第五章

 Sの心を粉々に砕いたのは、他ならぬ彼自身だった。関わった。選んだ。固執した。全てを疑った。他者を変えようとした。


 平和に溶け込んでいれば良かったのに、そこから逃げた。愚かな行動だった。世界は、強制などしていなかった。



 少し焦げた目玉焼きの匂い、足早にあるいは余裕を持って進む人々の足音、数日振りに顔を出した優しい太陽の光。


 いつもと何も変わらない朝。世界の平穏を崩す存在はどこにもいない。世界から分離された男が一人いるだけ。



 Sはあの日の翌日、仕事へ向かった。何かに突き動かされた訳ではない。空っぽになった彼に、習慣がそうさせただけだ。職場は嘘のように平常運転だった。


「なんかSさん今日元気ないっすね」


 顔見知りの後輩から軽く心配されたが、機械的にこなすことで午前中を乗り切ることが出来た。昼休み、味のしない、色のない弁当を食べた。


 野菜、卵、野菜、野菜。米の上に海苔と魚。全部ジャリジャリと纏わりついて口の中を傷つける気がした。


 堪らず水で流し込んで食事を終える。手持ち無沙汰になり、喫煙所へ向かった。


 馴染みの面子は馴染みのまま、何も変わらない様子だった。ふと、一人の男に目が止まる。見知った作業服、見知ったタバコ、見知った笑い方。顔だけが異なる。


 見知らぬ男だった。談笑していた。何も変わらぬ喫煙所で。いつからだ。いつから、俺の世界は……。オヤジさんの顔も名前も思い出せない……存在もだ。


 額に汗が滲む。


 確認する術ならいくらでもあった。たまたま違う男だっただけかもしれない。だが、Sは確信していた。


 世界が、自分の知っているものではないのだと。自分の存在を、赦してくれはしないのだと。職場へはそれ以来一度も行っていない。


 それでも家庭に助けを求めることはしなかった。とうに正気を失っている筈なのに、どこまでも家庭はSにとって養うべき対象だった。


 自分を休ませる逃げ場にはならなかった。妻も息子も新たな家族も、何も知らずに待っているのに。公園のベンチ、図書館、川沿いの野球場。それらが彼の新たな職場だった。



 昼下がり、人もまばらな図書館の片隅。ふと、彼女と繰り返した会話を思い出す。


「何か面白い話ないんですか?」


 彼女は平板に、退屈そうに尋ねることがあった。いつもは愛想良く過ごしている彼女だったが、二人だけで会う時には、時折こんな感じで話してきた。


「私、素はあんまり起伏ないんですよね。」


 あまりに平板だったので、Sが機嫌を尋ねると、少し困ったように付け足すことがあった。眉根がほんの少し下がった彼女は堪らなく愛おしかった。


「……ないなぁ。」


 Sは大体こう答えるか面白味のない体験を話すかで、つまらなそうな彼女の表情を変えることはあまり出来なかった。


 それでも時折、彼女の琴線に触れたのか、ふっ、と笑ってくれることがあった。遠慮がちに八重歯が覗く彼女の笑顔がとても好きだった。


 心の奥の方から、体の隅々まで、暖かい感情が満たしてくれた。


 面白いことなんてない、平穏な世界でよかった。そこに居させてくれるだけで自分は満足だった。



 メモ帳の端に、Sは指先を震わせながらも強い筆圧で何かを書いた。黒いサインペンでぐちゃぐちゃに書き殴った。孤立した彼を象徴する、彼にしか読めない字だった。

 

 "オレは彼女と別れたのに、なんで世界は平和なんだ"

 

 ページの余白にはびっしりと"取り戻す"と言う四文字の祈りが、白い葉を喰い荒らす無数の虫喰いのように広がっていた。


 インクの跡はまだ乾いておらず、意図せず触れたSの指先をも蝕んだ。その一文はSにとって一種の聖句だった。


 電車の中、コンビニ、人が行き交う大通りで、無意識にその聖句を反芻し、歪んだ執念に何度も火をくべた。


 聖句はSと世界を結び付ける唯一の鎖となり、理不尽な恨みを正当化する縁となった。

 膨張し続ける妄執は、具体的な対象を持たず無秩序に広がった。


「もしもーし……え、今日?飲み会?行くに決まってんじゃん」


 道行く人が楽しそうに誰かと話す電話の声が、その人の居場所を想起させて堪え切れない。


 俺はもう居場所を失っているというのに。


「ねーねーこれ見てヤバいめっちゃ可愛く撮れたんだけどー」


 若者達が楽しそうに動画を撮影している様子が、世界に彼らの居場所を認めさせているように見えて我慢できない。


ぶち壊したい。


「今日晴れてよかったよね」

「ねえ、どこ行こっか。まったりしたいな」


 喫茶店の窓に映るカップルのゆるやかな会話は…存在してはいけない。


 ──それらはすべて、Sにとっての"許されざる平和"だった。存在させてはいけない。おれがおかしいんじゃない。せかいがくるってるんだ。


 Sは、自分にとって彼女の存在が象徴する「手に入れられなかった幸福」そのものを相手にするようになった。


 世界が平和であること自体が、彼に対する侮辱だった。正さねばならない。



 それからのSにとって、メモ帳は目的地までの航海図であり、羅針盤となった。駅前のファミレス、子どもの遊ぶ公園、週末に賑わうショッピングモール


 ──彼は子どもの落書きのように頼りない筆致でそれらを描き示し、使えそうな情報を書き添えた。


 「定点カメラの有無」「人の目が多い時間帯」「幸せそうな連中の多い場所」。まだそれぞれの言葉は抽象的で、手順や道具の記述もなかった。


 それぞれの欄には丸の中に様々な表情を示した絵が描き込んであった。笑顔や困り顔、泣き笑いのような表情もあった。


 誰が見ても意味不明の落書きにしか見えないその地図を見て、Sは怨嗟の炎に巻かれながら決意していた。笑っていた。頬を歪めて笑っていた。


 全て塗り潰さなければ。自分を塗り潰したあの色に。Sにとって地図の絵は自分を見捨てた世界の象徴であり、それを塗り潰すことは聖戦だった。


 彼の戦いは、世界に対する復讐だったが、同時に自分の存在を世界に再び位置させるための行動でもあった。Sの理屈はもはや魔術といってよかった。


 世界の平和を塗り潰し続ければ、いつか幸せな連中が俺と同じになる──そしたら俺が幸せな連中と同じになるんだから、俺は彼女と幸せになれる──女神はまた俺を赦してくれる。


 そう信じることで、Sは自らの行為を正当化した。


 聖戦のために凶器を準備することは「彼女との幸せな未来のための努力」だった。


 ホームセンターで凶器を選ぶ横顔は、デートに着ていく勝負服に悩む中高生のように真剣だった。


 想像の中で繰り返し聖戦を試みることは「彼女にもう一度告白するためのリハーサル」だった。


 願望と事実を拙い論理で結び付け、幻想を現実に上書きしていった。



 準備は淡々と進んでいった。Sは喫茶店の窓から人々を観察し、人の流れのリズムを何度も復唱した。


 笑い声が増す瞬間、人々がスマートフォンで情報を集める時間帯、歩行者の速度──


 それぞれの平和の数を数えながら、どれだけ効率的に塗り潰すかを考え抜くことが、Sにとっての訓練になった。


 リハーサルを繰り返すことで、彼の中の聖戦へのハードルは少しずつ下がっていった。


 その最中にあっても、Sの家庭は平然としていた。妻は変わらず毎日弁当を作った。


「あなた最近残すようになったけど大丈夫?どっか悪いの?」

「いや、味が……」


 しない、と言いかけて止めた。


「え?不味いって?作ってもらっててそういうこと言うの?ねえ!」

「ねー!ふたりともケンカしないでよぉ。」


 息子が割って入る。新たな家族は妻に加勢して吠え、こちらに向かって牙を向いていた。


 Sには、こんなやり取りですら世界が自分を裏切っている証拠に見えた。自分の苦しみを、恨みを、認めようとしない嫌がらせだと感じた。


 家族に悟られないように、深く深呼吸した。


 息子の笑顔も家族との食事も、もはや救いではなく、許されざる平和を映し出す鏡に変わっていた。



 ある夕方、Sはいつも通り訓練のために街角へ向かった。ここ数日の間に開戦するつもりで、最後の算段をつけるつもりだった。


 ポケットの中にはいつものメモ帳が握りしめられていた。インクと体液に塗れて変色したメモ帳には、新たに『幸せを取り戻す。』と書かれていた。


 Sはこの時、周囲の全てが敵に見えていた。溜め息を吐く。


 もう、幸せを取り戻す方法なんてわからなかった。


 交差点を渡ろうとしたその瞬間、周囲の視線が自分に集まった。平時の刺すような、責めてくる視線ではない。自分の存在が再び認められたような、至極普通の視線だった。


 安心して一歩踏み出すと、脇道から勢いよく車が飛び出してきた。どこかで感じた、睨みつけられる、睨め付けられる感覚。


 ブレーキの金属音を聞く間もなくSの視界は大きく揺れ、地面へ叩きつけられた。その瞬間、彼は確かに自分の世界が色を取り戻したのを見た。


 そして、広がる痛みを感じるより早く、世界は静かに、しかし決定的に彼を拒絶した。



 誉められなくて良い、認められなくて良い。そこに在るのを許して欲しかった。


 

 しばらくの間周囲は騒然としていたが、時間の経過と共に皆平穏な日常へ戻っていく。


 誰かが「エグかったねー」とつぶやき、別の誰かがスマートフォンを覗き込む。Sのポケットからメモ帳が滑り落ち、風に吹かれて散らばった。


 路上に散った紙の端には震える字で書かれた例の聖句が記されていたが、誰の目にも留まることはない。


 その文句は祈りでも聖句でもない。Sが自分を正当化するために作った呪文であり、ただの歪な言葉だった。


 散らかった紙片は誰かに踏まれてぐしゃぐしゃになり、雑踏とともに消えていく。


 翌朝、交差点には小さな花束が供えられていた。ささやかで慎み深い花束だった。その花束は、誰かが撮った写真の背景に溶け込み、発信され、拡散されていった。


 誰も、そこに倒れた者を知らない。そこで尽きた呪いを知ることはない。拡散された写真には、平和の数と同じだけ「いいね」が付いていた。


 

 世界は、やはり平和なままだ

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