森の中の聖女
水沢樹理
前編
頬に触れる小さな手の感触にゆっくりと目を開ける。
するときゃらきゃらと楽しそうな声が、周囲を取り囲むように聞こえてきた。
「セレナ、起きたー」
「セレナ、おはよー」
「セレナ、お顔洗う準備するねー」
「セレナ、今日のお洋服は私が作ったのー」
それに寝惚眼のままふわりと笑みを返す。
そして身体を起こすと、ベッドの両脇に並んでいた大好きな小さな友人達を見回した。
「今日も起こしてくれてありがとう、精霊さん達」
「どういたしましてー」
「セレナのお世話は私達の特権なのー」
「みーんなセレナのことが大好きだから、お世話するのは嬉しいのー」
そう言って満面の笑みを浮かべる彼女達に改めて微笑み返すと、ベッドに腰掛け床に足を着ける。
それと同時に、目の前に宙に浮いた洗面器が現れた。
程よい温度のぬるま湯で顔を洗うと、さっと柔らかなタオルを差し出される。
それで顔を拭くと、今度は精霊の魔法で肌のお手入れ。
それも王族が使用している化粧品を遥かに上回る美容効果のある魔法だ。
尤もセレナは、そんなことは欠片も知らないが。
そんな至れり尽くせりで精霊達にお世話されていると、タイミングを見計らったようにポンとベッドの上にワンピースが出現する。
それを見たセレナは顔を綻ばせ、嬉しそうに歓声を上げた。
「素敵…! 凄く可愛いわ! でもこの前も新しい服を作ってくれたばかりなのにいいのかしら? 何だか悪いわ」
「この前のはセレナの誕生日プレゼントだから特別なのー」
「だからそれを除いたら久し振りなのー」
新しい服に喜びながらもその機会が多いのではないかと遠慮するセレナに、精霊達がそんなことはないと声を揃える。
精霊達にしてみれば寧ろ少ないくらいだ。
セレナが生まれてから今まで着用してきた服は、母親が作った数枚の産着以外は全て精霊達が手掛けてきた。
精霊達にとって大好きなセレナの服を作るのはこの上なく幸せなこと、本当はもっと作りたくて仕方がない。
でもそうすると控えめなセレナは恐縮して困ってしまう。
だからこれでも頑張って我慢しているのだ。
精霊達がそうして自重していなければ、この小さな家はセレナの服だけで溢れ返る羽目になっていたことだろう。
「今日はイヴァンが帰ってくるのー」
「だから新しいお洋服でお迎えするのー」
「まあ、兄さんが! だったら今夜の夕食は頑張って豪華にしないとね」
たった一人の兄が、一週間前のセレナの十五歳の誕生日以来久し振りに家に帰ってくると聞き、セレナは嬉しそうに声を弾ませ破顔する。
その瞬間は、それを差し引いても新しい服を作ってもらうのが多過ぎることなど、どこかに吹き飛んでしまっていた。
現在セレナの血を分けた家族は三歳上の兄であるイヴァンだけだ。
両親は共に身体が弱かったらしく、母親はセレナを産んだ約半年後に、父親は五年前に亡くなっている。
それ以来、人間という種族の括りではイヴァンと二人暮らしだ。
そのイヴァンも三年前、今のセレナと同じ年齢である十五歳の誕生日を迎えた翌月からこの森を出て働くようになった。
この森の豊かな恵みを売る商人となり、国内各地を渡り歩いているのだ。
当然その間は家を留守にすることになり、短くて一週間、長ければ半月程帰ってこないこともある。
寂しくない訳ではないがそれでも孤独を感じずにいられるのは、生まれた時から常に大勢の精霊達が一緒にいてくれるからだ。
セレナのことが大好きな精霊達は、いつもたくさんの愛情を注いでくれる。
だからこそイヴァンと何日も会えなくても耐えることができた。
そして大好きな兄が帰ってくるのは勿論嬉しくてたまらない。
セレナは上機嫌で精霊お手製の新しいワンピースに着替えると、軽やかな足取りで自室を出てダイニングへと向かった。
「セレナ、おはよー」
「セレナ、新しいお洋服似合ってるー」
「セレナ、朝食できてるよー」
「セレナ、今日は天気が良いからお外で食べよー」
「ありがとう精霊さん達、いつもありがとう」
「どういたしましてー」
今度は楽しそうに笑う男の子の精霊達に囲まれる。
セレナが大好きなのは男の子達も同様。
セレナの自室でのお世話は女の子限定なので、朝の支度をしている間に朝食を作るのは男の子達の役割だ。
セレナは今日の朝食を作ってくれた男の子達に手を引かれ外へと向かった。
「おはようセレナ。今日の服もよく似合っている」
「おはようございます精霊王様。ありがとうございます、今回も精霊さんが素敵な服を作ってくれました」
外に出ると朝食が並べられたテーブルの側に、この世のものとは思えない程に美しい男性が立っている。
この森の主であり、最高位の精霊である精霊王だ。
精霊の多くはセレナの手のひら程の大きさだが、精霊王である彼は背が高い人間の成人男性と同じくらい身長が高い。
彼はゆっくりとセレナに近寄るとその手を取り、テーブルまでエスコートした。
和やかな会話と共に食事を済ませると、精霊達が食後にこの森で収穫した茶葉を使用したハーブティーを魔法で淹れてくれる。
それをゆっくりと味わっていると、セレナが尋ねる前に精霊王がそれを教えてくれた。
「イヴァンが帰ってくるのは午後の予定だ。恐らくティータイムの頃になるだろう」
「まあ、それでは兄さんが好きなお菓子を用意しなければなりませんね。今から作るとしたら何がいいでしょう?」
ティータイムまでに作れるお菓子だと何がいいだろうとセレナが思案する。
そんなセレナに、昨日お菓子作りを担当していた精霊達が少し自慢げに胸を張った。
「パイ生地なら準備できてるよー」
「イヴァンはセレナのアップルパイが大好きだもんねー」
「僕もセレナのアップルパイ大好きー」
「私もー」
「焼き上がった後の調整なら任せてー」
その言葉にセレナが目を輝かせる。
そして嬉しそうに心の底からの笑顔を見せた。
「ありがとう、精霊さん。それなら兄さんが帰ってくるまでに間に合うわね。他には何を作りましょうか?」
焼き上がってさえいれば、兄の好みである一度常温で冷ましてから食べる直前に焼き直したのと同じ状態になるよう、お菓子作りが得意な精霊が魔法でうまい具合に調整してくれる。
なのでイヴァンの好物であるアップルパイを作ることが確定し、他には何を作ろうかと考えながらセレナが楽しそうに微笑む。
そんな彼女の姿を、精霊王を含む精霊達が皆揃って慈愛に満ちた眼差しで見守っていた。
アップルパイに加えマドレーヌやマフィンが焼き上がりそろそろティータイムにしようかという頃、馬の蹄の音が遠くから聞こえてきた。
外で精霊達と一緒にティータイムの準備をしていたセレナがその音がする方向に目を向けると、荷馬車に乗った兄のイヴァンが三人の精霊を伴いこちらに向かってきている。
それを確認したセレナは破顔し、手を振りながら大声で兄のことを呼んだ。
「兄さん!」
それに応え、イヴァンも大きく手を振り返す。
程なくして家からやや離れた場所に荷馬車が停車しイヴァンが降りるのと同時に、セレナは嬉しそうに兄に駆け寄った。
「兄さん、お帰りなさい」
「ただいま、セレナ」
そう言いながら、イヴァンがセレナの頭を優しく撫でる。
だがその手を見たセレナの表情は瞬く間に曇ってしまった。
「兄さん、その手の怪我、どうしたの?」
頭を撫でてくれた右手の甲にできていた切り傷を見つけ、頭一つ分高いイヴァンの顔を下から覗き込むように見上げる。
それにしまったという顔をしながら、イヴァンは決まり悪そうにポリポリと頬をかいた。
「ああ、枝を払い除けようとしたらうっかりな…」
「イヴァンが怪我したのは、森に入る直前だったんだー」
「僕達よりセレナの方が、治癒魔法は得意だからねー」
「もうすぐ家だったから、セレナに治してもらった方がいいと思ったのー」
イヴァンと一緒に帰ってきた精霊達は治癒魔法が得意なのに何故治してもらわなかったのかと怪訝な目を向けると、すかさず彼らがその理由を説明してくれる。
確かにイヴァンの傷を見たところ、怪我してからそんなに時間が経っていないようだ。
それに精霊達が言う通り、治癒魔法の腕は精霊達よりセレナの方が上、精霊王ですら敵わない。
セレナは少々強引にイヴァンの手を掴むと、治癒魔法を発動した。
イヴァンの右手が、柔らかな白い光に包まれる。
数瞬後にその光が消えると、跡形もなく綺麗に傷が消えていた。
「セレナの魔法、綺麗なのー」
「ふわぁ、セレナの魔法、あったかくて心地いいのー」
治癒魔法と同時に放出された彼女の清廉な気に、精霊達が挙ってうっとりしながら歓声を上げる。
その様子を眺めていた精霊王には、イヴァンと行動を共にしていた精霊達が彼の怪我を治さなかった本当の理由は、セレナの治癒魔法が見たかったからだと分かっていた。
そして声には出さず、流石は聖女だと微笑んだ。
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