第2話 少女が泣いた森
授業が終わり、学院がもっとも静かになる黄昏時。
寮へ帰る学生の喧噪が遠ざかり、
長い廊下に残るのは、夕陽の光と足音だけ。
風も止み、校舎全体が一瞬だけ“息を潜める”時間だった。
リアムはゆっくりと歩いていた。
(……やけに静かだ。)
そのとき――
「り、リアム君!!」
切羽詰まった悲鳴に近い声が走った。
リアムが振り向くと、
角を曲がって、少女が必死の形相で駆けてくる。
フィーネ・レストリア。
いつもは太陽みたいに明るく微笑む少女。
だが今は、その影もない。
顔は蒼白。
瞳は涙の膜で揺れ、
肩は呼吸のたびに震えていた。
リアムは、滅多に動じない瞳を細める。
「……どうした。」
問いかけると、
「だ、誰かに……ずっとつけられてるの……!
こ、怖くて……歩くのもやっとで……!」
声は震え、息が詰まり、
袖を掴む手は氷のように冷たかった。
リアムは即座に索敵魔法を展開した。
魔力の層が重なり、空間が透過する。
(……いるな。)
そして見えた“二種類の尾行者”。
◆1:学院生1名
・1年Aクラス
・魔力量は低い
・だが“歪んだ執着”が濃い
(……ストーカーか。)
◆2:黒装束で顔を隠す4名
・魔力の質、動き……プロ
・潜伏術が異常に高い
・隣国の隠密魔導師クラス
(……拉致目的だな。殺意はない。つまり“持ち帰る”つもりだ。)
《リアム様。これは完全に“事件”コースです。》 (分かっている。)
フィーネの手は震えっぱなしだった。
「リア……ム君……ほんとに、怖い……
お願い、助けて……」
声の端が、泣きそうに揺れた。
リアムは静かにため息をつき――
「来い。」
短く、だが決定的な響きで告げた。
フィーネの表情がわずかに緩む。
だがまだ怯えは深く、リアムの袖をぎゅっと掴んだまま。
リアムは彼女の手首に触れ――
パチン。
指を鳴らした瞬間、
二人の足元の魔法陣が光り、
視界がひっくり返るように空間が崩れる。
そして――
学院から42キロ離れた森の高台へ転移した。
夕陽が森を黄金色に染め、
風が柔らかく木々を揺らしている。
だが、フィーネは転移の衝撃で足をもつれさせ――
「あっ……!」
倒れかけたその身体を、
リアムが自然に抱き寄せた。
腰を支え、胸元へ引き寄せる。
完全に“抱きしめる”姿勢。
フィーネの顔が一瞬で真っ赤になった。
「ちょ……ちょっ……近い……っ……!」
「転倒防止だ。」
「そ、そっか……(ち、近……! 至近距離……!)」
リアムは無表情。
フィーネは頭のてっぺんから爪先まで真っ赤。
《リアム様、距離感が恋愛ゲームのスチルです。》 (支えただけだ。)
《“だけ”で抱き寄せイベントになる男がここにいます!》
リアムが右手を軽く振り払うように動かした瞬間。
森の静寂が、引き裂かれた。
地面に六つの影が“叩きつけられる”ように出現した。
強制転移――回避不能の空間操作。
「う、うわっ!?」「な、何だ!?
空間が……勝手に……!」
木々の中に無理やり引きずり出された彼らは、
自分たちの身体が全く制御できなかった衝撃に混乱している。
リアムは一歩も動かず、ただ見下ろしただけだった。
森の中に引きずり出された六人のうち、
もっとも異様な気配を放っている者がひとり――
学院の制服。
貴族の紋章入りのブローチ。
年齢はリアムと同じ一年生。
だが、その目だけが“何かを失っていた”。
焦点が合っていない。
呼吸は荒く、肌には汗がにじみ、
心臓の鼓動が遠くからでも聞こえてくるほど異常に速い。
ただ一点――
フィーネ・レストリアを見た瞬間だけ、
その瞳に異常な光が宿る。
「フィーネ……っ……いた……!
やっと……僕の……僕だけの……!」
その声は甘く、絡みつくようで、
まるで恋人に囁くように優しいのに――
言葉のすべてが歪んでいた。
「ひっ……!」
フィーネはリアムの背中に飛びつくように隠れる。
その手は震え、
リアムの制服をぎゅっとつかんで離さなかった。
リアムは一瞥だけ、少年の方へ視線を向ける。
(……魔力反応の歪み。
精神の揺らぎ。
呼吸の早さ。
脳の興奮状態――)
総合して一言。
“完全な危険人物”だ。
《リアム様。これはもう“恋愛”じゃなくて“病気”です。
即・隔離案件です。》 (理解した。)
だが少年は、リアムの存在をまるで視界に入れていなかった。
ただ、
ただひたすらフィーネに向かって手を伸ばす。
「フィーネ……! どうして逃げるの……? 僕は……こんなにも……愛してるのに……!」
「や、やめて……近づかないで……!」
フィーネの怯える声は、
少年の狂熱をさらに加速させた。
「そんな声も可愛い……!
震えてるのも……僕を意識してるんだよね……?
君の不安は……全部僕が取り除くよ……!」
その甘い声は、
逆に耳を汚すような不快さしかなかった。
フィーネの背中に触れたリアムの手が、
無意識のうちに彼女の肩を庇うように動いていた。
《あ、リアム様……
いま“守りたい”って衝動が微妙に手に出てますよ。》 (反射だ。)
《反射で守る男は、十分イケメンです。》
少年は自分の狂気に酔いながら、
さらに一歩、フィーネへ踏み出す。
「ねぇフィーネ……
あの男(リアム)なんてやめて……?
君に似合うのは僕だけなんだ……
君の全部を……僕が――」
その瞬間。
“パキッ”
空間が微かに歪んだ。
リアムの瞳が、
ほんの数ミリだけ細くなる。
ただ、それだけ。
それだけで、
森の温度が氷点下まで落ちたような錯覚を覚える。
隠密魔導師たちが一斉に息を呑む。
「なっ……!? なんだ……この……圧……!」
(……怒ったな、リアム様。)
《リアム様、これは“本気で不快”って時の殺気です。
数章ぶりのガチ案件です。》
(……フィーネに気持ちの悪い言葉を吐いたからな。)
リアムは無言で少年を睨むわけでもなく、
動くわけでもない。
ただ、
その存在そのものが“威圧”となり、
少年の足を止めていた。
「ひっ……!?」
少年の顔に恐怖が走る。
だが、それでも彼は叫ぶ。
「ど、どうして……!
僕を見ないんだよ……!
僕の方が……君を……愛してるのに……!
リアムなんかより……僕の方が……!」
フィーネの肩が震える。
リアムの影が、
少年の前に“滲むように”現れた。
動いたように見えなかった。
ただ気づけば、目の前に立っている。
少年の膝が抜ける。
「ひっ……!? ぅあ……ああ……!」
リアムは無表情のまま、静かに言った。
「フィーネの名前を――
汚い口で呼ぶな。」
その一言は、
氷柱のように冷たく、
そして“殺意そのもの”だった。
森に引きずり出された六人のうち、
フィーネの背後に視線を定め、じっと動かない存在が4つ。
黒いローブ。
深いフード。
顔はすべて覆面。
魔力の“気配”が異様に少ない。
だが、それは弱さではなく――
(能力を“消し込む”技術。完全に職業レベル……いや、軍属。)
リアムの瞳に光が走る。
(この魔力の質……
隣国アークリンド王国の“隠密魔導師”特有の波長だな。)
アークリンド。
王国とは犬猿の仲。
表向きは友好国だが、裏では諜報合戦が続く“敵対寄りの隣国”。
その最前線で暗躍するのが――
このローブの連中、“隠密魔導師”。
王国内では《黒蜘蛛》と呼ばれ、
誘拐、諜報、暗殺、潜伏に特化した精鋭中の精鋭。
その4名が、
今まさに“学院一年の女子生徒1名”に狙いを定めている。
異常以外の何物でもなかった。
フィーネ・レストリアは震えながら、リアムの上着を握る。
「り……リアム君……
この人たち……誰……?
どうして……私を……」
声が震えて途切れる。
リアムは短く答えた。
「お前を金に換えるためだ。」
その一言で、少女の身体がビクりと跳ねた。
「っ……!!」
「お前は顔がいい。 貴族家系の生まれで家の格式もある。 誘拐して売れば、奴隷市場でも闇組織でも、いくらでも値がつく。」
言葉は冷徹。 だが、事実を隠す意味はない。
フィーネの喉が震えたまま塞がる。
その沈黙の中で――
黒ローブたちが、ゆらり、ゆらりと姿勢を低くした。
「……マーク対象確認」
「……回収する」
「……抵抗は排除」
「……男(リアム)は片付ける」
感情のない声。
職務のためだけに動く、冷たい影。
《リアム様、これは確定です。
“隣国による誘拐”のパターンです。》
(ああ。国家間の案件だ。)
《フィーネちゃん、完全に“外交カード”にされるところでした。》
(そうだろうな。)
フィーネは涙をこぼした。
「そ……そんな……私……
ど、どうして……こんな……」
リアムは一歩前へ出る。
影のように静かに。
だが圧だけで、空気が一気に重くなる。
黒ローブたちが反射的に一歩引いた。
(本能で怯んだな。
隠密魔導師でも、“殺し合いの場数”が足りない。)
「答えは簡単だ。」
リアムは続けた。
「“お前を守る存在がいない”と思われていたからだ。」
フィーネは小さく息を呑んだ。
「……リアム君……」
(この発言は……え、
リアム様、ちょっと……優しい……?)
《リアム様、ツンの中にデレが入ってますよ!?》
(無意識だ。)
黒ローブたちが魔力を展開しはじめた。
「……対象回収優先」
「……男排除開始」
「……行動パターン不明、要注意」
冷たい声が森を走る。
リアムは瞳を半分だけ細めて――
「死にたくなければ、そこで寝ていろ。」
淡々と告げた。
その瞬間――
黒ローブの4人は、同時に震えた。
全員が、無意識に魔力障壁を展開しようとした。
(あ……これは……)
《リアム様の“戦闘圧”が完全に解放されましたね。
本気じゃなくとも、殺意の欠片だけで人が固まるレベルです。》
(脅しだ。)
「抵抗するなら……終わりだ。」
リアムが一言、そう呟いただけで。
空間が――沈んだ。
「な……っ……!?
から、体が……動か……ん……!」
黒ローブたちの膝が折れる。
魔力の制御が乱れ、
呼吸が浅くなり、
指一本動かない。
“圧殺する威圧”――それだけで戦闘終了だった。
黒ローブの4名が膝をつき、
ストーカーの少年が興奮と恐怖で震えているその中央で――
リアムはただ、指先で空を軽く払った。
《リュミナ、全員のデータを出せ。詳細も。》
《了解しました――対象6名、解析開始。
※魔力残滓・呼吸リズム・筋肉反応・魔導素子の揺らぎより身元照合……成功。》
リュミナの声が淡々と響く。
まず、黒ローブの4名。
《対象1~4:
隣国“ベルゼル連邦”・
階級:下位2名、中位2名。
主な職種:潜伏・誘拐・暗殺・情報抜き取り。
学院周辺にて“対象者の行動パターン”を3週間追跡。》
(3週間……しつこいな。)
《任務目的:
対象“フィーネ・レストリア”の捕獲および国外搬送。
殺害意図なし。
抵抗の場合、軽度の戦闘も許可済み。》
(やっぱりか。)
フィーネはその解析結果を聞いて、
掴んでいるリアムの袖をぎゅっと握りしめた。
「ら、拉致……される予定……だった……の……?」
「そうなる。」
少女の呼吸が止まり、肩が震える。
リアムは表情を変えずに続ける。
「だが、お前はもう狙われない。
ここで全部潰す。」
短い言葉に、フィーネの目が見開かれた。
《リアム様、言い方は冷たいですが……
“助ける”と明言したようなものですよ!?》
(そうかもしれん。)
リュミナはさらに解析を続ける。
《対象5:
王立学院1年 Aクラス
名:オルヴィス・クレイン
家系:クレイン準男爵家(三男)。
武力・魔力量:下の上。
魔力コントロール:粗雑。》
(典型的な“力だけ貴族”だな。)
《精神状態:
強度の恋愛妄想、依存、独占欲。
周囲の女子生徒へも複数のつきまとい歴。
“フィーネ・レストリア”への執着は特に異常。
相手を人格としてではなく、
“自分の理想像”として認識している状態。
危険度:中。》
(……なるほど、厄介だ。)
「フィーネ……っ……!」
オルヴィスと呼ばれた少年が、
震えながら近づこうとする。
「やっぱり……!
僕を待っていたんだよね……?
逃げたのは照れてただけ……だよね……?」
「ひっ……!」
フィーネがリアムの背に完全に隠れる。
リアムはほんの少しだけ視線を落とした。
(ただの恋慕ではない。
これは依存型の執着――
“矯正”が効かないタイプ。)
《リアム様……あれは危ないです。
自分の妄想だけを見て、フィーネ本人を見ていません。》
(分かっている。)
《リアム様がいなかったら、フィーネちゃんは本当に連れ去られていました……》
(だから始末する。)
リュミナが最終報告を落とす。
《総合判断:
対象4名――諜報員。即排除推奨。
対象1名――ストーカー。精神矯正不可。
※安全のため、フィーネの生活圏から永久排除推奨》
(そうするつもりだ。)
リアムはストーカーを見下ろした。
その視線は完全に無機質で――
「結論が出た。」
呟いた瞬間、森の空気が震えた。
黒ローブの4名――
隣国ベルゼル
彼らの判断は速い。
だからこそ、生き延びてきた。
だが――今回は悪手だった。
「邪魔だ。どけ、少年。」
「その女は回収対象――処理する。」
諜報員の1人が、淡々と宣告する。
「命令では、我々は――」
その瞬間だった。
リアムの姿が――
空気から“削除”された。
ズガンッ!!
大地が跳ねた。
黒ローブの1人が、何が起きたか理解する前に地面へ叩き伏せられる。
「が――っ!?」
すぐ横で、別の諜報員の背中が折れ曲がる音がした。
残り2名が反撃しようとするが――
空気が“裂けた”。
それは魔法ですらなかった。
「な――」
声を発するより速く、
彼らの視界が横倒しになった。
四人全員が、同時に地面へ沈んでいた。
ほんの一呼吸。
いや、それより短い。
リアムは杖どころか、魔法すら使っていない。
ただ立っている。
たったそれだけなのに、
まるで“4人が勝手に倒れた”かのような錯覚。
しかし倒れた黒ローブたちの骨の軋む音が、
それが現実だと示していた。
リアムは無表情に一言だけ吐き捨てる。
「俺に牙を向けるな。
処理した。」
処理――
その単語に、フィーネがびくりと震えた。
黒ローブの男たちは、
魔力核をピンポイントで叩きつけられ、
意識を刈り取られ、
魔力回路を“二週間は使えない状態”に完全封鎖されていた。
脈はある。
命はある。
だが、二度と立ち上がれると思わない方が良い。
戦闘不能。
再起不能。
任務続行など不可能。
《リアム様、今の……たぶん2秒くらい……ですよね?》
(遅い。)
《い、今のが“遅い”の基準なんですか!?》
(1秒以内に収めるべきだった。)
リアムの声は、相変わらずの平坦なものだったが、
その言葉の裏に“本気でそう思っている”温度があった。
フィーネは胸元を押さえ、震える声を出す。
「り……リアム君……今の……見え……なかった……」
「見せる必要はない。」
それが“事実”であり、
それが“優しさ”でもあった。
リアムの戦いを肉眼で捉えられる者など、
世界にほとんど存在しない。
黒ローブの4名は、
倒れたまま微動だにしない。
彼らはこれから、
“ベルゼル連邦に帰る”ことすら叶わない。
隠密魔導師としてのキャリアは、
ここで完全に終わった。
黒ローブの隠密魔導師4名が沈黙した後――
残されたのは、1人の少年。
オルヴィス・クレイン。
学院一年Aクラス。
貴族の三男。
王都では“優等生”と呼ばれていたはずの青年。
だが、今の彼は――
“ただの獣以下”。
「ひ……ひっ……」
「いや……いやぁぁぁぁ……!!」
金髪は乱れ、瞳は狂気と恐怖で濁り、
口元からは涎が垂れていた。
彼はフィーネ・レストリアを一瞥した。
「ふ、フィーネ……ぼ、僕の……天使……
天使……ぼくを待って……!」
「っ……!」
フィーネが震え、リアムの背に隠れる。
その瞬間――
オルヴィスは、全身を総動員して逃げ出した。
「うわあああああああああああ!!!
来るなあああああ!!
離せぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
森を転げるように走る。
魔法も使わず、本能だけで逃亡する。
だが。
パチンッ。
リアムが、無造作に指を鳴らした。
「――え?」
次の瞬間。
オルヴィスの視界がねじれ、
森の奥から、
また“リアムの目の前”へ引き戻されていた。
「ひ……え……? い、今……走って……!」
パチン。
もう一度。
オルヴィスが叫びながら森へ駆け込む。
「やだやだやだやだ!!
助けて、だれか! 誰かぁぁぁ!!」
パチン。
気づけば足元は同じ場所。
リアムと、怯えるフィーネの眼前。
「ひッ……!? な、なんで……!?
走ってるのに……戻る!?!?
なんで、なんで、なんでぇぇぇ!!」
パチン。
オルヴィスが逃げ始める“瞬間”に転移が発動する。
彼は走り始めてもいないのに、
気づけば前の景色に戻っていた。
「うわあああああ!!
やめろ!
やめろぉぉぉぉ!!」
彼の叫びは獣の悲鳴よりも醜く、
その姿は人間であることをやめていた。
リアムは一つ、深い溜め息をついた。
(……そろそろ鬱陶しい。)
そう思っただけで――
リアムの周囲の空気が“震えた”。
見えない衝撃波が大気をねじ曲げ、
圧力がオルヴィスの身体を縫い付ける。
「ひぐっ……!!?」
全身が“押し潰される”ような圧に包まれる。
呼吸ができない。
声も出ない。
足も動かない。
自分の意志が、自分の身体に届かない。
「ひ……ぎ……っ……!?」
オルヴィスは涙と鼻水を垂らしながら、
地面に固定されて震えた。
リアムはゆっくりと歩み寄る。
一歩ごとに、地面がわずかに沈む。
一歩ごとに、オルヴィスの心が砕けていく。
フィーネはリアムの背中にしがみつき、
震えながら小さく呟く。
「……リアム君……怖……」
だが、リアムの声は徹底して無感情だった。
「逃げるだけなら、まだ許した。」
その先の言葉に――
フィーネは小さく息を呑む。
「だが、お前は“フィーネを狙った”。」
「ひ……ひ……っ」
「なら、逃がす理由はない。」
《リアム様……はい、これは“処罰対象”です……間違いなく。》
(判断は揺るがない。)
リアムの眼は、氷よりも冷たかった。
“逃げても戻される”などという生易しい地獄ではなく、
ここから先は――
“二度と立ち直れない恐怖”を与えるフェーズ。
オルヴィスは、まだ知らなかった。
この世界で、
“本当に怒らせてはいけない存在”を。
威圧で地面に縫い止められたオルヴィスは、
呼吸さえ満足にできないまま、
それでも――
“フィーネを見た瞬間だけ”、瞳が爛々と輝いた。
その異様な光は、興奮と依存が混じった混沌。
「ひ……ひぃ……っ……フィ、フィーネ……」
唇を震わせながら、
まるで“恋人に祈るような声”で、
しかし恐ろしく歪んだ口調で叫ぶ。
「フィーネは……僕の……僕“だけ”の天使……なんだ……っ!!
ずっと見てた……っ
僕だけが……君を守れるんだ……!」
「ひっ……!」
フィーネはリアムの背中にしがみつく。
指先の震えは激しく、息も浅い。
普段は明るく天真爛漫な彼女が――
ここまで怯えるほど。
「や……やめて……っ……オルヴィス……
わ、わたし、そんな……」
必死に否定する声も、
オルヴィスの狂気には全く届かない。
「違うよ……!!」
「フィーネは僕を“選んでる”……!! ねぇ……だろ?
僕は君を……ずっと、ずっと見てきた……っ!」
「見てきた……って……!」
「ずっと……?」
フィーネの顔が青ざめる。
リアムの眉がわずかに動いた。
(……常習性。
かなり前から尾行を続けていたな。)
オルヴィスは涙と涎を垂らしながら、
足を動かせないまま必死にフィーネへ手を伸ばす。
「フィーネぇ……
お願い……僕を見て……!
僕以外の男を見るなんて……許さない……!」
「や……やめて……っ!」
フィーネの声は震え切っていた。
恐怖で足が固まり、リアムの影から出られない。
その背を支えるように、
リアムは無言で手を伸ばしてフィーネの肩に触れた。
その瞬間――
フィーネの震えが一度だけ止まった。
まるで安心を得たかのように。
「り、リアム君……」
リアムは答えない。
ただ――
オルヴィスを無機質な目で見つめる。
その眼は、どんな魔獣を見ても動じない、
完全な“捕食者”の目。
オルヴィスはその視線を受けた途端、
身体がビクンと跳ね上がり、喉を震わせた。
「ひ……ひぃっ……!?」
「ま、待って……リアム……リアムぅ……っ!
邪魔するな……フィーネは……僕の……!」
その叫びを聞いた瞬間――
フィーネの喉から、
小さな悲鳴が漏れた。
「っ……!」
リアムは確信した。
(……これは“ただの好意”ではない。)
(“所有欲”だ。しかも悪質な。)
オルヴィスは、
フィーネをまるで“物”のように扱っていた。
その事実が、
リアムの内部で感情を静かに燃やす。
《リアム様……これは……完全に“排除すべき脅威”です。》
(ああ。すでに判断は下している。)
リアムは歩みを進めた。
ただ、静かに。
一歩一歩。
だが、その一歩ごとに――
オルヴィスの理性が崩れていくのが分かった。
「や……やだ……
なんで……なんでこっち来るんだよ……
や……やめろ……やめてよぉぉ……!!」
オルヴィスの涙は、
もはや反省ではなく“恐怖で泣いているだけ”。
フィーネの背中の震えは、
明らかに恐怖の色が濃い。
リアムの声は、静かだった。
「……フィーネに触れるな。」
「ひっ……!?」
「フィーネを“物扱い”するな。」
「ま、待っ……ち、違……違う……
僕は……っ……!」
リアムは冷たい声で切り捨てた。
「お前の“愛情”は歪んでいる。
誰かが止めなきゃいけなかった。」
「ち、違うんだ……フィーネは……」
「僕の――」
「言うな。」
リアムの目が細くなる。
「その続きの言葉を、二度と口にするな。」
──空気が震えた。
森の風が止まり、
世界が息を呑む。
絶対的な「怒りの静寂」が落ちた。
リアムはゆっくりと歩き――
まるで“処刑台へ歩く処刑人”のような静けさで、
オルヴィスの目の前に立った。
オルヴィスは逃げようとしたが、
威圧で完全に身体を拘束されている。
「ひっ……ぁ……っ……!」
呼吸は上ずり、
瞳孔は開き、
全身がガタガタと震えている。
リアムは何の躊躇もなく腕を伸ばし――
その顔を、
容赦なく“鷲掴み”にした。
ガシィッ!!!
「ぎゃッ……!!?」
指が顔の肉を抉り、
頬骨に食い込み、
頭蓋がリアムの掌の中で“軋む”。
ミシ……ミシミシ……ッ……!
骨が悲鳴を漏らす音が森に響いた。
オルヴィスの瞳から理性が吹き飛び、
代わりに純粋な恐怖だけが残る。
「ひっ……ひぐっ……!
は……離して……っ……た、助け……!」
リアムは俯き、
オルヴィスの顔を見下ろして静かに言った。
「お前は――今、
自分が何をしたか理解しているか?」
「わ、わかん……わかんない……!
離して……痛い……痛いよおおお……!」
「理解していないのなら、理解させる。」
リアムは指先に力を込めた。
ミシィ……ッ!!
「ぎゃあああああああああああッ!!?」
頭蓋がほんの“数ミリ”沈み込む。
それだけで、
オルヴィスの悲鳴は肺の奥が裂けるほどだった。
「次、フィーネに何か言ったら――」
リアムは、笑った。
冷淡で、微笑ましい、
だが底知れぬ殺意を孕んだ笑みで。
「――頭蓋骨を砕くぞ?」
その声は穏やかだった。
しかし、その内容は死刑宣告と同義。
「ひっ……ひぃぃ……ぃ……っ!!
や……やめ……っ……!!
助け……助けて……!!」
オルヴィスの下半身は力が抜け、
地面に落ちて小刻みに震えている。
リアムはまだ手を離さない。
「聞こえなかったか?」
「ひ……ひ……!?」
「フィーネに向けて、
“僕の天使”“僕だけの”などと――」
リアムの手が、僅かに締まる。
ミシィッ……!!
「ぎぃぃぃぃっ!!?」
「二度と、言うな。」
リアムの声は低く、深く、冷たかった。
「フィーネを嗜虐に巻き込み、
恐怖で支配しようとした。
気味の悪い所有欲を押しつけた。
理解できるまで、
痛みで教えてやろうか?」
「い、いや……やだ……!!
ご、ごめ……ごめんなさい……!!」
涙、涎、鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら懇願する。
「……謝罪ができるなら、
最初からやるな。」
リアムはつまらなそうに吐き捨て、手を放した。
オルヴィスは解放された瞬間、
崩れ落ちて地面に倒れ込み、
むせび泣きながら蹲った。
フィーネはリアムの背後で震えていた。
その震えは、恐怖ではなく――
“安心”の震えに変わっていく。
リアムはゆっくりとオルヴィスの前に膝をついた。
逃げ出そうとするオルヴィスの顎を無造作につかみ上げ、
抵抗を無視し、その額へ――
一本の指を当てた。
ピタ……
「な、なに……っ……やめ……やめて……っ……!」
「プレゼントだ。」
リアムの声は低く、静かで――
それゆえに、底なしに恐ろしい。
次の瞬間、
魔力が、音もなく流れ込む。
――ズン……
大気が震えたような感覚。
オルヴィスの瞳から焦点が消え、身体がピクリと硬直する。
リアムは淡々と告げた。
「お前がフィーネに向けた歪んだ執着。
それを――逆に、味わわせてやる。」
「ひ……ひぃ……?」
「安心しろ。
これは“痛みも本物”だ。」
そして――
幻覚、展開。
オルヴィスの視界が、一瞬で“色”を失った。
代わりに現れたのは――
冷たい銀色の世界。
その中央に立つのは、
フィーネ・レストリアに“酷似した少女”。
だが――
その目は、オルヴィスを“ゴミ”と同じ目で見下ろしていた。
『……気持ち悪いわね。』
「え……?」
『どうして……あなたが……生きてるの?』
「ま、待って……違っ……!」
少女はナイフを構え――
ゆっくりと歩み寄る。
『存在そのものが、吐き気がするの。
早く死んでくれない?』
「ひっ……ひぃ……!」
飛び込んできた刃が――
オルヴィスの“胸”に突き刺さった。
ズブッ!!!
「ぎゃあああああああああああ!!!?」
痛い。
痛い。
痛い。
なぜか本当に痛い。
幻覚のはずなのに、痛覚だけは完全に本物。
少女はさらに冷たい声で、
『愛してる……? 冗談でしょ。
あなたみたいな“虫”に好意を向けるわけが――』
次の刃が、肩へ。
ズブブッ!!
「ぎゃっ、あああ!! や、やめて!!」
『近寄らないで。
視界に入るだけで、気分が悪いの。』
そして次の瞬間、
十数本の刃が同時に降り注いだ。
ザクッ!!ザクッ!!ザクッ!!ザクッ!!!
「やめてええええええええええ!!!
い、嫌だあああああ!!!」
『死ねば?』
フィーネの声。
しかし内容は、毒そのもの。
刺される。
刺される。
刺される。
全身に、終わらない痛み。
オルヴィスは喉を引き裂くような悲鳴を上げ続けた。
「ひ……あ……っ……
も、もう……やだ……いやだ……っ……!!」
視界が白みはじめた。
痛みを何重にも上書きされた脳は、
もはや正常には耐えられなかった。
そして――
オルヴィスの金髪が、
瞬く間に“白”へと変色していく。
瞳は虚ろに濁り、
生気は完全に消えた。
地面に崩れ落ち、
ピクピクと痙攣するだけになった彼は――
もはや正常な言語を発せない。
「ぁ……あ……
ひ……ひ……」
リアムは無感情に、そんな姿を見下ろして言った。
「……これで、二度とフィーネに近づけない。」
事実だった。
心の“骨”まで折れたオルヴィスは、もう人を愛せない。
いや、誰かに執着する“意志そのもの”が消えた。
オルヴィスが地に崩れ落ち、
白く変色した髪が風に揺れる。
もう、彼がフィーネに近づくことはないだろう。
その静寂の中で――
「こ、これで……こいつは二度とお前に近寄らない。」
リアムが淡々と言った瞬間。
フィーネの膝が、ふっと力を失った。
「――っ……!」
次の瞬間。
彼女はリアムの背中に、ぎゅっと抱きついた。
その力は弱い。
けれど、必死で、縋るようで――
リアムは振り返らずとも、彼女の涙が胸元に触れたのを感じた。
「……っ……ひっ……!」
声が震え、喉が詰まって言葉がうまく出ない。
服を掴む指は冷たく、
けれどその震えは、心の底からの恐怖をそのまま伝えていた。
リアムは目を閉じる。
(……まあ、泣くのは当然だ。)
フィーネはしばらく声を絞り出せず、
ただリアムの背中に顔を埋めて泣き続けた。
やがて少し呼吸が整ったころ。
「こ、怖かった……
ずっと……ずっと怖かったの……!」
震える声。
どれほど耐えてきたのかが分かるほど、弱い。
「誰にも言えなくて……
誰が追ってるのかも分からなくて……
でも……リアム君だけは……」
リアムは振り返らない。
ただ、彼女の言葉をそのまま受け止めた。
フィーネの指はリアムの服を強く握って離さない。
「……た、助けてくれて……
ほんとうに……ありがとう……
リアム君……」
すすり泣きの声が、リアムの背に染み込む。
風の音も、森のざわめきも、
二人の周囲だけが別世界のように静かだった。
《リアム様……優しくしてあげましょう。
今のフィーネさん、心が限界です……》 (分かっている。)
リアムは肩越しに、静かに言った。
「……落ち着いたら、帰るぞ。」
それは冷たくも優しい、リアムなりの言葉。
フィーネは、背中に額を押し当てたまま小さく頷いた。
「……うん……行きたい……
リアム君と……一緒に……」
少女の涙で少し濡れた服の感触が残り、
リアムはそっと彼女の腕に手を添えて言う。
「立てるか。」
「……うん……大丈夫……だから……
もう少しだけ……このままで……」
リアムは返事をしなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、フィーネの震えが収まるまで――
あの静かな森で、彼女が泣き疲れるのを待った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます