第11話 記録室

 鉄骨の鳴き声が、裏階層の天井のどこかで低く伸びた。水が落ちる。一定の間隔で、遠くと近くのあいだを迷いながら、点の音を連れてくる。サービスラダーの最後の段に足をかけたとき、靴底のゴムが鉄にわずかに吸い付いた。手のひらから掌紋が剥がれていくような冷たさ。レンは肘で押し上がり、低い天井の裏へ体を滑り込ませた。


 幅の広い通路が、影のなかに横たわっている。天井からは配線ダクトが蛇の背骨みたいに走り、ところどころで断熱材が割れて、灰色の繊維が毛羽立って露出していた。繊維の間には、古い塗料の白が雪のように貼りつき、触れれば粉になって落ちそうだ。壁にひしゃげたプレートが残っている。関係者以外立入禁止。学校の裏口で見たことのある書体だ。だが、その先に広がっているものは、学校というより、未完成の博物館だった。


 長机が何本も並び、上にはアルミのハードケースが整然と置かれている。角の補強はくすみ、留め具は指の脂で鈍い光を帯びていた。ラベルは手書き。受講期、氏名、年齢、出身県、学校区分。ペン先の癖がそのまま残る黒の線は、匿名を嫌う。レンはひとつ、最も古い年付けのケースの前で立ち止まり、躊躇してから封を切った。金属が小さく鳴り、ふたが開く。内側には乾いた紙の匂い、そしてインクが薄く酸化した甘い匂い。


 最初の紙束の表紙には、授業活用用・事例集と印字されていた。見覚えのある形式だ。章立て、太字、図表、討論用問い。ケースの表には別の紙が透明ポケットに差し込まれている。貸出・返却の記録。教育委員会に宛てた貸出票だ。黒いボールペンの筆跡で、校長名、教頭名、担当指導主事の名字。誰も匿名ではない。誰も隠れていない。ここでだけ、顔のある世界が堂々と紙に残っている。


 捲る。紙の角が指先に噛み、薄い痛みが遅れてくる。過去の受講生が行った選択と、その直後と数日後の集団反応が、図表とコメント付きで整然と並んでいた。棒グラフが淡い灰で、折れ線が黒で上に重なる。説明文は、容赦なく滑らかだ。


 第5期:「救済の扉」選択時、多数者は“年少者の保護”を理由に追放を決議。投票後、罪悪感の希釈によって不安行動が減じ、次階層の事故率が有意に低下。——レンは目を離したくなるのを堪え、行間を追った。罪悪感の希釈。薄め液で洗うみたいに、単語が冷たい理屈の表面を清潔にしていく。彼の背中の筋肉がひとりでに硬くなる。清潔になっていく数字ほど、危険だ。


 別のケースを引き寄せ、底に指を差し込む。薄いスライドの印刷見本が重なっていた。タイトルは若年層の倫理的意思決定の可視化。副題に、再現性の確保と教育現場への応用、とある。写真付きだ。大きな会議室、壇上の司会者、うなずく教員たち。笑顔、拍手、名札。レンの胃がきしんだ。自分たちの判断、逡巡、涙が、社会教育の場で“模範例”として並べられてきたという事実。模範例には温度がない。温度がないから、長持ちする。


 通路の終わりに、狭い観覧室があった。壁一面が古いガラス窓で、塗装の剥げた手すりに白い粉の跡が残っている。ガラスの向こうには、さっきまでいた円形の天秤の部屋が見下ろせた。天井の照明が円弧を描いて滑り、床の黒い目盛りが静脈のように並ぶ。折りたたみ椅子が数脚、観客の不在を知らないまま整列している。座面の上には誰かの忘れたメモと、包み紙がしわになったままの喉飴。メモには走り書き。誠実の自己申告→集団の緊張緩和(一時)/生贄構造の固定化(二次)。丸で囲った二次の字が濃く、紙にわずかな穴を開けていた。ここで誰かが、人間を観る仕事をしていた。観る側の心拍は、ガラスに残らない。


 観覧室の扉は内側からしか開かないように作られている。レンは金属の把手を押し、隣の小部屋に入った。狭い。壁に吸音材が貼ってある。録音室だ。机の上には古いマイクとミキサー、アナログのテープデッキ。巻かれたテープのラベルに油性ペンの文字。第12週・上層/第19週・崩壊兆候。ミキサーのスイッチを入れる。低いハム音。針が震え、しばらく無音の帯を走ったのち、かすかな人声が浮かぶ。


 ……実証データが足りない。もっと追い込まないと。

 教育に偶然は許されない。再現性がなければ予算がつかない。

 ——被験者の安全性は?

 ——安全性は“平均”で担保する。逸脱は、統計から外れる。


 誰の声か分からない。誰の名札もない。なのに、言葉には机の角の固さがある。レンは無言のままミキサーを切った。音が消える。消えた直後に、部屋が逆に騒がしくなる。自分の血の音が、壁に吸われずに跳ね返るからだ。鼻の奥に吸音材の匂いが薄く刺さる。所内に長年滞留した人の声は、匂いに混ざって残るのかもしれない。


 観察者ノートを開く。見たこと、聞いたこと、匂い、温度。紙の上に順番を与える。蒼衣の文字を思い出し、推測には斜線を引いた。——本資料は教育現場へ持ち出され、顔を持つ観客の前で拍手に変換される/再現性の語の影に、痛みの個別性が隠される/安全性の平均が生贄の偶数を呼ぶ——。斜線の手前でペンを止めたとき、床下からくぐもった衝撃音が響いた。金属が叩かれ、誰かが階段を駆け上がってくる音だ。リズムが切羽詰まっていて、靴底が段差の角に当たる硬い音が混ざる。


 戻らなければ。紙束をケースに戻す。躊躇い、一本だけ小さな書類袋を抜き取った。厚手の封筒で、端にクリップが噛んでいる。封の口には管理番号のスタンプ。服の内側に挟むと、封筒の角が肋骨の上で冷たく動き、位置を主張する。扉を開ける。通路の先に薄灯りが揺れた。剛の影だ。彼はレンを見つけるなり、走り寄って乱暴に肩を掴んだ。


 「どこに消えてた。甲斐斗が上を閉めた。千景が倒れて、早智が……」


 言葉はそこでちぎれた。剛の手が震えている。強さで自分を守ってきた男の手だ。震えには理由が要る。理由は階段の上に置き去りだ。レンは深く息を吸い、喉仏の裏で空気を一度止めてから吐いた。


 「戻る。まだ終わらせない」


 観覧室を抜ける最後の瞬間、ガラスの向こうに白い影が揺れた気がした。蒼衣。いや、照明の反射。照明の反射だと言い聞かせて、視線を前に戻す。暗い階段へ走り出す。足裏に金属の冷たさ。手すりの粉。指の腹が白くなる。


 階段の途中、剛が息を詰めながら説明を継いだ。「甲斐斗が“管理者権限で”って通路を切り替えて、俺たちを分けた。早智は逆らったけど、スイッチの音の方が早かった。千景は光の切り替えで目眩を起こして倒れた。……あいつ、上で“ルールを正しく使った”って顔してる。顔っていうより、面だ」


 「面は、割れる」


 レンは短く返した。言葉に怒りを入れないよう気をつける。怒りは軽い刃になる。軽い刃は深く入り、あとで出てこないまま折れる。折れた刃は残骸として心臓の脇で邪魔をする。邪魔者を増やさないためには、記録で行くしかない。胸の封筒が肋骨に当たり、鍵の位置を示すように硬い。


 踊り場を曲がったとき、低い天井に吊られた非常灯がちらついた。緑のピクトグラムが息継ぎをし、矢印の白が薄暗がりに溶ける。矢印はいつも、多数のための方向だ。少数は、矢印の裏を歩く。レンは観察者ノートを胸から離し、階段の角に背をあてがいながらページを開いた。走りながら書く字は歪む。歪んだ字は、真っ直ぐな嘘より役に立つことがある。


 ——記録室。長机。アルミケース。貸出票。校長名、教頭名、指導主事。匿名でない手。この塔の外側には“顔のある善意”が実在し、ぼくらの判断はそこへ供給される。

 ——事例集の見出し。若年層の倫理的意思決定の可視化。再現性。統計。平均。平均は刃の丸い顔。丸い刃は深く入る。

 ——録音。実証データが足りない。もっと追い込まないと。教育に偶然は許されない。再現性がなければ予算がつかない。安全性は平均で担保。逸脱は外す。/斜線:声の主不明。責任の所在、印影のみ。


 ペン先が短く跳ね、紙の端に黒い点が残る。点は印だ。印を増やし過ぎない。増やせば、推測が事実の顔をする。事実に推測の面を被せたまま進めば、いつか自分で自分の喉をしめる。


 上階の踊り場に出た。通路は二手に分かれ、片方にシャッター、片方に半開きの扉。半開きの向こうに、甲斐斗の背中があった。端末の光が頬の骨を青く照らし、その手の動きは黒板の前の教師の手のように迷いがない。剛が一歩踏み出しかけ、レンは袖を引いた。勢いは見えやすい。見えやすいものに、スイッチは素早く反応する。


 「千景は?」


 「保温シートでくるんで寝かせた。……早智が見てる。あの子、怒ってるときに泣かないんだな」


 「泣かない涙は、あとで来る」


 「あとが怖い。だから今、止める」


 剛の言葉に、空気が短く痙攣した。レンはうなずき、封筒の角を指で確かめる。ここで見せる。見せるべきものを、見せる。怒りでなく、記録で。


 半開きの扉を押しやると、甲斐斗が振り返った。目には、薄い疲労と、均等に配られた自信が混ざっている。彼はレンと剛を見比べ、端末の画面を閉じた。


 「裏から上がってきたか。やるな」


 「観覧室も録音室も“授業の一部”だった」


 レンは封筒を持ち上げ、ひと息置いてから、机に置いた。封を外す。出てくるのは、貸出票の写し、スライドの印刷見本、討論用問いの一覧、小さな覚書のコピー。覚書の角は、誰かの指で丸くなっている。そこには、こう書いてあった。


 ——“誠実”を提示する教材は、一次的に緊張を緩和するが、二次的に生贄構造を固定化し得る/観覧者の罪悪感の分配により、教育効果(納得感)は増大する。


 「お前の合理は、上で拍手を受けるための合理だ」


 レンは声を低くした。怒りを入れない。怒りを入れないのに、言葉の角は削れなかった。「ぼくらの痛みは、授業のガソリンになっている。これが“事故”じゃないってこと、分かるよね。設計であり、運用であり、習慣だ」


 甲斐斗は紙に目を落とし、薄く笑った。笑いは音を持たない。笑いの形だけが、顔の上で動く。


 「事故じゃない。だからこそ、ぼくは構造側に行く。上で変えるには、上に入るしかない。合理的に残酷な人間が、上では必要だ」


 「必要、って言葉に、名前をつけてくれ」


 レンは観察者ノートを開き、四行の下にもう一行書き足した——必要という言葉が向けられる他者に、名前。蒼衣、結、千景、早智、剛、レン。名を並べると、必要が鈍くなる。刃の鈍さは安全ではないが、速度を落とす。速度が落ちるあいだに、息ができる。


 甲斐斗の目が、不意に揺れた。揺れに意味はない。意味は外側から与えられる。与える者の手は、いつもきれいな紙の上にいる。スピーカーがその瞬間を割り込むように鳴り、乾いた声を落とした。


 「十一階の課題へ移行します。管理者は動線の確保を。受講生は列を維持してください」


 剛が、紙から目を上げた。「列を維持、だとよ。ここ、学校かよ」


 「学校だよ」


 レンは答えた。喉の奥が笑いたがって、笑いは出なかった。「ここはずっと学校で、ぼくらはずっと教材だった」


 封筒の中身を端末の前に滑らせる。甲斐斗は視線で追い、手を伸ばすでも、払うでもなく、ただ見た。見た、という事実だけがここに残る。それで十分ではない。だが、ゼロではない。ゼロでないことの連続が、紙の重さを芽にする。


 「行こう」


 レンは言い、封筒を再び胸にしまった。封筒の角が肋骨の上で落ち着く。剛が頷く。彼の震えは、さっきより弱い。弱さが消えたわけではない。震えが方向を得たのだ。方向はいつも、紙の角で確かめる。


 通路を戻る途中、レンは観覧室の横をもう一度横切った。ガラスの向こう。天秤の部屋は無人だ。照明の軌跡だけが、静かに円を描いている。手すりの粉に指を置く。粉は白く、白の裏に灰が見える。その瞬間、ガラス面に微かな白い揺れ——光の反射——が走った。蒼衣の影に似て、違う。似ているだけで十分だ。胸の硬い場所が短く鳴った。書き続けて。幻聴の高さで。レンは息を詰め、目を閉じ、開いた。


 走る。階段を上る。非常灯が背中の汗を緑に染める。スピーカーの声が遠くに下がり、代わりに靴音が近づく。列の音。列の音は、拍手に似ている。拍手は、ここまで届く。届く前に、紙に変換する。紙は、拍手にならない。拍手にしないことが、今日の抵抗だ。


 踊り場で一度止まり、ノートに短く加える。——記録室で見た顔のある善意。観覧室の喉飴。覚書の“二次”。録音の再現性。全部、上へと続く階段の側壁に埋め込まれている。ぼくらは壁を触って上る。粉が指に移る。指の粉で、名を呼ぶ。蒼衣。結。千景。早智。剛。レン。——名を呼ぶと、平均はほんの少しだけ丸みを失う。


 階段の上に、新しい扉が見えた。扉の縁は、また黄色いテープで縁取られている。警告の黄色。安全の黄色。いつも、そのどちらでもある黄色。扉の前で、レンは最後に封筒を叩いた。中の紙が澄んだ音を立てて、胸骨に返る。返ってきた音は、自分だけに聞こえる。自分だけに聞こえる音で、列の音を上書きする。扉に手を置く。冷たさが掌に乗り、血の温度を持っていく。その奪われた分の熱で、言葉を温める。温めた言葉を、紙に戻す。


 ——これは事故ではない。設計であり、運用であり、習慣だ。ぼくはそれを見た。聞いた。触れた。匂いを嗅いだ。温度を持った。推測には印。痛みには名前。名を呼んで、上に行く。免罪符にはしない。鍵にする。鎖にはしない。紙にする。


 レンは扉を押した。蝶番の古い音が、一度だけ鳴った。音はすぐに壁に吸われず、階段の井戸に落ちて、どこかでまだ鳴っていた。背後の暗がりから、観覧室の白い揺れが、きちんとした反射の顔をして追ってこようとした。振り返らない。振り返らないまま、扉の向こうへ、足を入れた。ここから先、記録はもっと薄く、もっと冷たくなるだろう。薄く、冷たくなっても、紙は紙だ。紙でいられるあいだ、紙で戦う。指先に白い粉。胸に角の硬さ。喉の奥に名前。それだけを持って、塔の真実の続きに、触れにいく。

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