婚約破棄された翌日、氷の王子が弟子にしてくださいと言ってきた
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 氷の王子が現れた朝
白ノ原市は、夜の底に置き忘れられたみたいに冷たかった。大学前の坂は粉雪で軋み、踏みしめる音にすら薄い金属の響きが混じる。息は白く、吐くたび形を持って離れていき、電灯の光にほどけた。
水無瀬ミアは、手袋の中でスマホを開いたまま立ち尽くす。そこに固定された二行の文字は、思考より先に体温を奪う。
婚約は取り下げる。
研究発表の共同名義も撤回する。
神崎蓮のアイコンの横で、送信時間だけが今朝の時刻を示していた。昨夜、研究室の作業台に置いた試作基板──感温式の小さな板。情動の微細な変化を拾い、熱へと再配分する回路の心臓部。それが今朝、影も形もなく消え、掲示棟の壁に貼り出されたのは、神崎の単独成果としての曲線図。見覚えのある滑らかな立ち上がり、微笑曲線と呼んでいたシグナルの縁が、他人の名前の下にぶら下がっている。
教授室で言われたのは、ただ一言だった。「揉め事は外に出すな」
それは助言ではなく、冷凍庫の扉の閉まる音に近かった。ミアの言葉は霜に閉ざされ、口の中でカチリと固まった。うつむけば涙が凍る気がして、彼女は首を上げる。空の白は、薄くひび割れている。指先のどこかに、まだ微かな熱が残っていた。取り落とすな、と誰かが囁く。自分の声だと気づくまでに半呼吸かかった。
「あなたが水無瀬ミアさんですね?」
背後で空気が揺れて、雪が少しだけ軌道を変えた。振り返ると、白いコートの青年が立っている。髪は薄氷みたいに淡く、瞳は浅い青。彼の周りだけ、雪が触れる前に水に変わって、路面を濡らしていた。光がそこだけ柔らかい。
「朝霧アルヴィン。白ノ原都市気候研究所、感応場気象部門。あなたの論文を読みました」
「論文?」
「盗まれた方を、ですけど」
心臓が跳ねた。彼はまっすぐで、目の奥に必要最小限の疲れを飼っている。プロフェッショナルの顔だ。見慣れているのに、初めて見る種類の。
「どうして、それを」
「街じゅうが冷え過ぎている。物理だけでは説明できない“情動の凍結”が広がっている。誰かの怒りや絶望が、路面にまで出ている。あなたの発想は、たぶん、それを溶かす鍵になります」
彼は、淡々とした声で、雪片の流れとSNSのトーンの偏りが日単位で重なること、夜間にだけ現れる熱の空洞が広がっていること、感応場と呼ばれる層が、通常の気圧や風だけでは説明できない波形で振れていることを話した。簡潔で、余白を残す話し方だった。
「僕は冷やすことができる。でも温める術は知らない。弟子にしてください」
突拍子もない申し出に、笑う場所を探しているうちに、胸のどこかがほどけた。言葉は氷じゃない。温度がある。ミアはそれを確かめるように言う。
「弟子じゃなくて共同研究者。盗られたものは作り直す」
アルヴィンの口元が、わずかに陽の方へ動く。空の粒子が一瞬だけ緩み、坂上の信号が僅かに明るく見えたのは、気のせいだろうか。冷たさの形が変わる。同じ寒さでも、なぞれる線になっていく。
二人で駅前のカフェへ入る。ドアベルは、金属が擦れる音で鳴る。店内の空気は温かいが、人の声の端々が凍っている。咳の音、手袋を外す気配、熱いマグカップに触れた指の抜ける音。テレビは「白ノ原寒波特集」を繰り返し、テロップの青は市境の地図上で濃くなるばかりだ。
窓際の席で、ミアはノートを広げた。丸めた肩が、紙の白にほどける。ペン先は迷わず骨格を描く。温度センサー。皮膚電位。心拍。呼吸。同期の方法。感情のエッジで生じる微細な熱の揺らぎを拾い、逃げる場所を設ける。笑った瞬間、ほんの少しだけ周囲を温かくする──冗談で付けた「微笑回路」の名前に、今は切実さが貼り付いている。
紙を埋める図を指でなぞっていると、ドアの鈴が乱暴に鳴った。屋台の常連のサラが、厚手の毛糸帽の下で必死の顔をして入ってくる。胸に抱く赤子の手足は、白紙みたいに色がない。
「ミアちゃん、お願い。夜通し咳が止まらないの。この子、手足が氷みたいで」
椅子が音を立てる前に、体が動いていた。バッグから小さなパッチと電極テープ、予備の薄い電池。アルヴィンは迷いなくコートを脱ぎ、赤子を包む。その動作は、刃物のように正確で柔らかい。ミアは赤子の胸部にパッチを貼り、微小な電流を走らせる。皮膚電位の山は浅く、微笑回路はまだ仮組みだ。それでも、赤子の落ち着きに合わせて、弱い熱はじんわりと出る。
「ちょっと、あったかい……」
サラの声が震え、目の縁に熱が戻る。赤子の呼吸は徐々に深く、長く。唇に、少しだけ色が刺す。ミアは自分の手の温度を忘れないように、赤子の指を包んだ。今日の涙は、凍らない。
そのとき、テレビの音量が勝手に上がった。店内の全員が顔を上げる。サブリミナルのように短い、氷の擦れる音。画面の右下にノイズが走り、テロップの白字が一瞬、文字化けした。「冷笑」。すぐに元の「冷傷注意」に戻る。誰も、そこに引っかからないふりをした。ミアの背中だけが固まる。アルヴィンの視線が、音の出どころではなく、窓ガラスの外へ滑る。見えない手が、窓の外からガラスをなぞった気がした。曇りに、人差し指で書いたような曲線が滲む。見覚えのある立ち上がり。微笑曲線。ひらがなは書けない子どもの描線のようで、しかし再現率が高すぎた。
「偶然?」
「偶然で済む距離じゃない」
アルヴィンは静かに答え、コートを赤子にかけ直す。彼の手が空気を撫でると、湯気が一瞬止まって、すぐまた動き始めた。温度の層が、薄く剥がれて戻る。
外を、神崎が通り過ぎる。研究室の後輩と並び、マフラーの端を握ったまま、声だけが透明に店内へ滑り込む。
「発表は俺の名前で通す。彼女は感情論に逃げたんだ」
窓の外の雪が、一段と細かくなった気がした。粉が音を持ち始め、耳の奥で遠い砂のように鳴る。アルヴィンはコーヒーに口をつけず、視線だけで神崎を追った。
「反撃は公式に。盗用の証拠は集めます。けど、まずは街を温めたい。あなたが作るものは、人に触れる」
「うつむかない。決めたから」
それは、心に貼るホッカイロのような言葉だった。熱は小さいが、確かな位置を教える。二人の初めての共同作業は、赤子の体温をひとつ上げること。記録用紙はない。表彰もされない。けれど、壁の温度計の針が、ほんの少し右へ触れた気がした。
ミアが赤子の頬に指先を当てていると、誰かが笑った。店の奥のテーブル、若いカップル。笑うというより、笑うふり。口角だけ動かし、目が動かない。ふたりの周囲だけ、空気が薄くなる。氷の呼気がテーブルクロスの端を引き攣らせ、花瓶の水面がきゅっと硬くなる。カップルの女の子が言う。
「ねえ、今、あったかいね」
その声の真上、天井の換気口から、白い蜘蛛の巣みたいな霜が伸びた。
ミアは立ち上がり、カウンターに駆け寄る。店主の恰幅のいい男性が、腕をこすって笑う。
「暖房、全開なんだけどなあ。外で誰かドア開けっぱにでも──」
言いかけて、目が止まる。ドアは閉まっている。隙間風の気配はない。音だけが、隙間のある部屋のものになっている。アルヴィンはテーブル間の通路をゆっくり進み、笑っているふたりのテーブルに近づいた。彼が近づくほど、ふたりの笑顔は紙細工の面のように薄くなる。唇の端の陰が、貼り付けた影になって、めくれそうに見える。
「すみません。おふたり、さっきから寒くないですか」
女の子がおどけて肩をすくめると、アルヴィンのコートの裾が微かに音を立てて凍り、すぐに解けた。男の子が笑う。笑い声の最後の母音だけが低く、遠くで金属を擦る音に似ている。アルヴィンは、彼らの笑みと笑い声の波形を頭の中で重ねているようだった。
「笑うと温まる。けど、どこから取るかを、決めてない」
彼の言葉が、ミアの背骨を真っ直ぐにする。微笑回路。名付けたときは冗談だった。笑いによって、ごく小さな熱が生まれる──そう設計した。けれど、熱は保存される。ゼロから一を作るわけではない。どこかから、持ってくる。もしそれが、見えないところから人の熱を引き剥がしているのだとしたら。
ミアは、赤子が落ち着いたのを確かめ、サラに新しいブランケットを手渡した。サラは何度も頭を下げ、「助かった、助かった」と言いながら、赤子の指を一つずつさすった。その指が彼女の掌の中で温まる一方、窓の外の街灯にとまっていた黒い鳥が、羽をふるわせた。ふるわせたまま、止まる。雪が鳥の背を覆い、輪郭だけがゆっくり雪像になる。
店主が混ぜるスープの鍋が、急に沸騰音をやめた。鍋肌に貼り付く微細な泡が、ぱっと消える。熱が奪われたのではない。温度の行き先が一瞬、迷子になった。テレビに「感応場の注意」という帯が出る。そんな注意は見たことがない。帯の下、テロップがわずかに震え、「笑う門に寒来る」に見えたのはほんの一瞬。目の錯覚。そう言い聞かせながら、ミアは気づいている。街の彼方で、同じノイズが広がっているのを。
アルヴィンがポケットから、薄い銀色の板を取り出した。名刺大の金属片。表面に微細な刻み。彼が息を吹きかけると、刻みの間に白い霜の線が走る。図形が浮かび上がる。ミアの研究ノートに描かれているのと同じ、微笑曲線。だがその曲線の端に、小さく数字が刻まれている。基板識別の乱数。昨夜、ミアが自分の基板に、遊び半分で埋め込んだ、誰にも分からない印だった。
「どうして、それを」
「研究所の冷凍アーカイブに、これと同じ刻みの氷片があった。氷の中に、熱の跡が残る。盗んだ人間が、寒波の流れに回路を投げたんだ」
「そんな……」
「氷は、誰かの感情を運ぶ便利な箱だ。滑りが良すぎる」
アルヴィンの声には怒りがなかった。ただ、観測者の冷静さがある。怒りは、熱を雑に散らす。彼はそれを避けている。ミアの胸に、別の熱が広がる。悔しさは消えない。けれど、向かう先ができた。
「証拠は、凍っている。なら、溶かせば、出てくる」
「うん。盗用の証拠だけじゃない。街の凍り方にも、きっと書き込みがある」
サラの赤子が小さく笑った。眠りにつく前の、口角の柔らかい曲線。室内の温度がわずかに上がる。その瞬間、外の街灯の鳥の背から、雪がぱらりと落ちた。解けたわけではない。角度が変わった。バランスが、ちょっとだけ戻った。
店を出て、二人は歩く。通りの空気は、温度の層が見えるくらいの鋭さを持っている。人の群れの上に、薄いガラスの板が幾層にも重なり、歩くたびに微かな音で鳴る。アルヴィンの歩幅に合わせて、ガラスの音が調律される。ミアは自分のステップで、一枚一枚、音を変えられることを確かめる。恐れは消えない。けれど、恐れの形が変わる。輪郭が取れる恐怖は、戦える。
「研究所へ?」
「その前に」
アルヴィンは、ビルとビルの狭い隙間へと視線を向けた。そこだけ風が逆流している。温度の階段を、目に見えない何かが降りてくる。階段の段差ごとに、昔誰かが残した笑い声の残響が貼り付いている。明るい笑い、乾いた笑い、形だけの笑い。冬の間に街が溜め込んだ笑みが、層になって動かない。
「溜まってる。笑いの殻だ」
「殻?」
「中身がない。形だけの笑いは、熱だけ抜ける。殻は冷たい殻になって、街路の隅に積もる」
ミアは、右手をコートのポケットに入れた。残っているもう一枚のパッチと、予備の電池。赤子を温めたときに使ったのと同じ組み合わせを、今度は自分の手首に貼る。微細な電流が、皮膚電位の端を撫でる。自分を実験台にするのは、恐ろしくない。恐ろしいのは、知らないまま触ることだ。
「わたしが笑ったら、ここは溶けるかな」
「やってみる?」
ミアは頷き、軽く息を吸い、吐く。笑う準備をするという奇妙な儀式。口角がわずかに上がる。目の筋肉を柔らかくする。思い出を一つ取り出す。小学生のとき、初めて作った氷菓子の味。夏の匂い。あのときの笑いは、形じゃなかった。
口角が上がり切る前、隙間の空気が一段下がった。見えない何かが、先に笑ったのだと直感する。形だけの笑い声が、耳の後ろで氷る。ミアの頬の筋肉に、針のような静電気。パッチが熱を出す前に、ひとつ冷たさが潜り込む。アルヴィンが一歩踏み出し、空間の前に立つ。彼の周囲の空気が、音程を変える。割れ目の前に、透明な壁ができたみたいだった。壁には、白い指先で書いたような曲線。微笑曲線が、もう一度、浮かんでは消えた。
「触るな」
アルヴィンの声は低く、微細な霜を砕く音に似ていた。彼の掌が空気を押す。空気は押され、戻る。そのたびに、階段の段差に貼り付いた笑いが、音を変えた。からから。きしり。びり。最後に残ったのは、笑いではなかった。誰かの、短く詰まった息。泣く前と笑う前の、同じ形の吸気。ミアは自分の喉の奥が熱くなるのを感じる。それは恐怖の形に近いのに、うっすらと、慰めだった。
「今の、何?」
「笑いの殻の下に、声があった。奪われた熱の跡は、声の形で残る。たぶん、この冬にたくさんの人からこすり取られた声だ」
「誰が」
「それを探すのが、僕らの仕事だよ」
アルヴィンが目を細める。その目に、氷の青ではない色がわずかに混じる。人間の体温の色。ミアは頷き、隙間から視線を外す。寒さは、まだ止む気配を見せない。けれど、歩く方向は見えた。
角を曲がった先、掲示棟までの短い直線。昼の光は薄く、影は濃い。遠くで救急車のサイレンが鳴り、音は冷たい空気に引き伸ばされて、長くなる。掲示板の前は人だかりだ。誰も声を上げない。「発表は俺の名前で通す」という神崎の言葉だけが、透明に響いている気がする。それは彼の口から漏れたものではなく、掲示に貼られたインクから発された音だ。紙から音が出る、と笑って済ませるには、空気が尖りすぎていた。
人の肩越しに、ミアは自分の曲線に似たグラフを見つける。名前は神崎蓮。ミアの名前はない。グラフの端に、薄い亀裂が走っていた。氷が割れるときのように、静かに広がる。インクの乾いた面に、見えない針で引いた線がある。アルヴィンが耳元で囁く。
「見える?」
「見える。これは……」
「熱の回収記録。君の基板の埋め込み識別と同じ系列の乱数が、インクに混ぜられている。混ぜたのは、インクではない。冷気だ。冷たい指が紙をなぞったときに、微細な霜に刻まれた跡が、乾いたとき薄い線になって残った」
ミアは喉の奥で笑った。笑いは、瞬間的に熱を作る。微笑回路の設計図が、頭の中で音を立てて更新される。熱を生む。けれど、どこからか取ってくる。その回収の軌跡が、街の至るところに薄く刻まれている──紙に、窓に、コートの裾に。ならば、読める。辿れる。
ミアは掲示に近づき、指の腹でごく薄い線をなぞった。冷たさは、針ではない。文字に近い。線の方向が示すのは、掲示棟裏のサービス通路。暗く、狭い。冬の光が届かない場所。
「行こう」
アルヴィンは頷き、二人は人垣を抜ける。サービス通路は、空気の音が別の季節だ。湿気がある。けれど、冷たい。壁に貼られた注意書きの一部が、霜で盛り上がっている。「関係者以外立入禁止」の「禁」の部分だけが厚く白い。その白の縁に、微笑曲線が小さく繰り返されている。誰かがここで笑った。形だけの笑い。殻になった笑い。殻が熱を取り、ここに捨てられた。
通路の奥へ進むと、鍵のかかった鉄扉がある。アルヴィンは鍵穴を覗き込む代わりに、扉の表面に掌を当てる。掌の下で、鉄は短く鳴き、霜の粒子が音に合わせて震える。彼の手の周囲だけ、湿度が調整される。扉の内側から、ひとつ微かな笑い声がした。笑いではない。笑いのふり。唇の形だけ。音は、アルヴインの掌の下で割れ、散った。ミアの脳裏に、赤子の浅い呼吸と、店の天井の霜と、掲示の薄い亀裂が一列に並ぶ。
カチャ、と音がした。鍵が内側から、指で触れられたように、ひとりでに動いた。扉は少しだけ開き、冷たい空気が、夜の匂いを連れて顔を出した。アルヴィンがミアを見る。
「ここから先は、戻れなくなるかもしれない」
「もう戻らないって、さっき決めた」
ミアは笑い、笑いの熱が頬から耳へ伝わるのを感じる。扉の隙間の暗がりに、何かがいる。姿はない。あるのは温度差だ。極薄の冷気の層が、一枚だけ余計にある。そこに、細い指で描いた曲線が浮かんでは消える。微笑曲線。けれど、今度の曲線の端は、怒りの形に鋭く尖っていた。
そのとき、ポケットのスマホが震えた。画面には、ミアのアカウントではない送信者名。神崎蓮。件名はない。本文は一行だけ。
お前が笑うと、誰かが凍る。
息が止まる。アルヴィンが、ミアの手首のパッチを見て、ミアの目を見る。パッチは微かに温かい。けれど、指先は冷えた。恐怖は、正確な形を持つ瞬間に、鋭利な美しさを持つ。
「決めよう、ミア。君の笑いの行き先を」
「私の笑いは、奪わない。渡す方に改造する」
言葉に熱が宿る。扉の向こうの冷気が、わずかにたじろいだ気がした。ミアは、指先で扉の縁を押す。金属は冷たいが、痛みはない。痛みの代わりに、怖さが踊る。ぞくりと、背骨を上へ走って頭の内側に指をかける。そこに、光が割り込む。薄い冬の光。どんな力も、光の速度では来ない。
扉を押し開け、二人は暗がりに入った。背後で外の音が遠くなる。雪の音、サイレンの音、誰かの笑いの殻が擦れる音。すべてが薄い氷の下に沈んでいく。足元の床は霜を踏むたび短く鳴り、天井から落ちる雫が着地の前に固まり、床で砕ける。通路の突き当たりに、もう一枚の扉。そこには、彫りものがあった。誰の名前でもない、無数の曲線。笑いの形。泣き声の形。怒りの形。すべてが重なって、街の冬を一枚の板に移したみたいに。
ミアは、右手の指で一番古そうな線をなぞる。線は、温かい。氷の中の温かさ。とてもゆっくりの、時間の熱。彼女は気づく。この扉は、誰かが自分の熱を貼り付けて作ったものだと。奪うためではなく、渡すために。けれど、今はその上に、奪う仕組みが縫い付けられている。糸は見えない。糸は寒波の中に紛れている。ほどくには、熱がいる。優しい熱と、鋭い熱。
アルヴィンが言う。
「ここに、基板が埋められているかもしれない。氷の層に。君の識別の続きが読める」
「読もう。溶かしながら」
ミアは微笑回路の回路図を頭の中で再配置し、笑いの熱を、一人ではなく周囲に等分に回す方法を計算する。完璧ではない。完璧にしようとすると、遅れる。遅れれば、誰かが凍える。今は、正確さよりも、傷を広げないことが先だ。
外で風が鳴る。風の音が、人の声に似る。助けて、という声ではない。助ける、と言い切る練習をしている声だ。ミアは扉の中央に掌を当てる。冷たさが骨に響き、恐怖が肌に立つ。ぞくりとする。けれど、そのぞくりは、逃げろではなく、進めの合図に聞こえた。
扉が、静かに動いた。暗闇の奥から、薄い白が流れ出す。氷ではない。息だ。誰かの、長い息。凍らされ、閉じ込められて、なお消えなかった呼気の層。それが、二人の足元に触れて、熱の行き先を問いかける。
アルヴィンが言う。「ようこそ、感応場の底へ」
ミアは頷いた。「うつむかない。ここで、決める」
怖さは、まだ終わらない。むしろ、ここから始まる。背中に乗る寒気は、逃げるべき狼ではなく、狩りを学ぶ教師みたいに、足音を合わせてくる。その足音が教えるのは、こうだ。笑いを武器にするな。笑いを地図にしろ。地図は持つ者を遠くへ連れていくし、誰かの体温に重ねて道を示す。
白ノ原の冬は、まだ長い。けれど、世界の温度は、変えられる設計図を持った。二人の手の中に。掌の熱で、紙の上で、そして、扉の向こう側で。
そのとき、掲示棟の方角で、人々のざわめきが一段高くなる音がした。風に乗って届く断片。「氷の王子」という言葉が混じる。誰かが、そう呼んだのだろう。白いコートの青年は眉をひそめ、ミアを見る。ミアは笑わず、目だけで頷いた。呼び名はいつも遅れてついてくる。今はただ、先に行けばいい。熱の行き先を、奪うのではなく、渡す方へ。
冷たい空気の底で、ミアはもう一度だけ、手首のパッチを確かめた。微細な熱が、脈のタイミングで灯る。彼女はそっと、笑いのふりをやめた。笑うときは、ほんとうに笑う。その決心が、薄い氷を内側から割る音を、たしかに生んだ。
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