夜のおわりに ── 煙は夜に溶ける③

 しおらしく下を向いた女を見下ろしながら、慎也はぽつりと問う。


「その……好きなの? 例の後輩のこと」


「は? んなわけねぇよ。同僚だし、何歳離れてると思ってんだ」


「またそれだ。歳の差、歳の差って」


「しょうがねえだろ。歳の差は事実だ」


 その言葉を聞いたとき、先ほどから感じていた正体不明のもやが心の中で渦を巻き──何かがはじけた。


「あのさ……歳の話はもういいんだって!」


 女が驚いて一歩下がる。慎也は思わず声を張った。


「いいか、俺は年上好きなんだよ! 10歳上まで余裕で守備範囲しゅびはんいだから! わかったか‼」


 一瞬の静寂。動いたら負けのような空気の中で、先に硬直を解いたのは女の方だった。


「ぷっ……」


 腹痛をこらえるように体をくの字に曲げ、ジャケットの袖口で口を覆い隠す。漏れ出る笑い声はやがて隠しきれなくなり、大笑いへと変わった。


「っははは! おまえ、いきなり何言ってんだよ! 数字まで具体的にすんな、はらいてぇ!」


 笑い転げる彼女を横目に、慎也はふてくされて海から上がった。わざと派手に足音を立てながら、ビニール袋と空き缶でマークされたふたりの基地まで戻る。女もすぐ後ろについてきていた。


「……あーもう、海よりテディ見てる方が面白おもしれぇわ。ビールの続きいくぞ。ほら、一本よこせ」


 指を差された慎也は、ビニール袋に手を伸ばしかけてやめた。


「……そういえば、ぬいぐるみ好きなんでしょ? うちにでかいサメいるけど、引き取りに来る?」


「おい、そんなこと軽くいうなよ。……本気にすんぞ?」


「だってあんた何もしないでしょ。する気ないって言ってたし」


「まあな。でも気が変わるかもしれねぇぞ。コンビニで私が何買ったか知ってんのか?」


「ビールとライターじゃん?」


「本当にそれだけって保証があるか? 袋にほかのものも入ってるかもな」


 女が砂に手をつき、顔を近づける。吐息といきが耳をかすめる。


「……たとえば、“ゴム”とかさ」


「っ……!」


 慎也はになって袋をつかむ。中にはぬるくなった発泡酒の缶が3本、結露を光らせていた。


「くっそ、やられた!」


 女は地面をたたいて笑う。


「やっぱ最高だな、テディは! なあ、何もなくて安心した? ……それとも、ちょっとは期待したか?」


「ほんっと、そういうとこ! 可愛くねえな!」


 慎也は乱暴に缶を開けて、砂漠でみつけたオアシスを飲み干すように、一気にあおった。


「あーずりぃ! 私にも寄越よこせ!」


「いやだね! もう3本飲んだろ。残り3本は全部俺の~」


「てめぇ、こっちの優しさにつけ上がりやがって!」


 ぬるくなった発泡酒をめぐって、プロレスの第2ラウンドが始まった。膝をついて体ごとビニール袋を奪いにくる女と、右手の発泡酒をこぼさないように死守する慎也。


 何度押し返しても、女はゾンビのようにアルコールを求めて襲いかかる。結局、慎也が根負けしてプロレスの幕が引かれる頃には、ふたりとも全身砂まみれだった。


 ぷしゅっ――勝利の雄叫おたけびとともに、女がタブを開ける。だが、勢いよくあふれ出す泡に思わず声を上げた。


「うわっ……おい、これどうしよう!」


「こんだけぬるくなった発泡酒を振り回したら、そりゃそうなるでしょ」


 慌てて缶を口に運ぶ女を見ながら、慎也は笑った。体の熱が落ち着くと同時に、がぶ飲みしたアルコールがじわじわ回ってくる。


「……そういや俺、なんで発泡酒なんか飲んでるんだ?」


 酔いを覚ますつもりが、逆に酔いを重ねている。それも、うれしそうに缶を傾ける女を見ていると、どうでもよくなった。


 そのとき、思考の端で光った小さなひらめきに、思わず言葉が漏れる。


「――ロビン」


「あ? なんて?」


「ロビンって呼ぶよ。あんたのこと」


 脳裏に浮かんだ疑問をそのまま顔に出して、女は渋い顔でにらみつけてくる。その様子に笑いながら、慎也は続けた。


「俺、今日はテディベアなんだろ?」


「あぁ。全然ベアじゃなかったけどな」


「それでいい。でも今日だけは、俺はテディのベアで、あんたはそんな俺と遊んでくれたんだ。――世界で一番有名なテディベアと遊んでくれる人って言ったら?」


「……クリストファー・ロビンか」


「そう。だからロビン。これからもよろしく、ロビン」


 女は少しうつむき、そして肩を震わせた。やがてこらえきれなくなったように、笑い声が弾ける。


「ふははっ、似合わねえ! ……でも気に入ったぜ。ありがとな」


 笑いの余韻よいんを残したまま、女はポケットから煙草たばこを取り出し、火をつける。


「かーっ、うめぇなやっぱり!」


「なあロビン、煙草ってそんなにうまいの?」


 わざとらしく呼び名を強調すると、女は腹筋を震わせながら振り返った。


「なんだよテディ。やっぱ吸ったことねぇのか? じゃあやろうぜ、ポッキーゲームってやつ! この煙草で」


「煙草でやるもんじゃねえよ! それ俺死ぬから!」


 女は豪快に笑い、煙をき出す。スマホのライトに照らされて揺らめく煙は、ゆっくりと高度を増して秋の夜空にまれていく。


「なぁ」


「なんだよ」


「テディみたいな若いのってさ。年上の人間全員、うっすら嫌ってたりしねぇの?」


「そんなわけないだろ。5つや6つ上だからって同じ人間だし。好きな人も嫌いな人もいる。小学生じゃあるまいし、それくらいわかってるって」


「ふーん。じゃあ10や20や50くらい上なら?」


「そんな上じゃねえだろ、妖怪かよ」


「なんつーこと言いやがる!」


 女が膝を立てて腰の入らないパンチをり出す。慎也が軽くかわすと、女は諦めて座り直した。


「じゃあ……テディは、私のこと好きか?」


「別に……嫌いじゃねえよ」


「好きかって聞いてんだよ。どうなんだ?」


 ニヤニヤと見つめてくる女を見て、慎也はため息をつく。


「わかったよ、言えばいいんだろ。……ロビンのことは、好きだよ。格好いいし……たまに可愛いし」


「っ……ばっ、真顔で言うなよ、そういうの……!」


 女が顔を赤くして目をそらす。その照れが、慎也には妙にいとしく思えた。


 波の音が遠くで砕ける。ふたりの間に静けさが落ちる。やがて、女は膝を抱えて、地面に語りかけるようにつぶやいた。


「……あーあ。結局そんなもんだよな。私が二十歳はたちの頃も、似たような感じだった」


 そのつぶやきに何も返さないでいると、女は顔を上げて続けた。


「おい、今“この女にも若い頃あったのか人外が”って顔したろ。バレバレだぞ」


「してねえって! 妖怪を引きずりすぎだから!」


 ふたりの笑い声が夜空に溶けていく。大声で意味のないやり取りをして、最後の発泡酒をどちらが飲むかで喧嘩けんかし、疲れ果てて星を眺める。そんなかけがえのない時間が、喜びのうちに矢のように過ぎていき、徐々に慎也の記憶は曖昧あいまいになった。


 気づくと寝転んで星を数えていた。自分が知っている星座だけでは星を結びきれなくて、不憫ふびんに思って勝手に結んであげていた。


 ひとり遊びをしている間、ずっと隣から寝息を感じていた。ロビンが眠ったのか、それとも夢の中でそう思っただけか。いずれにせよ、波の音が優しかった。


「おやすみ、テディ。夢の中ぐらい、ちゃんと笑っとけよ」


 そんな声が、最後に耳の奥でひびいた気がした。



 ***



 腹に何かがぶつかる感覚で目が覚めた。太陽のまぶしさをまぶたの裏で感じながら、条件反射で言葉が口をついて出た。


「……水、ありがとう」


 誰も答える者はなく、それどころか、水のペットボトルだと思った感触が勝手に動いて、体のあちこちを小突き出した。慎也は自分の正気を疑った。


「はっ……?」


 顔の前に気配を感じるとともに、太陽光がさえぎられて目が開く。目の前にいたのは、茶色い毛むくじゃらの――クマだった。


「なんでクマが海にいんだよ⁉」


 何度かまばたきをしながら、意識が少しずつ覚醒していく。目と鼻の先で揺れる“クマ”の動きに違和感を覚え、その正体を察し始めたタイミングで、声がかかった。


「すみません、うちの子が……。行くよ、マロン」


 慎也の顔の近くで遊んでいた“クマ”――改め、茶色い毛むくじゃらの子犬“マロン”は、飼い主の呼びかけに一声鳴いて答えると、慎也のことをすっかり忘れたように飛び去っていった。


 改めて仰向けの姿勢を取る。目に入る太陽の光がまぶしくて、右手でさえぎった。


 まぶたを閉じると、潮の匂いが鼻をくすぐる。マロンとその飼い主が去って、砂浜には静寂が満ちていた。ライダースジャケットで横たわる女も、コンビニの袋も、砂に刺さった発泡酒の墓場でさえも、そこにはなかった。


「……ロビン」


 呼びかけてみる。返事はない。ふとパーカーのポケットに右手を突っ込んで、固いものに手が触れた。


 そこには、ロビンが吸っていた煙草たばこの箱。中には1本だけ残っていて、もはや懐かしく感じる匂いがした。


「……ライター、ないじゃん」


 つぶやいた声が、潮風にまぎれて消えていく。その瞬間、耳元でハスキーな声がささやく気がした。


「火ぐらい、自分で探せ。……男だろ」


 反射的に起き上がるが、そこにはやはり誰もいなかった。ただ、風が砂を巻き上げて、昨夜の匂いを連れてくる。


 慎也は煙草の箱を見下ろし、ふっと笑った。


「……まだ、吸えねぇな」


 ポケットにしまい、立ち上がる。いつか火をつけるときが来たら、あの声が笑う気がする。「やっと、一本目かよ」って。


 足元の砂が、じゃりと音を立てた。波打ち際には、もうひとつの足跡がある。たぶんロビンのものだ。その足跡は、まっすぐ海へと伸びていた。


 風が強くなり、足跡が消えていく。朝日が水面を照らす。慎也はゆっくりと背を向け、光の中を歩き出した。


 ――ポケットの煙草が、かすかに温かかった。



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煙は夜に溶ける 陽炎ユラ @YuraYangYan

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