオナは外に出た。
星が近い。王都の空とはまるで違う、乾いたきらめき。
「眠れないのか」
背後から声。レオンが立っていた。
彼は外套の襟を片手で持ち上げ、夜気をやり過ごす。
「はい。……いろいろ、考えてしまって」
「考えても水は湧かん。必要なら汲みに行け。必要なだけ」
「実用的ですね」
「生きるとは、そういうことだ」
ぶっきらぼうな言葉なのに、なぜだか少し安心する。
沈黙が落ち、砂の冷たさが足から伝わってきた。
「将軍は、いつから戦っているのですか」
問うと、レオンは答えず、空を見上げた。
狼の徽章が、焚火の光で揺れる。
「……昔話は酒の肴だ。どのみち、甘くはない」
それでも、ほんの少しだけ。
「王国に家族を奪われた。俺が刃を捨てる理由はない」
短い言葉。
けれど、その向こうにある痛みは、想像に難くない。
「……ごめんなさい」
「お前が謝ることじゃない」
切っ先のように冷たい拒絶ではなかった。
レオンは振り向かず、焚火に薪を一本放る。
「明日、ここを動く。北東の村で疫病の噂がある。祈り手。……お前の手が要る」
「分かりました。行きます」
「その前に飯を食え。倒れるな。治す者が倒れれば、誰が治す」
軍の炊き出しは質素だったが、温かかった。
塩気の強いスープが胃に落ちるたび、生きている感覚が戻ってくる。
寝台に横たわる直前、リオナは毛布の下で焦げた聖印に触れた。
女神の気配は遠い。けれど、完全に消えたわけではない。
(生きる。働く。救う。――それでいい)
目を閉じると、砂の上を吹く風の音が、子守歌みたいに続いた。
翌朝。
隊は夜明けと同時に進発した。
乾いた地平線の先、低い丘の向こうに土塀の村が見える。
「ヴェルナ村だ。気を抜くな、噂は噂だが、病は刃より厄介なことがある」
レオンの号令で隊列が引き締まる。
村長と名乗る老人が、恐る恐る門の外へ現れた。
「軍の方々……疫病を連れてきたのではあるまいな」
「連れてくるのは薬と手だ。拒むなら帰るだけだが、困るのはそっちだ」
老人は喉を鳴らし、観念したように門を開けた。
中は静まり返っていた。
人影は薄く、窓の隙間からじっとこちらをうかがう目だけが動く。
「救護所を借りたい。空き家は」
「……あの粉屋が空いている。だが、王国の祈り手に頼るのはごめんだぞ」
老人の視線が、リオナの白衣に刺さる。
彼女は深く頭を下げた。
「私は国ではなく、人のために来ました。手を貸させてください」
年寄りの目が細くなる。
しばらくして、吐き出すように言った。
「……子どもが高熱で寝込んでおる。見てくれ」
「すぐに」
粉屋の空き家は粉塵の匂いが残り、奥の部屋に幼い少女が寝かされていた。
頬は紅潮し、唇が乾いている。手は熱いのに、体の芯が冷えている。
(熱の波、呼吸の浅さ。恐らく肺。薬草は……)
リオナは煎じ袋を二つ取り出し、軍医に伝えた。
「解熱と、痰を切るものを。水分は少量ずつ。体を冷やしすぎないように」
「わかった。あとはお前の“祈り”とやらだ」
母親が泣きそうな顔で見守る中、リオナは少女の額に手を当てた。
女神との距離は遠い。それでも、掌の温もりは自分のものだ。
「大丈夫。あなたは、朝が好き?」
かすかに頷く。
リオナは微笑み、囁く。
「じゃあ、今度いっしょに朝焼けを数えよう。だから、もう一度――吸って、吐いて」
掌に、温かな気配が集まる。
小さな胸が大きく上下し、こわばっていた喉がすっと通った。
母親が息を呑む。軍医が腕を組む。
「効いてる……のか?」
「医学的にもやることはあります。私のは、背中を押すだけ」
数時間後、少女は汗をかき、熱が少し下がった。
母親は土間に頭を擦りつける勢いでお辞儀をする。
「ありがとう、ありがとう……!」
「顔を上げてください。まだ油断はできません。水を――」
外がざわめいた。
村の門の方から、怒号。
「アルステラの兵が、神を騙る女を連れ込んだってよ!」
「疫病はあいつが呼んだに違いない!」
数人の男が棒や鍬を持って押し寄せて来る。
軍の警備兵が前に出るが、緊張は瞬く間に熱を帯びた。
「やめてください! 今は患いの子どもが――」
リオナが外へ出ると、男の一人が指を差した。
「白衣! 王国の神殿の者だろう。出ていけ!」
レオンが一歩、前に出た。
灰の瞳が、村人を静かに見渡す。
「この女は俺の隊の祈り手だ。ここで手を出すなら、敵と見なす」
「将軍、脅しは火に油です」
副官が低く言うが、レオンは肩もすくめない。
男たちの握る棒の先が震え、今にも飛びかかりそうな空気――。
リオナは深呼吸し、袖をまくった。
粉屋の戸口から、さっきの少女が覗いている。母親が慌てて抱き寄せた。
「……見てください。さっきまで息も苦しそうだった子が、今は眠れている。私は疫病を広げに来たんじゃない。止めに来た」
男たちの視線が揺れる。
その時、村の奥から咳き込みながら走って来る少年が叫んだ。
「ば、ばあちゃんが! 息が――!」
迷いが、群衆から霧のように消えた。
リオナは駆け出し、レオンも黙って後を追う。
土壁の家。痩せた老女が背を丸め、肩で息をしている。
舌の色、爪の色、指先の冷たさ――。
「副官、湯を。軍医、吸入の準備を。……将軍、窓を少しだけ開けてください。風向きを見ます」
レオンは言われた通りに動いた。
彼の大きな手が木枠を押し、微かな風が流れ込む。
「苦しいのは、怖いからです。いっしょに数えましょう。ひとつ、ふたつ」
老女の呼吸が、わずかに整っていく。
煎じた薬を少しずつ含ませ、背中をさする。
時間が伸び、そして――。
静寂。
老女の顔の緊張がほどけ、すうっと眠りの表情になる。
周囲の空気が、安堵でほどけた。
レオンは目だけでリオナを見た。頷きに似た、かすかな変化。
「……助かった」
「いえ、皆さんの協力があって」
外に出ると、先ほどの男たちが気まずそうに視線を逸らした。
ひげ面の軍医が鼻を鳴らす。
「信仰だの奇跡だの、俺は信じん。だが――“働く手”は信じる。今日の働きは本物だ」
リオナは小さく笑った。
胸の痛みが、ほんの少しだけ、温かさに変わる。
(祈りは、手といっしょにある)
その時、村の門楼に立つ監視兵が旗を振った。
砂丘の向こう、王国式の馬具をつけた騎影が近づくのが見える。
「……王国の斥候か」
レオンの声が硬くなる。
副官が耳打ちした。
「将軍、聖女の噂は王国にも流れているはず。ここで目撃されれば――」
リオナは無意識に袖の奥の聖印を握った。
女神の気配が、遠くで脈打つ。
「祈り手」
レオンが短く呼ぶ。灰の瞳がまっすぐに射る。
「ここから先は、ただの看護じゃ済まない。俺の指示に従え。走れと言ったら走れ。隠れろと言ったら、息を潜めろ」
「……はい」
「そして――迷うな。迷いは、命を落とす」
冷たい言葉なのに、不思議と背骨がまっすぐになる。
リオナは頷き、粉屋の前に並んだ。
砂の向こうから、王国の紋章旗がはためく。
過去と現在が、同じ場所へ歩いてくる音がする。
(逃げない。私は、もう)
風が砂塵を巻き上げ、村の鐘が鳴った。
砂煙の向こうから現れた王国の斥候隊は、四騎。
先頭の男は銀の胸当てを光らせ、鋭い目で村を見回した。
その視線がリオナをかすめるたび、背筋が粟立つ。
「この辺りに、逃亡した王国の罪人が潜んでいるとの報告を受けた。
女で、白い衣を着た癒やし手だ。見なかったか?」
村人たちは互いに顔を見合わせ、沈黙。
レオンが一歩前に出て、馬の鼻先を遮った。
「ここはアルステラ領だ。王国の兵が踏み込む許可は出ていない」
「我らは“聖女奪還”の勅命を受けている。アルステラが匿っているとあれば、敵対行為と見なす」
「勅命? 笑わせる。死人をどうやって奪う?」
レオンの灰の瞳が細まる。
斥候の一人が剣に手をかけた瞬間、兵の弓弦が一斉に鳴った。
村の空気が凍りつく。
「抜けば殺る。どちらの国でも、戦争の火種には困らん」
「っ……」
斥候の隊長が逡巡した。
彼らの任務は捜索であり、戦闘ではない。
互いににらみ合った末、唇を歪める。
「後悔するなよ、将軍。神に背く者を匿えば、神の怒りを受けるぞ」
その言葉に、リオナの手が微かに震えた。
彼らが去るのを見送ってから、レオンは振り返る。
「お前だな」
「……え」
「王国が言う“罪人”は、祈り手リア。違うか」
灰の瞳がまっすぐに射抜く。
リオナは口を開きかけ、閉じた。
嘘をつくより、沈黙のほうが罪深い気がした。
「……私を、どうするつもりですか」
「今のところは放っておく。疫病を止めた功績は本物だ。
だが、俺の隊に災いを呼ぶなら、その時は斬る」
短い言葉。
けれど、その中に微かな信頼が混じっているように思えた。
「わかりました。……私も、嘘はつきません。
ただ、過去をすべて話す勇気は、まだないのです」
「話せる時が来たらでいい」
レオンは踵を返し、去っていく。
その背を見つめながら、リオナは胸に手を当てた。
(ありがとう……)
その夜。
風が強く、砂嵐が村を包んだ。
外の喚き声に目を覚ますと、天幕の隙間から炎の光が揺れている。
「将軍! 南の家から火が!」
兵士の叫び。リオナは反射的に飛び起きた。
「井戸! 水を!」
外へ出ると、炎が家屋を呑み込もうとしていた。
中には老人と幼子の影が見える。
「中にまだ人が!」
レオンが即座に外套を脱ぎ、顔を覆う。
燃え盛る扉を蹴破ろうとするが、熱気が容赦なく押し返す。
「ダメです、将軍! 崩れます!」
「黙れ!」
その時、リオナが駆け出した。
「リア!?」
返事の代わりに、腕で顔を覆いながら炎の中へ飛び込む。
焦げた梁が落ち、火の粉が舞った。
視界の端で、幼い手が動く。
「こっちです!」
リオナはその手を掴み、老人の腕を引いた。
喉が焼ける。視界が揺らぐ。
出口の光の向こうに、灰の影が見えた。
レオンが扉をこじ開け、彼女たちを抱きかかえて外へ引きずり出す。
次の瞬間、屋根が崩れ落ち、炎が爆ぜた。
砂上に転がり、咳き込みながら息を吸う。
レオンの外套が肩にかけられた。
「馬鹿が……命を捨てるなと教えただろう」
「ごめんなさい。でも……生きてたんです。助けられたから」
燃え落ちる家を見ながら、リオナの頬を涙が伝う。
老人が震える手で彼女の手を握る。
「ありがとう、聖女様……」
その呼び名に、レオンの目がかすかに動いた。
「……聖女、だと?」
「いや、その、娘を救った奇跡を見たもので。昔、王国の聖女が……」
リオナは息を止める。
レオンの視線が、炎の赤を反射して彼女の横顔を照らした。
「やはり、そうか」
「……違いません。
私は、かつて王国の聖女リオナ・アステリアでした。
でも、今はもう、その名を捨てました」
沈黙。
燃えさしが風に舞い、夜空に消えていく。
レオンはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「王国が“神罰を受けた”というあの女か」
「ええ。私は罪を着せられ、処刑されました。
死んだはずなのに……気づけば、ここにいたんです」
「死んで生き返った聖女、か。信じがたい話だな」
「信じなくていいです。
ただ、ここで人を救いたい。それだけが本当です」
レオンは焚火の光の中で、静かにリオナを見た。
その瞳に、怒りでも恐れでもない、別の何かが宿っている。
「俺は神を信じない。だが、今夜は――お前を信じる」
「え……?」
「さっきの火の中で、お前は迷わなかった。
信仰がどうであれ、それは強さだ」
リオナは言葉を失い、ただ頷いた。
夜明け前。
村を囲む砂漠の端、東の空がわずかに白む。
レオンは焚火のそばで剣を磨きながら、ぽつりと呟いた。
「俺の国は、戦ばかりだ。癒やす者が足りない。
だが、“聖女”を名乗る女を抱えるのは危うい。
王国が再び動けば、ここも戦場になる」
「……それでも、ここを離れません。
あなたたちを見捨てたら、きっと神にも顔向けできない」
「祈り手リアのままでいろ。聖女リオナは、ここにはいない。
俺の隊には“罪人”も“奇跡”も必要ない。必要なのは、生きて働く人間だけだ」
その言葉は、彼なりの庇いだった。
「……ありがとうございます。将軍」
「礼はいい。寝ろ。明日は北の村まで移動する」
リオナは天幕に戻り、薄明の光の中でひとりつぶやいた。
「捨てられた聖女、か……。でも、まだ生きてる」
女神の声は聞こえない。
けれど、胸の奥に小さな光が灯っている。
(人を救う。それだけでいい。敵も、味方も関係ない)
リオナは目を閉じ、浅い眠りに落ちた。
その夜、砂の彼方で、王国の斥候が報告を終える声が響く。
「間違いありません。聖女リオナ、生存を確認――」
運命の歯車が、再び軋んだ音を立てて動き出した。
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