ななしと魔女は記憶喪失

ひつまぶし

プロローグ

1、1万年愛していたかった

「僕はいつまでも待てるよ。」


そんな優しい声が、男の頭の奥でこだまする。

柔らかくて、どこか切ない声。懐かしいようで、しかし誰のものなのか思い出せない。


「……だから、絶対……」


声がだんだんと弱くなっていく。

すん、と鼻をすする音が混じる。

泣いているのだろう。

男はその気配をどうすることもできず、ただ沈黙の中で聞いていた。


その後、ひとつ息を吸う音がした。

気持ちを立て直すような、強い呼吸。


「約束だよ!」


泣きながらも、精一杯の力を振り絞った声。

その言葉が、胸の奥で何度も反響する。


「……イリム。」



男は、聞き覚えのない言葉を口にした。


重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。

開けた瞬間、光がないことに気づく。

目の前は、灰色の石。

右を見ても、左を見ても、上も下も、同じように冷たい壁。


鉄の匂いがした。

次に自分の腕が吊られていることを理解した。

手首には分厚い鎖が絡みつき、天井からぶら下がっている。

動こうとすれば、肩の筋が悲鳴を上げ、

少しでも力を抜けば、鎖が軋む音が耳の奥を刺した。


どれほどこの姿勢のまま放置されていたのか、見当もつかない。

感覚が戻るたび、腕の奥に焼けるような痛みが走る。

それでも、思考は止まらなかった。


-ここは、どこだ?

-なぜ、俺は?


考えようとするたび、頭の中で何かがざらつく。

まるで記憶そのものが砂になって崩れ落ちていくようだった。


上の方から、コツ……コツ……と音が響いた。

規則正しい靴音。

暗闇の奥を凝らすと、遠くに階段のような影が見えた。

どうやら地下室のようだ。


息を整える。

冷たい空気が肺を刺す。


「……俺、捕まってるのか?」


声に出すと、余計に現実味を帯びた。

けれど、疑問はそれだけでは終わらない。


もっと根本的な違和感

胸の奥で、ずっとざわついていた問いがある。


「……俺、誰だ?」


口にした瞬間、世界が一瞬静まった気がした。

何も、思い出せない。

名前も、過去も、顔も。

自分がどんな人間だったのかさえ、まるで霧の向こうに置き去りにされたようだった。


けれど、一つだけ

ひとつだけ、脳の奥に焼きついた言葉があった。


イリム。


その単語が、人の名なのか、場所の名なのか。   

それとも祈りの言葉なのか。

分からない。

ただ、胸の奥が警鐘のように鳴っている。


-忘れるな。

-イリムを、思い出せ。


鼓動が、やけにうるさい。


「……とりあえず、どうしようか」


思わず口に出してみる。

声にしてみないと、自分がまだ存在していると信じられなかった。


イリム。

それが鍵だと分かっていても、いまはどうにもできない。

何より、このままでは腕が先に壊れる。


「……よし、試してみるか」


大きく息を吸う。

喉が裂けそうなくらい叫んだ。


「誰か!! 助けてくれ!!!」


声が石の壁に跳ね返り、幾重にも反響する。

それは、まるで他人の叫びのように、何度も何度も返ってきた。


誰も答えない。

ただ、鎖の軋む音だけが、暗闇にこだました。


上の部屋が静まり返った。


その後

バタバタッ! と慌ただしい足音が鳴り響いた。

まるで何かを探して右往左往しているような、軽い靴の音。

それが少しずつ遠ざかっていき、やがて完全に消える。


……静寂。

息を潜める。

石の壁の向こうで、自分の鼓動だけが鈍く響いていた。


しばらくして、今度は同じ方向から音がした。

コツ、コツ、と規則正しく。

さっきよりも近く。そしてはっきりと。


階段だ。

誰かが、ゆっくりとこちらへ降りてくる。


やがて、階段の一番下にその誰かが現れた。

暗闇の中で、かすかな光が差し込み、白いTシャツの輪郭を浮かび上がらせる。

小柄な少女だった。

Tシャツは膝まで隠れ、まるで寝間着のようだ。

髪は短いボブで、黒髪のところどころに白が混じる。

額にはうっすら汗が滲み、息を整えながら「はぁ、はぁ」と荒く呼吸していた。

その声が妙に艶っぽく、

場違いなほどこの地下の冷気に溶けていく。


少女が息を整え終わると少し上を見上げ、こちらを確認するように首を傾げた。

眉を寄せ、困ったような顔。

何かを思い出そうとしているようでもあり、確かめるようでもある。


そして、おそるおそる口を開いた。


「……は、はろー?」


間の抜けたようなその言葉に、男は目を瞬いた。

頭に浮かんだのは一つ


 ん?


少女はそんな反応を見て、「これじゃないのか」とでも言いたげに眉をひそめ、

もう一度、上を見上げる。

何かを頭の中で検索しているような顔だ。


そして、次に出てきたのは


「ぼ、ぼんじゅーる?」


明らかに自信なさげな発音。

 

まったく意味が分からない。

ただ、敵意はなさそうだ。

むしろ、何か必死に伝えようとしていることだけは感じ取れる。


男は、喉の渇きを無視して声を出した。


「……こんにちわ?」


少女の瞳がぱちりと瞬く。

その表情が一瞬、完全に固まった。


「え、」


「え?」


二人の声が重なった。


次の瞬間


「「え」」


互いに見つめ合いながら、まったく同じ間合いで同じ反応をしてしまう。

暗く湿った地下の空間に、

ぽつんと、妙に間抜けな空気が漂った。


……どうやら、ようやく会話の始まりらしい。



少女が、じっと男を見つめていた。

 その目はまるで点のようだった。

 焦点を結ばないまま、ただ見開かれている。


 -噓。


 彼女の中で、そんな言葉がぐるぐると回っているのが分かった。

 男の話す言葉が、自分のそれとまったく同じだったのだ。


だが、目の前の男は明らかに異質だった。

肌の色も、目の窪みの深さも、鼻の形も、自分とはまるで違う。

完璧に別の人種だと思っていた。


 だからこそ、


「同(おんな)じなんかーい!」


少女は頭を抱えながら、見事なツッコミを入れた。

その声が地下の石壁に虚しく反響する。


男はというと、ただぽかんと口を開けていた。

何が同じなんだと思いつつも、いまはそんなことより現状が深刻だ。

鎖が腕に食い込み、筋肉が悲鳴を上げている。


「……あの、下ろしてくれないかな?」


男の声には切実な響きがあった。


少女は「えっ」と小さく声を漏らし、慌ててきょろきょろと辺りを見回す。

そして壁際にかかっていた鉄の鍵を見つけ、

「そうですねっ!」と何かに追われるような勢いで駆け寄った。


手早く鎖を外す。左、右。

カチャリ、と音がして、

男の体が一瞬宙に浮いたかと思うと、そのまま地面へと自由落下。


「いってぇ!」


床に叩きつけられた衝撃が全身に走る。

少女は慌ててしゃがみ込み、

「ご、ごめんなさいっ!」と息を詰まらせた。


男は手首の痛みを確かめながらも、

ようやく自由を感じていた。

鉄の重みが消え、空気の匂いが変わる。

湿った石の冷たさの向こうに、わずかな光が見える気がした。


そして、ふと少女の方を見やり、口を開く。


「……ここ、どこ?」





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月曜日~金曜日に投稿しています。

土日は勉強やプライベート、執筆で忙しくて投稿出来ないです。(たまに、暇で投稿するかも)


プロローグが長くて初めての小説難しいのですが頑張っていこうと思います。

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