第13話 選択

 螺旋の終わりに近づくにつれて、息の音が金属に触れて冷たくなっていくのが分かった。階段の壁は白く塗られているのに、どこか地下の匂いがした。油と粉じんと、古い紙。最後の踊り場に出る直前、段の高さがわずかに不揃いになる。足首が緊張する。その不揃いが、ここが手作業で増築され、貼り足されてきた塔だということを、体に教える。


 踊り場は二つに分かれていた。右の壁に釘で打ちつけられた古い板に、天国。左の板には、地獄。字体は学校の壁新聞で見たことのあるような丸いゴシック。剛が小さく吐き捨てる。「やり口が古いんだよ」


 その先、最上層のホールに立つ甲斐斗は、古びたやり口をまっすぐ使っていた。両手を広げ、白い光の下で、迎える顔を作る。「来たか。これで揃った。卒業の儀式だ」


 最上層は驚くほど簡素だった。白いテーブルが一台、窓のない壁に平行に置かれ、上にはふたつの木箱。ラベルは【規範】と【慈悲】。ラベルの紙は角が少しめくれ、貼り直した痕が重なっている。天井の明かりはやわらかく、影が薄い。影が薄い部屋ほど、音は遠くなる。遠くなった音は、考えを長生きさせる。


 「ここまでの統計から考えれば、正解は【規範】だ」


 甲斐斗の声には、議論の勝者の余裕があった。「集団維持のための行動原理であり、再教育の柱だ。俺はこれを開ける。お前たちは【慈悲】を選べ。どちらかが“罰”でも、もう片方が“昇格”なら、少なくとも誰かが上へ行ける」


 理屈は隙がない。隙がない理屈は、息をする隙も奪う。レンは白いテーブルの天板に目を落とした。薄い傷が二本、並んで刻まれている。抉れた跡。どの期の受講生も、同じ場所で逡巡し、どちらかを強く掴み、どちらかを震える指で撫でたのだろう。震えの数が傷に残る。残った震えを、次の人間が触る。触った指に、古い震えが移る。


 「待て。俺は別の可能性に賭ける」


 レンは観察者ノートを開き、裏階層で見た事例の見出しを淡々と口に出した。自分に聞かせるように、短く区切って。「“模範授業”は、常に“ひとりを犠牲にして先に進む”構図で成立していた。教育の名のもとに、残された者の罪悪感を薄め、次の階層で事故率を下げるよう設計されていた。つまり、ここの二択も、その再現だ。ラベルが何であれ、結果は“誰かだけが正しい場所に行き、誰かは置いていかれる”に収束する」


 甲斐斗は眉をわずかにひそめ、すぐ戻した。「だからこそ、合理的な選び方が必要だ。俺が規範を選び、俺が上に立つ。お前たちは慈悲を選べ。自分を赦せる」


 剛が低く唸り、一歩前へ出る。「お前の“上”って、誰の“上”だ」


 その問いで、甲斐斗の目に初めて小さな揺らぎが走った。揺らぎは意味を求める。意味を与えないと、揺らぎはすぐ理屈に飲まれる。レンは胸から封筒を出し、中の紙をテーブルに置いた。薄い封筒。空調の風にふわりと揺れ、甲斐斗の前で止まる。「見ろ。蒼衣の“指導計画”だ。受講者ごとの“役割”が書かれてる。“合理的リーダー役”“反逆者役”“調停者役”“犠牲者役”。お前は“合理的リーダー役”として最上層に誘導される。お前が規範を開いても、【正解】がたまたまお前の手元に来るよう、階層の構成が調整されてるかもしれない。……でも、その“正解”は、お前自身のものじゃない」


 しばしの沈黙。天井の蛍光灯が、薄く鳴る。甲斐斗は紙に視線を落とし、そして笑った。笑いに音がない。「役割に従うことの何が悪い? 社会はいつだって役を配る。俺は割り当てられた役で最大限に機能する。そうやって上がり、権限を取る。それが唯一の現実的な逆襲だ」


 「現実的、という言葉に、誰の現実を足している?」


 レンは箱に触れなかった。テーブルの脚に手を添え、その脚の取り付け位置と床板の目地を指で探る。わずかな段差。観覧室から見た天井のジョイント位置を思い出す。この高さ、この位置なら、床下に通風のための配管スペースがあるはずだ。消防法は階を選ばない。ルールはどの高さにも残る。残ったルールが、今日だけ味方になることがある。


 剛の目を見た。目配せに答えるように、剛はテーブルの反対側へ回り込む。ふたりで力を合わせ、白いテーブルを床の目地が交差する部分までずらす。テーブルの足が金属を擦り、薄い悲鳴を上げた。その音で、甲斐斗は警戒して一歩近づく。


 レンはジャケットの内側、観察者ノートの裏に差していた細いツールナイフを抜いた。グリップは汗を吸って温かい。床板の角に刃を差し込み、力をかける。最初はびくともしない。角度を変え、呼吸を浅くして押す。床の下で何かが鳴り、固定具が一つ、意地を失う。わずかな隙間が生まれ、そこに指を差し込む。木と木のあいだの冷気が爪の縁を冷やす。剛がその隙間に指を合わせ、「せーの」で引き上げる。床板が、重たい本のように開いた。


 通風口の金網。四角い格子の向こうに、狭いダクトが走っている。金網の縁にはビス。ビスの頭は柔らかく、古い。剛は靴の踵で網の角を蹴り、レンがナイフの腹でテコを作る。金属が折れ、枠が浮いた。空気が変わる。長く止められていた息が、狭い方へ流れ込む。


 「何をしている!」


 甲斐斗の声が、薄い板の上で増幅される。近いのに、遠い。「逃げ道は死だ。上で権限を取れば、仕組みを変えられる。お前らのやり方は、ただの破壊だ」


 レンは答える。「上に立った者が、上を維持する。俺はさっき、観覧室で“忘れられた喉飴”を見た。ここは人が入れ替わるだけで、構造は残る。変わるのは名前のところだけだ」


 「だからなおさら、名前を上に刻む意味がある」


 甲斐斗は【規範】の箱に手を添えた。箱の鍵穴は磨かれ、誰かの指の癖を覚えている。彼の手は、鍵のない鍵を回すように、力の向きを知っている。剛は先にダクトへ身体を滑り込み、肩をすぼめ、肘で前を押しながら進む。金属の肌が衣服を浅く削り、布が小さく鳴る。レンは最後に蒼衣の方向——塔の内側のどこか見えない透明——を見やり、小さく手を挙げた。「行く」


 「行けよ。上で待っている」


 甲斐斗の声が、皮肉ではなく、本気の響きを帯びた。彼は迷いなく【規範】の箱に鍵を差し込む。鍵はどこから出したのか。箱の側面にマグネットで仕込まれていた予備鍵。彼はそれに手を伸ばしていたのだ。開蓋の音。同時に、足元でかすかな爆ぜる音がした。天井の照明が一瞬揺れ、遅れて警報が鳴り始める。箱の中身は、金色の小さな徽章。“卒業者証”。甲斐斗はそれを掴み、笑う。「やはり正しかった」


 その笑いの下で、床の目地が次々に割れ始めた。白い部屋に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、薄い粉が空中に舞う。二択の舞台が、崩れはじめた。ラベルの下にあった板の素顔が、粉の向こうに現れる。素顔はいつも、灰色だ。


 「レン!」


 ダクトの奥から剛の声。鉄の腹が震えて、その震えが手のひらに伝わる。「早く!」


 レンは観察者ノートを、胸とジャケットの間に差し込み直した。封筒は二つ。記録室の覚書と、蒼衣の指導計画。角が肋骨に当たって痛い。痛みに名前。——角の痛み。持続短。危険小。記録。レンはダクトの縁にうつ伏せになり、腕を伸ばして身体を滑らせた。背中が通気の角に当たり、薄い線を描く。線は熱く、すぐ冷える。ダクトの内部は驚くほど乾いていた。乾いた空気は、恐怖の水分を吸う。吸われた恐怖は、粉になって喉に貼りつく。


 「甲斐斗、来るか?」


 剛が前から問う。レンは振り返らずに答えた。「来ない。彼は“儀式”を完遂する。卒業者証は、彼の現実の鍵だ」


 「鍵は、扉が言うほど数がない」


 剛の声が腹の中で転がる。「扉はいつも、鍵の数を多く言う。安心するから」


 背後で、ホールの音が変わった。警報の音に混じって、細かい破片が落ちる雨の音。甲斐斗の靴底が床の割れをまたぐ音。端末のブザー。スピーカーが「安全な場所へ移動してください」と何度も言う。安全、という言葉には、誰の安全が入っているのかの注釈がない。注釈のない安全ほど、危ない。


 ダクトは膝で曲がり、曲がりのたびに肘が角に当たる。角はゆるい丸みを持っている。丸い刃は深く入る。自分で言った例えが、皮膚の下の痛みになる。前方が少しだけ広がり、格子が見えた。排気のための小さな開口。外には別の廊下。非常灯。緑の人のピクトグラム。矢印が、左を指す。矢印はいつも、多数の方向を指す。少数は、矢印の背に回る。


 「外す」


 剛が格子に肩を当て、ゆっくり体重をかけた。ビスの一本が悲鳴をあげ、もう一本が観念する。格子が外れ、狭い開口から剛が抜ける。レンも後に続き、肘を突っ張って体を引き出す。床に肩が触れ、音が小さく跳ねる。起き上がると、空気が一段軽くなった気がした。軽さは安心ではない。軽い空気ほど、足元は滑る。


 背後のダクトの暗がりで、薄い風がひとつ通った。風の高さが、蒼衣の声の高さに似ていた。——選ばせない仕組みに“おかしい”と言う力。レンは観察者ノートを開き、短く書く。——最上層ホール:二択。規範/慈悲。二択外の隙間=通風。消防法の残骸。第三の道。/印:設計の穴。


 「こっちだ」


 剛が走る。非常灯の矢印と逆へ。狭いサービス廊下は、壁の音が近い。壁の向こうに大きな空間があり、そこから空気の重さが伝わってくる。薄いガラスの仕切りの向こうに、誰かが通話している声。上の階で誰かが笑っている録音。録音の笑いは、実物の笑いより長持ちする。長持ちする笑いは、冷蔵庫の中で匂いを吸って別のものになる。


 「レン!」


 前方から早智の声。角を曲がると、細い踊り場に彼女がいた。頬はまだ青いが、目は強い。千景がそこに寄りかかって座っている。額に冷感シート。浅い呼吸が喉の前を上下する。早智は短く言う。「ここが一番空気がある。上はもう、音がひどい」


 「蒼衣は」


 「……行かない。行かせない」


 早智の声は、涙の場所を知っているのに、そこへ行かない強さを持っていた。「あの子が言った。“置いていく”って言葉の意味を、あなたが持って行けばいいって」


 レンは頷き、封筒の重みを確かめた。重みは生きている。重さは温度に似る。似ているものを間違えないよう、ノートにもう一行足す。——置いていく=託す。託す=重さを持って運ぶ。運ぶ=歩き方が変わる。


 床が揺れた。遠くで、白い部屋が少しずつ沈む音。二択の舞台は、選ばれなかった方から崩れるのではなく、選ばれた瞬間に崩れはじめる。ラベルは扉ではない。扉の絵だ。絵を信じて踏み出す足を、床が待つ。待っているのは、いつも床だ。床だけが、嘘をつかない。


 「甲斐斗は?」


 剛が短く問う。レンは耳を澄ました。警報に混ざって、端末の電子音が短く鳴る。認証。承認。拒否。承認。通行許可。階段の口のロック。どれも、言葉の影。影の長さで、時刻が変わる。


 「上に入った」


 レンは言った。「入ったけど、上は上で、別の二択がある。上へ行くほど、二択の数が増える。選び続けた先で、人は選ばされる」


 「選ばされるのに、選んだ顔をする」


 早智が息をつき、千景の髪を撫でた。「顔は面。面は割れる。割れたとき、そこから何が出る?」


 「出るのは、いつも声だ」


 レンは観察者ノートを閉じ、胸に強く押し当てた。紙の角が骨に当たる音が、内側だけで響く。「声は重さを持たない。だから、紙で重さを作る」


 上方で爆ぜる音。スプリンクラーの管が割れる。粉塵が湿り、冷たい霧が短く走る。最上層の空気が重くなり、下の階へ落ちてくる。落ちてくる重さは、選ばなかったものの重さだ。選ばれなかったものは、いつも下に落ちる。落ちてきたものを避けながら、レンたちは狭い通路を抜け、各階の背骨をつなぐサービス階段へ出た。


 階段の踊り場の壁に、小さな非常口の案内図が貼られている。緑の矢印が三つの経路を示し、その下に“関係者以外通行不可”の判が朱で押されている。朱の色は新しい。新しい朱は、古い粉の上でよく目立つ。目立つものは、安心の代わりにも、罠の代わりにもなる。


 「下へ」


 剛が言い、早智が頷く。千景の肩に軽く手を回し、ゆっくり立たせる。足元は震えているのに、目は落ち着いている。落ち着いた目の前で、壁の粉が軽く舞う。粉は白い。白いものほど、灰を隠す。


 踊り場を一つ降りるたび、音の層が変わる。上からの崩れの音。横のシャッターの擦れる音。下の機械室の唸り。音の層の隙間に、人の声。泣き声ではない。誰かの息が上がる音。息は、命の最小単位の音だ。息の数を、数える。数えながら降りる。数は嘘をつかないふりをする。ふりが上手い数ほど、危ない。


 途中で、壁に埋め込まれた通話端末が突然鳴った。モニターは黒いまま、音だけが出る。乾いた声。「卒業の儀式は完了しました。適応者は——」


 「適応って、誰に」


 早智が通話口の穴を指で塞いだ。穴は小さく、すぐに指の温度を奪う。「穴をふさぐと、声はすぐ止まる」


 「指でふさげる声は、強くない」


 レンは笑わずに言い、歩を速めた。速めた歩幅に合わせて、胸の封筒が小さく鳴る。薄い紙の鳴る音は、拍手にならない。拍手にしない音を持って、螺旋を降りる。最上層の光は、もう背中にない。背中にあるのは、粉と汗と、紙の角の硬さだけだ。


 一度だけ、上を振り返る。細く立ち上がる白い粉塵の柱。その向こうで、誰かが小さく動く影。甲斐斗だろうか。卒業者証の金色は、粉の白の中で、長くは光らない。光らない金は、すぐ冷える。冷えた金は重い。重い金を持った手が、次の扉の前で、また二択を求められる。選び続ける手。選ばされ続ける手。


 レンは視線を戻し、前を向いた。前にあるのは、相変わらず階段だ。階段は、いつでも正直だ。段差は一定で、踏めば下へ、あるいは上へ行く。段差の数は、紙に書ける。紙に書けることは、まだ人間が扱える。


 「レン」


 剛が呼んだ。「お前のノート、何て書いてある」


 「四行」


 レンは答え、手触りでページをなぞった。見たものだけを書け。測れるものは数で示せ。推測には印を。痛みには名前を。四行の下に、小さく書き足す。——二択の外に通風。通風は生の道。誰がもたらすでもなく、法律が残した隙間。/印:法の影。/備考:影を光のふりに使う者を、記録する。


 「難しいな」


 剛が笑わずに笑い、千景が目を閉じて小さく頷いた。彼女の頬に、遅れて涙の光がにじむ。にじむ場所は、ようやく見つかったらしい。早智は何も言わない。言わないことで、言葉を守る。


 階段はまだ続く。続いているあいだ、レンは心の中で一度だけ名を呼んだ。蒼衣。名前は軽い。呼ぶと、少しだけ重くなる。重さが、歩き方をまた変える。角の痛みが肋骨に戻り、紙が胸の中で、別の紙に触れた。二つの紙が擦れ、薄い音が鳴る。その音は、上の拍手より小さいが、長く残る種類の音だった。


 最上層の二択は、背後で崩れていく。崩れる音は、しばらく続くだろう。続いている間に、ここで生きて下りる準備をする。生きて下りることは、ここでは反逆になる。反逆は、紙に書ける。書ける反逆は、次の誰かのための隙間になる。隙間を隙間のまま、記録する。それが今のところ、ぼくの唯一の真理への手つきだった。

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