第2話 感情凍結都市

 朝霧アルヴィンが連れていった先は、大学本館から二駅離れた雑居ビルの七階にある、研究所のサテライトラボだった。ドアは外気より冷たいのに、内側の空気は妙に乾いている。加湿器が水を吐き続けているのに、霧はすぐに消えた。壁面に敷き詰められた四枚の大型ディスプレイが同時に点灯し、白ノ原市の地図が重ね絵みたいに浮かぶ。上に、細かな粒子が舞い、粒子同士がときどき静電気を帯びたみたいに集まって、沈んだ灰色の斑点になる。

「これが感応場マップ。情動ログから算出した局所冷却域。色は温度じゃない。熱の流れの、行き場のなさ」

 アルヴィンが指で輪を描くと、駅前のロータリーに小さな灰斑が灯る。点滅は赤でも青でもなく、煤に似た色。学校の昇降口、病院の夜間受付、失業保険の窓口、閉店セールの張り紙が出ているショッピングモールの端──灰斑は街の目立つ場所だけを選ぶのではなく、人の声が小さくなる場所に粘るように貼りついている。

「相関があるとしても、因果はどちら?」

 ミアが問うと、アルヴィンは別の画面を呼び出した。過去十年の冬季データ。自殺率と凍死事故の折れ線は、雪の稜線のように上下しながら、うっすらと右上がりになっている。その下に並ぶのは、SNSのポジ・ネガ比、匿名掲示板の初動感情の分布、夜間の救急搬送件数。どれも、薄く、最低気温と寄り添っている。完璧に重なるわけではない。だが、グラフの端で、線と線が互いに影を作っているのが分かる。

「白ノ原は、昔から“無感情化”の噂が絶えない。悲しみや怒りが消えるのではなく、外に出ない。出ないかわりに、別の場所を通る。それが、風や霜の層を通して、街の温度を削っている可能性がある」

「科学の言葉で説明しきれない、と言いたいの?」

「まだ足りない、って意味だよ。計測が。言葉は、あとから付いてくる」

 アルヴィンの声は淡々としていた。淡々としているのに、背後の空気が薄く波打つ。彼は遠くからでも冷やせる。そういう人だ。自分の内側の熱を正確に折りたたんでしまえるから、外の冷たさに飲まれない。

 ミアは深呼吸して、作業台にノートと部品箱を広げた。昨夜までの試作基板は盗まれた。けれど回路図は頭にある。皮膚の微電位、脈波、呼吸。そこに、表情筋の微小運動と呼気の水蒸気パターンを足す。安堵や安心の波形は笑いよりも長い。長いものは、熱へ変換するときにどこかで余白が生まれる。その余白に、周囲の空気の微細流を噛ませる。熱は流体だ。流体には、遅延が似合う。

「名付けて、EmoHeat。笑ってなくても、人がふっと力を抜いた瞬間に反応するように」

 ミアは回路の要所に、小さな遅延素子を挟む。遅延は、誤魔化しではない。人と人の間の呼吸に合わせる工夫だ。すぐに温めると、奪ってしまう。少し遅れて届くと、分かち合える。タイムラグは、冷たさを割るナイフではなく、熱を渡す橋になる。

「君の遅延の感覚が好きだ」

 アルヴィンが白板にマーカーを走らせる。人の間合い=熱の間合い。単純な式が、妙に胸に残った。彼は器用に冷やす。だからこそ、誰かの遅延を必要とするのだろう。ミアはハンダごてを握り、銅線の光を見つめた。ごく微細な熱が、金属の表面で踊っている。踊る熱に、街の人々の安堵が乗る姿を想像した。指先の震えが治まる。

 部屋の隅のディスプレイが勝手に切り替わり、夜間の救急外来の混雑状況が表示された。待ち時間のカウントは氷の数字のように白い。アルヴィンが言う。

「現場で試そう。待っている人の熱がどこへ行くのか、確かめたい」

     ◇

 夜の救急外来は、昼より静かで、昼より騒がしかった。声のボリュームは小さいのに、言葉の端に擦れる音が付いて回る。待合室の椅子は、冬を知っている肌触りだ。冷たさが、座る人の体重に合わせて形を変え、戻らない。

 許可を得た一角に、ミアはEmoHeatのポータブル版を三台設置した。白い小箱に薄いフィン。出力は控えめ。誰かひとりの熱を吸わず、室内にある行き場のない熱を集めて緩く撹拌する。丸椅子に腰かけた父親の背中は固く、点滴を待つ老人の手は紙のように軽い。幼児の泣き声はすでに泣き終えていて、残響だけが空気に残る。

 スイッチを入れると、内蔵のインジケータが呼気の水蒸気に合わせて点滅した。モニターの端がさざ波のように揺れ、待合室の温度が、0.4℃だけ上がる。数字は嘘をつかない。看護師が暖房の設定を確かめに行き、首を傾げて戻ってくる。

「何か、やりました?」

「見えないくらい、少しだけ」

 アルヴィンは隣で、目に見えない冷却能を働かせる。窓際に溜まっていた冷たい熱だまりをそっと撫で、室内の上と下に流す。冷やすことは、奪うことではない。固まった流れをほどくことだ。ほどくたびに、天井の蛍光灯の光が柔らかくなる。光が柔らかくなると、椅子の軋みが小さくなる。

「冷やすのも、温めるのも、分け合うことだよ」

 横顔を見た。アルヴィンの頬は薄い。頬の薄い人は、感情が出すぎるとすぐ赤くなる。彼の頬は赤くならない。うまく折りたたんでいる。きっと、彼は自分を冷やすことで生き延びてきた。そう思うと、胸のどこかに小さな痛みが、氷砂糖みたいに沈んだ。

 待合室の外から、救急車のサイレンが近づいて、離れていく。距離感がうまく掴めない。音がまっすぐ来ず、斜めに滑っていく。EmoHeatのLEDが一瞬、規則を乱す。すぐに戻る。矯正するみたいに。戻ると同時に、窓ガラスに白い息が柔らかく描かれ、誰かが指で絵を描いたみたいな線が現れて、消えた。ミアの背中に氷が入る。アルヴィンも気づいたように、わずかに顎を上げる。

 その瞬間、待合室のテレビがノイズを吐いた。ほんの数秒。テロップの文字がわずかに崩れ、「安堵」を「氷渡」と誤変換した。誰も気に留めない。看護師は点滴の残量を数え、老人は腕の血管を見つめ、父親はスマホで仕事のメールを打つ。世界は続く。続くけれど、細い亀裂は確かに入る。

 テスト記録をまとめていると、ミアのスマホが震えた。神崎蓮からの通知。件名はなく、本文は丁寧すぎる口調で短い。

 データの原本の提出を求めます。君の将来のためだ。

 脅し。冷たい文体の中に、祈りの形に似た一文字も混じらない。続けざまに、匿名の掲示板で“ミアの装置は疑似科学”というスレッドが立つ。最初の書き込みは粘土のように柔らかいのに、十件目から急に形が固まる。単語が揃い、文末が統一され、同じ温度の言葉が複数の手から投げられる。投げられた言葉は床に落ちる前に冷え、拾った人の指を凍らせる。

 風が急に冷たくなった。自動ドアの隙間から、誰も入ってこないのに薄い風が撫でる。EmoHeatのセンサーが、その風を感情の変化ではなく、空隙の移動として拾った。空隙は、部屋の角に寄り、吐き気のように消える。ミアの胸に、慎重な怒りが灯る。怒りは熱だ。だから扱いが難しい。アルヴィンはミアの視線に気づくと、首を横に振った。

「見ろ、じゃなくて、読め」

 彼は目でなく、耳で温度を読む。耳で温度を読む人は、声に敏感だ。声は、熱の形だ。ミアは頷いて、耳を澄ませた。点滴の滴る音。紙コップの擦れる音。看護師の靴音。それらに混じって、ときどき、笑い声のふりをした音が通り過ぎる。誰も笑っていないのに、笑いの殻だけが空気にぶつかる。殻は軽い。軽さの代わりに、鋭さを持つ。殻が触れた空間は、瞬間だけ冷えて、すぐ戻る。戻るたび、誰かの肩の線がほんの少し下がる。

 ミアのポケットに、別の通知が来た。サラだ。

 ね、やめる? あんたが傷つくの、見たくない。

 指が止まりそうになる。止まりかけた指を、ミアは自分で支えた。返事は短くする。

 大丈夫。私、いま誰かの役に立ててる。

 送信した瞬間、天井の隅の薄い雲がほどけた。雲の切れ間を、冬の星が一本だけ通り過ぎる。窓ガラスには映らない星だ。ガラスは室内の熱を写し、外の光は、角度が合わないと弾く。角度が合ったのだ。偶然に見えるが、偶然だけではない。EmoHeatの遅延が室内の流れをずらし、星の光を一本通した。通った光は、誰のものでもない。

「明日、屋台通りで公開テストをしよう」

 アルヴィンが言う。唐突に聞こえるのに、彼はずっとその提案を温めていた気がした。提案は熱だ。冷たい場所に置くと、すぐ曇る。

「屋台通り?」

「組合の連絡があった。暖房費のことで揉めてる。人が集まる場所で、路上で、暖かさを証明したい」

「無謀だよ」

「無謀は、逃げる言い訳にもなる。けど、やる理由にもなる」

 彼は笑わない。笑わないのに、言葉が柔らかい。柔らかい言葉は、硬い場所を壊さない。回り道を覚えている。

 帰り支度をしていると、廊下の奥で救急用担架の車輪が鳴った。金属が冷えて、鳴き声が高い。担架の上の毛布の端がめくれ、白い指が少し見えた。指は動かない。動かない指の周りに、薄い霜の花が咲いては、すぐ消えた。霜の花は静かだ。静かすぎる。アルヴィンが一歩踏み出し、すぐに足を止めた。止め方が正確だ。止められる人は、前にも踏み出せる。

 病院を出ると、外気はさらに冷たくなっていた。地面の上を、透明な膜がゆっくり動いている。膜は目に見えない。見えないけれど、足の裏にぴたりと吸いつく。踏み出すたびに、膜が遅れてついてくる。ついてくる膜は、心の重さに敏感だ。重い心には密着し、軽い心には少し遅れる。

 ミアのスマホが、ふたたび震えた。今度は知らない番号。開くべきではないと知りながら、親指が勝手にスライドする。音声通話。スピーカから出た声は、神崎の声に似ていて、似ていなかった。穏やかな教師の声色で、文字列のように滑らかに、音だけが口の形を追い越す。

「君の装置は危険だ。熱は保存される。誰かを温めれば、誰かが凍る。君はどちらの味方だ」

 通話はそこで切れた。切れた瞬間、街灯がひとつ、遅れて点滅する。アルヴィンは空を見上げ、ミアの顔を見て、何も言わなかった。言わないことが、言うことより多くを伝えるときがある。風が少しだけ止まった。止まった風は、耳の後ろを撫で、背中に沿って落ちる。ぞくりと、寒気が背骨を上る。怖い。怖いのに、足は前に出る。前に出た足の下で、膜が音を立てて破れ、すぐ新しい膜が張る。

「しばらく、誰かに“笑わせられない”ように気をつけて」

 アルヴィンが言った。言葉は冗談に聞こえない。笑いは熱を動かす。動かされた熱は、時々、軌道を外れる。外れた先に、灰色の斑点ができる。

「笑うの、やめた方がいい?」

「やめないほうがいい。やめた笑いは、殻になる。殻は冷たい。君がやめると、ここに殻が増える」

 ミアは息をひとつ吐いた。白い息は短い。短いのに、重い。重い息は、地面に触れる前に消える。消える息は、どこへ行くのだろう。行き先を作るのが、自分の仕事だ。そう思うと、胸の底の小さな痛みが、ゆっくり溶けた。

     ◇

 ラボに戻ってから、ミアはEmoHeatの遅延パラメータを微調整した。人が深く息を吐く時間、肩の力が抜ける時間、耳の後ろを撫でた風が消えるまでの時間。遅延は、数字ではなく、間取りに近い。間取りの悪い家は、熱が逃げる。間取りの良い家は、熱が留まる。装置は家ではないが、人が寄るところに、家の機嫌は持ち込まれる。

 調整中、壁の感応場マップで灰斑が増えた。速度は遅い。だが、確実だ。ひとつ増えると、その隣に薄い影が生まれる。影は、すぐには斑点にならない。なれない影が、電線の上や、横断歩道の白線の隙間に溜まる。溜まった影が、歩く人の靴底に薄く貼りつく。貼りついた影は、室内に持ち込まれ、暖房の吹き出し口の横で、乾いた葉のようにカサカサ鳴る。鳴る音は、笑いの殻の音に似ている。

 アルヴィンが別室で機材をあたっているあいだ、ミアのスマホにまた通知が落ちた。匿名掲示板のスレッドは「疑似科学」から「詐欺」にタイトルが変わり、通報を煽る文がテンプレのように貼られる。テンプレには、熱の単位の書き間違いがあった。ジュールをワットと混同している。誰かのテンプレが、そのまま別の誰かへ移り、間違いごと増えていく。増える間違いは、熱の逃げ水に似ている。追いかけるほど、遠ざかる。

 ミアは通知をオフにした。音は消えるのに、冷たさは残る。残る冷たさの輪郭に、ゆっくり墨を流すように意識を乗せ、遅延パラメータの調整に戻る。数字の前で、呼吸を一定に保つ。呼吸の一定は、恐怖と近い。恐怖を均すと、数字が見える。

「ひとつ、教える」

 背後でアルヴィンの声がした。彼は透明なケースに入った氷片を持っている。氷片の中に、金属の粉が静かに沈んでいた。粉は沈むのに、形を保つ。沈む形は、曲線だ。ミアの研究ノートの微笑曲線に、よく似ている。

「今日、救急外来の空気の層から採取した。氷はすぐ溶けたが、内部の粉は、君の識別の系列を示している。盗まれた基板の一部が、空気を通って、ここへ来た」

「回路が、空気を旅する?」

「旅の仕方を誰かが知っている。今日までは、たぶん、ひとりだった。明日からは、ふたりになる」

 ふたりは、明日、路上で暖かさを証明しようとしている。証明は、争いを呼ぶ。争いは、熱を生む。熱は分けられる。分けるには、間合いが要る。間合いを合わせるには、人がいる。ミアはアルヴィンの顔を見た。彼は冷やす。自分は、遅らせる。遅らせた熱を、彼が均す。その先に、誰かが笑う。笑わせるのではなく、笑う。笑いは、薄い霜の上に橋をかける。

「帰り道、遠回りしていこう。屋台通りを歩いて、風の流れを読んでおきたい」

 ラボを出ると、街の音がいつもより低いキーで鳴っていた。換気扇の唸り、信号の電子音、自販機の冷蔵ユニットの唸り。すべてが半音分、沈んでいる。半音沈んだ音の上に、人の声が乗ると、声は細くなる。細くなった声は、割れやすい。割れた声の破片は、灰斑の縁に貼りつく。

 屋台通りは、冬でも明かりが強い。鍋の湯気、鉄板の煙、焼き鳥の匂い。匂いは熱に乗る。熱に乗る匂いは、風の裏に回り込んで、通りの突き当たりまで届く。届いた匂いは、そこにいない人の記憶を呼ぶ。記憶は、ときどき、体温よりも温かい。

 組合の掲示板には、手書きの字で「暖房費折半の件」とあり、赤ペンで何本も線が引かれている。揉めた線は、熱を持つ。字の集まりの上に、薄い白が降りて、すぐ溶ける。アルヴィンは通りの中央に立ち、風の道を目で読む。風は三本ある。ビルの隙間から吹く細い道、駅の方から押す緩い道、屋台の熱が作る逆流の短い道。三本の道が、通りの中央で絡み、ほどけずに、灰色のうずを作る。

「ここは、取り合いになる」

「熱の取り合い?」

「居場所の取り合い。居場所には熱が要る。熱が足りないと、争いはすぐ怒りの形になる。怒りの形は、風に強い」

 ミアはEmoHeatのポケット版のカバーを撫でた。装置の内部で小さな遅延が静かに並び、重なっている。重なった遅延は、合唱みたいに呼吸を揃える。揃った呼吸は、少しだけ熱を増やす。増えた熱は、争いを遅らせる。遅れは勝利ではないが、敗北でもない。遅らせた間に、誰かの言葉が間に合う。

 通りのはしに、人だかりができていた。若い男が、スマホで自分を撮りながら喋っている。配信の画面は、いいねの花で埋まる。花は色とりどりで、匂いはない。男が笑うと、笑いの殻が空に浮かぶ。殻は軽く、街灯の光を受けて淡く輝く。殻が通りの風に剥がれて飛び、灰斑の縁に貼りつく。貼りついた殻は、通りすがりの子どもの頬に触れ、子どもは肩をすくめる。寒い、と誰かが言う。言葉はすぐ消える。

 ミアは、明日の準備のための買い出しリストをメモに書いた。予備の電源、延長ケーブル、簡易の風よけ。風よけは、透明でない方がいい。透明な壁は、見えない手が触りやすい。見える壁は、手を迷わせる。迷った手は、殻を落とす。

 帰路、アルヴィンはほとんど口をきかなかった。黙っているのに、彼の周囲の温度は一定に保たれた。一定は、安心の形だ。安心があると、怖さは色を変える。色を変えた怖さは、目印になる。目印があれば、夜でも歩ける。

 ラボの前で立ち止まると、ビルの上の看板が一瞬だけ強く光った。白い光の中に、薄灰色の文字が浮かぶ。誰かが書いたわけではない。光の粒子が偶然に並んだだけだ。そう思いたい。そこには、短い文があった。

 笑ってなくても、奪える。

 ミアは背筋に氷を差し込まれた気がした。氷はすぐに溶けない。溶けない氷は、骨に沿って張り付く。アルヴィンは看板から目を離し、ミアの顔を見た。彼女が笑わないのを確かめ、頷いた。頷きは、誓いに似ている。

「明日、やろう」

「うん。路上で、暖かさを証明する」

 無謀。でも、逃げないことが熱を生むなら。逃げずに立っているだけで生まれる熱が、世界にはある。その熱は小さい。小さいけれど、灰色の斑点の縁を一ミリ削る。削れた縁が、風に崩れる。崩れた灰は、溶けやすい。溶けた先に、誰かの居場所が少しだけ広がる。

 ラボのドアを閉める直前、遠くで救急車のサイレンがまた鳴った。今度は、音がまっすぐ来る。来る音は、怖さを連れてこない。音の後ろに、誰かの息がのっている。息は、熱の形だ。ミアはその音を背に、装置の電源を落とした。暗闇は冷たいが、真っ黒ではない。闇の中にも、紙の白のような明るさが混ざる場所がある。

 眠りは浅かった。浅い眠りの底で、誰かが囁く。夢の中の囁きは、現実より冷たい。冷たい囁きは、言葉を凍らせる。

 お前が笑うと、誰かが凍る。

 朝、目が覚めたとき、その文の形だけが、枕の冷たさとして残っていた。ミアは起き上がり、手首の脈に触れた。脈は、昨夜よりゆっくりで、強い。ぞくりとした怖さが、骨の芯で温度を持ち始める。恐怖に体温が寄る。寄った体温は、武器ではない。灯りだ。灯りは、誰かの目を傷つけず、道を示す。

 窓の外、白ノ原の空は、今日も薄い。薄い空の下で、屋台通りは煙を上げ始めている。煙の向こうに、アルヴィンの白いコートが見えた。冷たい青年の周りだけ、雪が水になって、路面を濡らす。濡れた路面に、空の光が映る。映った光は、灰色の斑点を嫌う。嫌う光は、消えにくい。

 ミアはコートのボタンを留め、装置のケースを肩にかけた。心のどこかで、まだ昨日の囁きが鳴っている。鳴っているのに、歩ける。歩けるのは、怖さが終わっていないからだ。終わっていない怖さは、背中を押す。押された背中に、薄い熱が灯る。薄い熱は、街の温度計の針を、ほんの少し、右に触れさせる。今日もきっと、そのくらいの変化から始まる。いい。最初は、そのくらいでいい。

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