第1話 星降る光、新たな生

 眩い光と、どこか懐かしい優しい声。その声に包まれた瞬間、直樹は、自分の存在が最期の虚無から解き放たれるのを感じた。あの誰もいない無機質な部屋で、息を引き取ったときの絶望とは対極にある、ぬくもりのような何かだった。


 全身を覆うのは、鉛のような重さと湿り気だった。視界はぼやけて、世界は淡い光と色の塊でしかない。

 

(……ここは……どこだ?)


 確かに、自分はあのソファの上で静かに死んだはずだ。心臓を冷たい手で掴まれたような痛みを最後に、全てが終わった。終わったはずなのに、意識はここにある。

 

(夢か? それとも……)


 答えのない問いが混乱を呼び、朧げな意識を波立たせた。喉の奥から声を出そうとするが、出てくるのは「あ……う……」という情けない赤子の泣き声のような音だけだった。舌が回らない。口も動かない。自分の体が、自分のものではないかのようだった。


 どこまでも途方もない違和感に、意識がふっと遠のく。再び落ちた闇は、さっきよりも少しだけ柔らかく暖かかった。


 再び目覚めたとき、視界は少しだけクリアになっていた。天井が見える。だが、それは日本の病室の白い天井でも、自宅の黄ばんだ壁でもなかった。木の梁がむき出しの、素朴で温かみのある天井だった。


 自分は柔らかな布に包まれていて、心地よい揺れを感じる。体が小さく、やけに重たくもある。恐る恐る、自分の手を視界に入れてみた。指は……驚くほど短く、小さく、柔らかい。ふっくらとした指先は、透けるようなピンク色で、爪も豆粒のように小さい。


(……嘘だろ……赤ん坊になってるのか、俺……?)


 どくん、と心臓が跳ねる。何がどうなっているのか理解が追いつかない。そんな中、内臓を締め付けられるような強烈な空腹感が襲いかかってきた。耐えきれず、喉の奥から声が漏れた。泣き声だ。自分でも情けなくなるほどのか細い泣き声が、体の奥から勝手にあふれ出た。


 すぐに気配が近づき、誰かの温かい腕が自分を抱き上げた。ふわりとした優しい感触と共に、唇に柔らかな何かが押し当てられる。自然に、反射で吸い付くと、甘く温かい液体が口の中へ流れ込んできた。

 

(……これ……母乳か……?)

 

 理性が追いつくより先に、体が夢中で飲み干していく。生き延びるための本能に、何も抗えない。飲むほどに、体の奥に心地よい熱が満ちていき、頭はまた幸福なまどろみに引きずり込まれた。


 次に目覚めたとき、顔のすぐ上に、2つの人影が見えた。ぼんやりとした輪郭は、やがて男女の優しい笑顔に変わる。自分の小さな手と比べると、彼らの顔は巨人のように大きく見えた。


 言葉を交わしているが、その言葉は何語なのかまったく分からない。だが、声の調子や表情、温かな眼差しだけで、どれほどの愛情を注がれているかが分かる。泣きたくなるほどに、心が震えた。


(こんな……こんな温かさ……忘れてたな……)


 小さな体が感情に引きずられ、また泣き声をあげた。すると父親らしき大きな手が自分を抱き上げ、母親らしき女性が笑顔でそっと頬を撫でた。


「クゥリエ……ノヴァ……」


 女が優しく言い、男が深く頷く。その声の響きは、言葉の意味は分からないのに、胸の奥に真っ直ぐ届いてくる。男が突然叫ぶように声を張り上げた。


「クゥリエ、ノォヴァァァ! イストールアリスト、ノォヴァァァァアア!!」


 何度も繰り返される「ノヴァ」という言葉。その音の並びが、自分を呼んでいることだけは、幼い脳でも理解できた。


(……ノヴァ……これが、俺の新しい名前……?)


 喜びと戸惑いが交錯する。確かに自分は死んだはずだ。それが今は、異国の赤ん坊として新たに生を受けている。

(……まるで後輩が読んでた異世界転生ラノベだな……馬鹿みたいだ……でも……)


 信じられない。だが、あの地獄のような孤独から抜け出せたのは確かだ。体を包む愛情の温度が、その証拠だった。


 それから数日、いや、感覚的には2週間ほどが経った。時間の感覚は曖昧だが、両親と過ごす日々の中で、少しずつ自分の置かれた状況が飲み込めてきた。


 両親は自分に「ノヴァ」と名付け、優しく抱きしめてくれる。母親は20代前半ほどだろうか、金髪で白い肌の美しい女性だ。父親は赤毛で屈強な体つきをしており、瞳には揺るぎない誠実さと誇りが宿っている。


(顔立ち……多分、俺もこの二人の遺伝子を引き継ぐなら悪くない顔になるはずだな……これは、むしろイケメン!勝ち組確定か?)


 思わずくだらないことを考えて、心の中で苦笑した。それでも、彼らが向ける愛情の眼差しは、本当に眩しかった。


 前世のことを思い出すと、心の奥に黒いしこりのようなものが残っていた。誰かを信じ、裏切られた痛み。最後の孤独。だが、それを覆い隠すように、母親の柔らかな手のひらや父親の大きな指が頬を撫でるたびに、少しずつ凍てついた心が溶けていった。


 だが赤ん坊の体は、想像以上に不自由だった。視界はぼやけ、首もろくに動かない。お腹がすけば泣くしかなく、排泄も自分の意思ではどうにもできない。プライドは微塵に砕かれたが、それでも不思議と惨めではなかった。


(……俺は今、誰かに必要とされている……)


 おむつを替える手は温かく、母乳をくれる胸の鼓動は安心をくれた。外から聞こえる鳥の声、木造家屋の香り、差し込む朝日。前世では気づくことさえできなかった小さな幸せに、心が満たされていく。


 赤ん坊の姿のまま、ノヴァは意識を研ぎ澄ませていた。この世界の言葉は日本語とはまるで違った。だが、両親が繰り返す単語や感情の響きを、赤ん坊の脳は貪欲に吸収していった。


(……なるほど……この単語は『ミルク』、これは『いい子』か……)


 生前、言語学の本をかじった程度だったが、そのわずかな知識が役に立つとは思わなかった。赤ん坊の柔らかい脳は、スポンジのように吸収する。頭の片隅で、前世の自分が苦笑しているような気がした。


(……信じてみよう。この人たちを、もう一度……)


 小さな体で、もう一度人生をやり直す。あの絶望の日々は、もう戻ってこない。この木漏れ日のような新しい家族と、これからを生きていく。


 ノヴァ――かつて山本直樹だった少年は、両親の愛情に包まれながら、確かに新しい人生を踏み出そうとしていた。

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