第12話 冴子の調査
氷室冴子はホテルのラボに戻った。
全身が不快感で泡立っていた。
あの女。
ルシエラ。
あのサキュバスが残していった、甘ったるい蜜の香り。
それが自分の白いシャツに、微かに、だが確実に付着していた。
冴子は舌打ちし、シャツを脱ぎ捨てた。
そのまま焼却炉に放り込む。
(……蜜柑)
あの夜。
蜜柑が自分の元へ逃げてきた。
あの恐怖に怯えた顔。
あの首筋に残った、忌まわしい圧迫痕。
冴子の
冴子は勝利を確信していた。
これで蜜柑は、あの魔女の呪いから覚める。
自分のラボで、安全に、完璧に、管理できる。
そう、思っていた。
(……あいつ)
蜜柑は、逃げた。
夜明け前。
冴子の制止を振り切り、あの裏路地の店へ戻っていった。
あの化け物の元へ。
(愚かな)
冴子の氷の瞳が、怒りで揺らぐ。
(あいつは、毒されている)
(私の蜜柑を、
(許さない)
冴子の葛藤は明確だった。
対人。
いや、対「魔」だ。
あのサキュバス(ルシエラ)から、どうやって蜜柑を「奪還」するか。
冴子は、自室の内線電話を取った。
『……私だ。例の女を、調べろ』
声は、絶対零度。
『名前はルシエラ。黒髪、赤目。おそらく偽名。行動パターン、住処、交友関係。……金の流れ。すべてだ』
冴子は、自分の持つ「力」を、躊躇なく使った。
ホテルグループの、裏の調査網。
財閥の力。
(あいつは、魔だ)
だが、魔も、現代日本では「人間」として生きているはずだ。
戸籍。住所。銀行口座。
必ず、
しかし。
三日後。
冴子の元に戻ってきた報告書は、彼女を苛立たせた。
『……該当者、なし』
「なし、だと?」
「はい。都内の全域、出入国記録、納税記録。……どこにも、ルシエラという女は存在しません」
(……幽霊か)
冴子は、報告書をデスクに叩きつけた。
(感情ベクトル:冴子:疑念 → 焦燥)
やはり、普通の手段では、尻尾を掴ませない。
あの女は、人間社会の「外側」にいる。
(ならば)
冴子は、ラボの奥にある、もう一つの「部屋」に入った。
そこは、最新鋭の調理器具など、何一つない。
古い、書庫だった。
壁一面を埋め尽くす、革張りの古書。
カビと、古いインクの匂い。
ミントの香りとは違う、冴子の「本性」が、ここにはあった。
氷室家。
その本流は、神道系の呪術師だった。
表向きは財閥として日本経済を動かし、裏では、古来より、この国に紛れ込む「異物」を監視し、封じてきた。
冴子は、その知識と、異物を感知する「冷たい」体質を受け継いだ、直系の退魔師だった。
「……サキュバス。夢魔。淫魔」
冴子は、書架から、重い一冊を引き抜いた。
【古文書】だ。
羊皮紙に、ラテン語と、古い日本語の呪文が混在して書かれている。
冴子は、それを、
『……サキュバスは、人間の精気、特に『情熱』や『恋愛感情』を糧とする』
(やはり。蜜柑の才能は、あいつにとって極上の餌だ)
ページをめくる。
『……その性質上、対象を深く『愛』し、執着する傾向が強い。対象の感情の『甘さ』を最も好むため』
(蜜柑の告白……あの夜、二人は和解した)
冴子は、調査網を使って、二人が「恋人」に戻ったことも、掴んでいた。
(蜜柑は、自ら、あの魔物に『甘さ』を差し出している)
舌打ちが漏れる。
『……弱点』
冴子の瞳が、鋭くなった。
『サキュバスは、感情の生き物である。ゆえに、精神的な揺さぶり――特に『嫉妬』や『喪失の恐怖』は、その魔力を著しく乱す』
(あの夜、私がやったことだ。……だが、足りなかった)
さらに、ページをめくる。
そこには、小さな文字で、注釈があった。
『――異説あり。近年の研究では、一部のサキュバスは、人間の精気よりも、高純度の『糖分』を直接エネルギー源として摂取する個体が確認されている』
「……糖分?」
冴子の手が、止まった。
「Sweet Dreams」。
パティシエ。佐倉蜜柑。
蜜柑の「情熱」ではなく。
蜜柑が作る「お菓子」そのもの。
『……この個体は、従来のサキュバスより精神的に安定している。だが、弱点もまた、明確である』
冴子は、息を呑んだ。
『一定期間、高純度の『糖分』を摂取できない場合。その個体は急激な『飢餓状態』に陥る』
『そして――』
『――暴走する』
冴子の氷の瞳が、見開かれた。
『飢餓状態に陥った個体は理性を失い、最も近くにいる最も『愛する』対象から、その生命エネルギー(生気、血液)を、見境なく奪い尽くそうとする』
(……これだ)
冴子は、古文書を閉じた。
パタン、と、重い音が、書庫に響いた。
(ルシエラは、これだ)
(蜜柑の『お菓子(糖分)』に、依存している)
(そして、蜜柑は、今、その『餌』を、自ら進んで捧げている)
冴子の脳は、氷の速度で、回転を始めた。
(蜜柑は、危険だ)
(彼女は、自分の『愛』で、化け物を飼いならしているつもりだ)
(だが、もし、何かの手違いで、蜜柑が菓子を作れなくなったら?)
(あの夜のように、喧嘩したら?)
(あの夜、ルシエラは、牙を剥いた)
(次は、寸前では止まらない)
(蜜柑は、食べられる)
(確実に)
(……守らなければ)
冴子の胸を占めるのは、退魔師としての「使命感」ではない。
蜜柑という「才能」への執着。
いや、もっと純粋な「独占欲」だった。
(私の蜜柑を、あんな化け物の『餌』になど、させてたまるか)
(計画、変更)
(蜜柑を、脅す。怖がらせる)
(まず、あの女から、物理的に引き離す)
冴子は、書庫を出た。
ラボに戻り、スマートフォンを手に取った。
蜜柑の番号を、呼び出す。
***
その日の昼下がり。
「Sweet Dreams」は、珍しく、客が途切れていた。
蜜柑は、ルシエラとの「恋人」関係が始まってから、幸福の絶頂にいた。
あのキス以来、ルシエラは牙も爪も隠し、まるで忠犬のように、蜜柑の差し出す新作に、
蜜柑の作るお菓子も、恋する「歓喜」によって、さらに輝きを増していた。
すべてが、順調だった。
カラン、コロン。
その音に、蜜柑は、一瞬、ルシエラかと思った。
だが、違った。
冷たいミントの香り。
氷室冴子だった。
「……先輩」
蜜柑の顔が、こわばる。
気まずい。
あの夜、彼女の元から逃げ出して以来だ。
「……元気そうだな、蜜柑」
冴子は、皮肉を込めて言った。
「随分と……『甘ったるい』顔になった」
「お、お世話になりました……! あの晩は……」
「謝罪はいい」
冴子は、カウンターの前に立った。
その氷の瞳は、もう、蜜柑を憐れんではいない。
冷徹な「審判者」の目だった。
「蜜柑。単刀直入に言う」
冴子は、蜜柑に、一切の逃げ道を与えなかった。
「あの女は、危険だ」
「……!」
また、その言葉。
だが、蜜柑は、もう、あの夜の蜜柑ではなかった。
「……危険じゃ、ありません」
蜜柑は、ルシエラを、信じていた。
「ほう。あの牙を、もう忘れたか」
「忘れません。……でも、彼女は、私に誓ってくれました。もう、しないって」
「愚かだな」
冴子は、心底、蜜柑を軽蔑するように、言った。
「化け物の『誓い』など、腹を空かせた狼の前で『待て』と言うに等しい。……君は、自分の喉笛に、牙がかかっている自覚がない」
「違います!」
蜜柑は、声を荒げた。
「彼女は、そんなんじゃ……!」
「私が、調べた」
冴子は、蜜柑の言葉を、断ち切った。
「あの女……ルシエラは、サキュバスだ。それも、君の『お菓子(糖分)』を生命線とする、特殊な個体だ」
「え……」
「お菓子を、与え続けなければ、どうなるか」
冴子は、冷たく、蜜柑に、古文書の「真実」を叩きつけた。
「飢餓状態になり、暴走する。……そして、君を食べる」
「……!」
蜜柑の顔から、血の気が引いた。
暴走。
飢餓。
あの夜の、牙。
すべてが、繋がった。
「でも……でも、私、お菓子、作り続けますから! だから、大丈夫です!」
蜜柑は、必死に、反論した。
「彼女を、飢えさせたり、しません!」
「君が?」
冴子は、
「君が、風邪をひいたら? 事故に遭ったら? もし、また、あの夜のように、あいつと喧嘩したら?」
「……それは」
「君が、お菓子を作れなくなった、その瞬間」
冴子は、蜜柑の、最後の希望を、粉砕した。
「君は、あの女の『餌』になるんだ」
「……いや……」
蜜柑は、その、あまりにも、論理的で、残酷な「未来」に、震えた。
「蜜柑。私と来い」
冴子は、再び、あの日と同じ言葉を言った。
「私のラボに来れば、君は完璧な環境で菓子が作れる。……君がもし動けなくなっても、私の部下がいくらでもあの女のための『糖分』を肩代わりしてやる」
「……」
それは、完璧な「解決策」だった。
ルシエラを、飢えさせない。
蜜柑も、安全。
だが。
「……いやです」
蜜柑は、首を、横に振った。
「私は、ここで、作りたい。……ルシエラさんの、すぐそばで」
「……そうか」
冴子の氷の瞳が、スッと、細められた。
(感情ベクトル:冴子:決意)
「……説得は、無駄のようだな」
冴子はもう、蜜柑を「説得」するのをやめた。
「蜜柑。君は、自分の足で地獄に歩いていくことを選んだ」
冴子は、静かに宣告した。
「ならば、私は、私のやり方で、君を『守る』」
「え……?」
「……せいぜい、あの魔物との、甘い『ままごと』を楽しむんだな」
冴子は、謎の言葉を残した。
「だが、覚えておけ。……君はいつかあいつに喰われる」
「た、食べられません!」
「そう思っているのは、君だけだ」
冴子は、冷たく、言い放った。
その言葉は、脅迫だった。
そして、冴子の「計画」の、始まりを告げる、ゴングだった。
冴子は、蜜柑の返事も聞かず、店を出ていった。
(……計画)
冴子の計画は、決まった。
蜜柑が、自分の意志で、あの魔物の元を離れないのなら。
(蜜柑から、あの魔物を引き剥がす)
いや。
(蜜柑から、『お菓子』を奪う)
蜜柑が、菓子を作れなくなる状況。
それを、意図的に作り出す。
そして、あのサキュバスを意図的に『飢餓状態』にし、暴走させる。
蜜柑の、目の前で。
(そうすれば、蜜柑も目を覚ます)
(あれが、飼いならせる『ペット』ではなく、自分を食い殺す『化け物』だと)
冴子の氷の瞳には、一切の迷いはなかった。
たとえ、それが蜜柑自身を最大の危険に晒すことになったとしても。
彼女を「奪還」するためなら、冴子は悪魔にさえなる覚悟だった。
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