お客さまの聲

@tanahi_kakuyomu

白昼 会計譚

 あのね、もう悩んでいる時間なんてないんですよ。書けばいいんです。書いてしまえばいいんです。ほら、その履歴書に名前と、住所と、適当な学歴をぽらぽらっと並べて、あとは適当なマスクをつけたら、はい完成というわけであります。それで、まあ、そこまでは僕にだってできる、と胸の高い人達はこちらにそう言ってくるかもしれませんが、それはまあもちろん、想定済みなのですから、ご心配はむよう。問題はいつも、始まってから、起きるものですね。とどのつまり、会社に入社したあと(そうだ。いいですか、採用通知なんかに一喜一憂してはいけませんよ。それはあなたを地獄に、もしかしたら再起不能にしてくる警告かもしれません。それでもまあ、一旦は喜んでおくのが、孔子でいうところの礼儀というものです)そして、あなたは適当な部署に配属されて(それこそ本当に適当な、恣意的に選ばれる、いいやあ、無作為といってもいいような部署に配属されるのですから、覚悟なさい。そこになにかしらの運命を期待してはいけません。あなたが上手くいくかどうかは、今まであなたが積み上げてきた、順応性、あるいは、徳の高さによってきまります。徳の高さというと、なんだか怪しい団体の一員になった気分になりますが、まあ、俗に言えば、徳なんていうものの大部分は、人が嫌がることを率先してやること、理不尽なことを受け入れること、涙を笑顔で拭うこと、そんな物を人が都合よく、徳と呼んでいるだけなのです。運命なんて、そんなロマンチシズムだけでなくこれからは、ひたむきな、無慈悲な運によってのみ将来は定められる、というシニシズムとでも言うべきものでしょうか、まあそんなものを、早いうちから知っておくといいでしょう)それで、最初の二ヶ月はまず、人の名前を覚えること、あいさつをきちんとすること、必ず真面目の性格から逸れないこと、これだけを守っていれば、まず気に病むことはありません。会社の理念を調べあげて、適性検査をすませた挙句、つまらない面接をひとつ、ふたつ。そんなものを平気でできている時点で、あなたが気を病む理由なんてないはずです。あなたが気を病む資格は、あなたから手放したということになっているのですから、それを忘れてはいけない。まあ、なかなかに受け入れがたいものでしょうが、社会はそのように難解で、代数の因数分解のように複雑怪奇に作り上げられているのですから、もし気を病んだとしても、それを気にかけてくれる人は近くにいないと思ったほうがいい。あなたは、もちろん、そんな事態にはならないはずでしょうから、こちらとしても心配はしていません。そうして事は順調に、二ヶ月ほど経過したとき、あなたの目は前よりも少しやさぐれているでしょうけれども、それはあなたが頑張っている証拠ですから、まだまだこれからです。せいぜい、仲の良かった友人と、気ままに電話をして、その都度、適当な愚痴を並べて(この場合、お互いやはり、気が張りつめているでしょうから、恋や自慢の話をしてはいけません。できるだけ、くだらない、間の多く入った会話をひとつひとつ、こなしていくのがいいでしょう。まあ、社会人というものですから、そんなものが大人のたしなみであるということは、あなたもよくご存じのようですけど、自惚れだけはいけない)それから、慣れ親しんだあの人、この人の懐かしい声を聴いてしまえば、それはもう麻薬を用いたときのような感覚を覚えるはずです。それで、もう一ヶ月は頑張ってください。そうして、さきほどこちらが申し上げた三つの原理、原則だけを遵守して、できるだけ悪人からは目の着かないように、息を潜めながら毎日を送ってください。間違っても、上司に腹を立てたり、自分より立場の弱い、たとえば、清掃のオバチャンなんかにあたるようなことをしてはいけません。そんなところを、一度でも誰かに見られたら、あなたの生涯の立身出世はもう無いと思っていい。(おや、出世には興味がないっておっしゃいましたね。それなら、もとよりあなたは社会にでてくる必要はない。なんていうことになってしまいますから、ここはとにかく、私も、あなたも出世がしたいという体で話を進めていきましょう。言ったじゃないですか、真面目な人は常々、はい、とだけ申し上げるものですよ)そうしたら、そうですね、あなたも三ヶ月は頑張れそうですね。どうやら、本当によい気概をお持ちのようですから三ヶ月間、頑張ってください。そのときには、もうあなたの目の下はだびだびに駄々れてきて、なんともいやあ、格好が良い。これこそ、社会人の証というべき、立派なくまが湧いてでてきたでしょうから、今日はこのあたりで。え、七月からはどうしたらいいんだって? そんなの、なんの懇願にもなっていませんよ。私からの助言なんて、最初から何も似合いません。どだい、私が誰かを助けようなんか思っていること事態、はなはな可笑しな話なんです。教えられることなんて、なに一つある訳がないじゃないか。自分でさえ、自分を救えないような人間に、他人なんか、救えるはずもなし、まるで興味が持てるかっていうんだ。もとから、私は、誰かを助ける資格なんて、さらさら無いし、なにをおっしゃっても、命乞いにすらならねえって、わけなんだ⋯⋯。



 あらあら、お客さま。こんなところで眠ってしまうなんて、こちらとしてもずいぶん困ります。それではようやく、目を覚ましたようですので⋯⋯。

 まことに恐れ入りますが、いま一度、お客さまが申しあげた事、あちらのサービスカウンターにて、一言一句、お伝えいただけますでしょうか? もし、可能でしたら、住所とお名前も。

 もちろん、お客さまご自身の声でお願いいたします。


 

T.C (お身体に気をつけて、テイク・ケア)



 店員として、あなたのご容態を心配しているのではないのです。ひとりの人間として、私自身の健康に気を遣って言っているのです。


 あちらへお行き、テーブル・チェンジ。


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