短編004 バー

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短編004 バー

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「おや、シングルモルトの18年ですね」


いつものように穏やかに、仕立ての良いスーツに品の良いネクタイの男は言った。

毎回同じ銘柄の蒸留酒を、ストレートで舐めている。

せめて私と同じものを頼めるようになってから、話しかければ良いのに。


「そのスーツ、とてもステキですね。タイとの組み合わせも美しい。よくお似合いですよ」

バーテンダーが男を褒める。片手で4Lの蒸留酒のボトルを軽々と持ち上げ、男にもう一杯サーブする。

最初の一杯が1cmも減ってないのに。グラスから溢れそうだ。


「ありがとうございます。吊るしなんですけどね」

男は少し照れ、微笑みながらバーテンダーに返す。

薄っぺらいやり取りだ。

私のシングルモルト18年のグラスが空だが、バーテンダーはこちらを向かない。

私のスーツだって吊るしだ。セール品だが、悪くはない筈だ。


男とは、月に2回の頻度でここで遭遇する。


男はいつも断りなく、私の一つ空けた隣に座り、一方的に話すのだ。気が向けば、短い相槌を打ってやらなくもない。

似合うスーツに身を包み、傷ひとつない艶やかなジュラルミンケースを携えており、それを真ん中の空いた席に置く。


馴れ馴れしい割に壁を築くようなチグハグさに、少しモヤっとする。


「よくお会いしますよね。僕は月2回ほど出張の際にここに寄るのが日課でして」

男は照れながら笑う。


遠方に住んでいるのか…と男の背景に思いを巡らせそうになり、慌てて思考の蓋を閉じる。

悪くない身なりだが、こんな穴場の高級バーで居酒屋御用達の蒸留酒を飲むような男など。


「職場は、こことお近いのですか?」

男は話し続ける。うるさいやつだ。酒を味わうために来ているのに。

しかしやはり18年物は12年物より美味い。こう、深みがね。

バーテンダーは既に私へのサーブを放棄しており、ボトルを私の傍に置いたままだ。


男の所作や声音は美しく雰囲気も柔らかで、ほどよい眠気を誘う。うっかり魅入られてしまいそうだ。

男の問いかけに私は、頷くでもない曖昧な動作で、YESともNOとも取れない返事をしてやる。


この男と鉢合わせると、一挙一動を横目で追い聞き耳を立ててしまい、ゆっくり酒を堪能できない。

ろくに味わえないのに、高い酒の消費だけが早くなる。


「そう言えば先日、名古屋の展示会でお見かけしましたよ」

私は名古屋になど行っていない。勘違いじゃないのか、バカめ。


「お子さんは男の子なんですね。遊びに来てくれるなんて、お父さん思いの息子さんだ」

私には息子などいない。結婚すらしていない。ほんとにこいつ、誰と間違えているんだ?

私はまた、曖昧な頷きらしき反応をするに止める。

イライラする。


「あー!これですね!前回お会いした時に言っていた」


これ?


ふとはっきりと男を見遣った瞬間、ジュラルミンの壁が取り払われる。

これまでずっとあった、男との境界。


「オイおま…」

喉元まで出かかった呼びかけは、舌の上で蒸発する。


男の反対隣には、シングルモルト18年を飲む汚れたツナギを着た若い金髪の男が座っていた。

バーテンダーは親しみを込めた優しい微笑で、金髪へのサーブをシングルモルト18年から切り替え、新しいグラスにコンビニプライベートブランドの発泡酒を注いでいた。

丁寧に磨かれたグラスに、キラキラ発泡しているキンキンに冷えた液体が、まさに適量注がれる。

金髪はバーテンダーに、礼儀正しいが親しげな口調で礼を述べた後、勢いよくそれを飲み干した。

そして、それはそれは嬉しそうに大口を開けて笑うと、八重歯が見えた。


男は金髪から、緑の四角い瓶に入った独産のリキュールを大事そうに両手で受取り、丁寧に丁寧にジュラルミンケースに仕舞う。

「……良かった。日本で流通してるものは成分が足りなくて。家内も喜びます」


私は初めて男の顔を直視した。

穏やかに、幸せそうに笑う男だった。

吊るしのスーツを着ていようが、安酒を飲んでいようが、酒に弱かろうが。


自分のシングルモルト18年のボトルがもうすぐ切れそうな事に気づき、私は少しソワソワし始める。


男がトイレに席を立つ。

私は目線でバーテンダーを呼び、彼にそっと度数96%の波産ウォッカの瓶を渡す。

「天然水のボトルにこれを。18年のボトルには、いつもどおり園系ブランドのやつを。ああ、自販機ので問題ない。」


バーテンダーは、先程までの穏やかで親しげな微笑を引っ込め、無機質なアルカイックスマイルを作り、無言で頷きもせず瓶を受け取る。


私は男が戻る前に姿勢を正し、グラスを傾ける。まるでずっとそうしていたかのように。


飲み干してから店を出る。




この店は、残しておくことにしよう。


私はジュラルミンケースから裁定帳を取り出した。

ほんの一瞬、ペンが迷いを見せた。

結局、5段階中4の箇所にチェックを入れ、手帳をケースに戻した後、静かにその表面をひと撫でした。

金髪の八重歯が、ふと頭をよぎった。

これであと2年は”大丈夫”だろう。


私はバー前にある自販機の、麦茶のボタンを押した。

本体が僅かに揺れ、取り出し口にガゴンとボトルが落ちるのを、耳と目で追った。

ようやく脳は再演算を開始し、数秒後裁定者モードのスイッチがオフになった。


それから私は、何度も小階段を昇降し、いくつもの小さな角を曲がり、東京駅から千代田線日比谷駅の改札近くの関係者ドアから外に出、改札を抜け電車に乗り霞ヶ関に戻ると、自席にドスンと飛び込むように座った。


この後、銀座の現場に行かなくてはならない。

あの地域の店は、5割が執行対象になるだろう。3年以内には8割だ。件数も多い。




私は机上の端末に地図を表示し、膨大なつぶつぶの丸が5の赤から1のグレーに刻々と変わって行く様をぼんやりと眺めた。

それはまるで蝗害のようだった。

地図を拡大し、先程のバーの赤の点滅が、橙の点滅に変わったことを確認し、指先を微かに丸めた。


あの監査機関のバーテンダーは、重箱の隅を突くような粗探しを報酬よりも至高の悦びとし、賄賂も効かない扱いにくい奴として、話が通じる同僚内で有名だ。

今回の私の裁定結果はこの後、あのバーテンダーの個人的な嗜好にまみれた監査指標で粉々に分解・再構築後、依存省酒精還元庁へ提出される。

5年前に施行された、この小さな島国の燃料不足への一助となるらしい、施策。

莫大な費用をかけて、八重歯の彼のような笑顔をいくつも失うであろう取り返しのつかなさに、ぎゅっと目を瞑る。

この取り組みに、本当にあの八重歯の笑みと引き換えるほどの費用対効果は、あるのだろうか。


思わず溜め息が出そうになり、慌てて息を止めて飲み込む。カメラがどこにあるか分からない。


一度目を閉じ、ゆっくり息を吐く。

それから愛娘が作ってくれたお弁当の包みを解く。1年前養子に迎えた可愛い娘の手作り。

さて、食べたら向かわなくては。


気を抜くと、仕事について思考が暴走しそうになり、強引に軸を中心に戻す。

まったく、あいつらが家族の話などするからだ。


我々の仕事は、個を認識・識別しない。

それが上手くいくコツなのだから。


一瞬湧いた考えを、手元のジュラルミンケースに乱暴に押し込む。

このケースも、今年で7個目だ。


消費が早すぎる。


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