第8話 天秤の部屋

八階の扉は、吸い込むような白だった。取っ手に触れた指先から、乾いた冷気が骨へ入ってくる。開けると、円形の部屋。壁はすべて白、つなぎ目が分からないほど滑らかで、塗料の層は薄いのに硬い。天井は高く、ぐるりと巡る小窓から、外光に似せた冷たい明るさが回転している。動いているのは光だけで、空気は動かない。音も、ない。


床には巨大な天秤の模様が描かれていた。左右の皿、中央の支柱、細い指針。線は墨のように濃く、踏むと足裏がわずかにざらつく。模様に沿って歩くと、足の骨が一本ずつ数えられていくように感じる。中央の支柱の根元、円の真ん中に、低い台座がふたつ。並んだ箱はどちらも白木で、表面に薄い光沢。貼られたラベルがくっきりと目に刺さる。


誠実。機能。


スピーカーが、いつもの温度で口を開いた。どこから鳴っているのか分からない。壁全体が喉になっているみたいだ。


「八階の課題です。本日の審問を開始します。規則は鮮明です。今日は誰か一人の嘘を暴き、ラベルを貼る。『嘘つき』と指名された者が嘘でない証を示せなければ、その者は失格。暴けなければ、全員で一階降下。砂時計が尽きるまでに結論を」


砂時計——視線をあげると、天井の真ん中、丸い穴の下に透明な筒がぶらさがっている。中の砂はとても細かく、落ちているのかいないのか分からないほど遅い。落ちている。耳には届かないのに、胸の奥に薄い砂の音が降ってくる。


「誰の嘘を暴くかを、議論してください」


言い終えた途端、部屋が少し狭くなった気がした。声が壁の中へ戻り、白い表面に薄い波だけを残して消える。誰かが足音を立てないように位置を変える。剛は腕を組み、甲斐斗は箱のラベルをじっと見た。早智は首筋に手をやり、千景は相変わらず声を持たない顔で床の模様を見つめる。蒼衣は、少しだけ顎を上げて光を見た。光は表情を奪う。見上げるほど、顔は仮面に近づく。


「手順を決めよう」


甲斐斗が最初に口を開いた。教室で議題を整理するみたいに、低く穏やかな声。「証拠可能性の高い順に当たる。嘘の定義は、『自己の利を守るための虚偽の陳述』でいいか? この三日での行動記録、二階の履歴室での選択、四階の懺悔、六階の配給、七階の資料。総合して、矛盾の多い者から検討する」


「矛盾って、誰にとって?」


蒼衣が返す。声は乾いていた。水分のない声は、遠くへ飛ばない。「ここで『矛盾』って言うとき、たいていは『平均からのズレ』の言い換えだよ。ズレた者を切れば、天秤は水平に見える」


「見える、ではなく、なる、だ」


甲斐斗は目だけで笑った。「ここには『機能』というラベルがある。集団が上へ進むための機能。嘘を摘出することで機能は成立する」


レンはふたつの箱を見た。誠実と機能。どちらも正しそうな顔をしている。正しそうな顔の前では、息が浅くなる。息が浅いと、考えが細る。細った考えは、刃物のように人に向きやすい。


「……誰かの嘘を暴くの?」


早智が自分の声に驚いたように言った。彼女の目の下には薄く影。眠れていないときの、明るい部屋の影。「暴けなかったら、全員で落ちる。落ちるのは、もう嫌」


剛が無言で頷く。その頷きには、疲労と苛立ちが同居していた。苛立ちの方が、少し強い。


「なら、客観的に見よう」


甲斐斗は足元の天秤の支柱の線に沿って歩き、中央に立った。「候補は三人。レン。観察ノートの記述が中立を装っているが、四階以降は蒼衣に偏っている。次に剛。六階での粗暴な行為は規範破りに近い。彼は認めているが、言葉の上で責任を薄めようとしている。そして蒼衣。四階の懺悔。真摯に見えたが、昨夜以降の態度に不自然な安定がある。演技かもしれない」


空気が、カチ、と鳴った気がした。誰も何も落としていないのに、目に見えないところで薄いガラスがはまる音。蒼衣は少しだけ目を細め、笑いでも怒りでもない線を口元に作った。


「演技」


その言葉は、軽くても刺さる。「演技」はここで一番、他人を黙らせる言葉だ。「演技って言えば、相手の痛みの形を最初から疑える。便利だね」


「便利か不便かではなく、確度の問題だ」


甲斐斗は資料を——七階で配られた紙の束を——教卓のように腕に抱え、次々と机に並べた。四階の記録の要旨、五階の投票結果、六階の評価紙の写し。彼はそれぞれに付箋を貼っている。薄い黄色の紙片が、白の上でやけに目立つ。


「四階の録音。昨夜の放送により、懺悔が全体に共有された。彼女の『懺悔は免罪ではない』という結論の受け止め方は、個々に差があった。だが、彼女自身の態度は一定だ。『誠実』であることを選び続けている。誠実の選択が常に最適か? 五階では『救済』の扉の前で、彼女は反対した。合理的判断では、多数の選択が勝った。六階では、彼女は分配の列で他者への配慮を優先した。結果、彼女自身の体力は落ち、判断速度は鈍った。ここまでのデータから推測されるのは——」


「わたしが『誠実』の顔をして、集団の『機能』を下げている、って?」


蒼衣が先に言った。甲斐斗は頷きもしないで続ける。


「——誠実を資源のように使う戦略。演技が混ざっている可能性が高い。四階の告白の真偽は検証不能だが、『誠実』を標榜する者が、ここではもっとも危うい」


「危ういから、嘘つき?」


蒼衣の声は低い。低さは冷たさではない。熱が深いところに沈んで出てこないときの、低さだ。


議論は長引いた。剛は短い言葉で反論し、早智は帳面をめくっては閉じ、千景は相変わらず沈黙している。レンは言葉を探した。喉の奥に何かが引っかかっている。形のない骨みたいなもの。引っかかりを舌で押すほど、上がってこない。


「証拠は?」


レンはとうとう、言う。「演技って言うなら、どこが。何が。具体的に」


「証拠は、ここでは作るものだ」


甲斐斗の答えは、危い橋の上の板のように薄かった。薄いのに、重い。「四階の録音は真実性の証拠にならない。『告白』は最も編集が効く。彼女自身の言葉に、『誰かの顔色のために軽く返した』という表現があった。軽く返す技術を身につけていた者は、ここでも軽く返すことを学ぶ。五階での反対は、倫理的に正しいが、機能的には誤りだった。六階での『移し』も同じだ。誠実を選ぶたびに、彼女は群れの『機能』と衝突している。彼女の『誠実』は、ここでは『嘘』と同義になりつつある」


「言葉の殺し方が上手いね」


蒼衣が静かに言った。砂時計の砂が、目に見えて減っている。白い粒が細い流れになり、管の首を通って落ちる。「わたしのは、嘘じゃない。けど、証明はできない。死んだ子は戻らないから」


誰も息をしなかった。今だけ一瞬、部屋の空気が耳の中に直接入ってくる感じがした。痛くないのに、痛い。


「証明ができなければ、ここでは——」


甲斐斗が言いかけ、蒼衣が手で防いだ。防ぐ、というより、動きを止めた。掌を軽く上げ、指を少し開く。それだけで、彼は言葉の足場を失った。


「砂、もう少しで尽きる」


蒼衣は砂時計を見上げ、それからレンを見た。視線は長くない。短いのに、全部が入っている。疲れ、決意、恐怖、諦め、まだ残っている希望。ぜんぶ。彼女は笑わない。笑わないときの口元は、きちんと意志の形になる。


「わたしが『嘘つき』でいい」


静かな声だった。「みんなで下に落ちるより、誰かが残るほうがいい。ここはそういうところだって、もう分かったでしょう」


「だめだ」


レンは反射で言った。言葉が走り出し、足が遅れる。彼は中央に踏み出す。床の天秤の線が滑り、靴底が薄く鳴る。「そんなの、ルールの——」


「ルールの意図に乗ってる」


蒼衣は短く頷いた。「だけど、今日は、もう間に合わない。止められない。だったら、選ばれる側に自分で立つ。選ばされる前に選ぶ。……自由って、そういうふうにしか残らないときがある」


彼女は台座の隣、小さな棚から一枚のカードを取った。白。四角。中央に太い黒で「嘘」とある。裏は薄い粘着。彼女はそれを自分の胸に貼った。制服の布と皮膚の間で、カードがひやりと沈む。


「やめろ」


剛が一歩近づく。早智が口を開き、千景が目を伏せる。甲斐斗は何も言わない。言わないことが判決になる瞬間を、彼は知っている顔だった。


蒼衣は天秤の模様の上、支柱の根元に立つ。白木の箱の間、誠実と機能の中間。彼女がそこに立った瞬間、床の下から薄い光が立ち上がった。白というより、冷たい色。氷の板の下から照らされるような、血の気を奪う光。天秤の指針がわずかに揺れ、次の瞬間、足元の表示が変わる。


誠実:充足。機能:成立。


スピーカーが呼吸をひとつ落とした。金属が誰かの喉に引っかかったような、乾いた音。


「判定。誠実は満たされ、機能は成立しました。前進を許可します」


壁の一部が開いた。白い継ぎ目が静かに割れ、先へ続く扉が顔を見せる。だが、開いたのはひとつだけ。天秤の左側、誠実の箱の後ろにある扉だけが、柔らかい光を吐いている。右側、機能の後ろの扉は、鍵穴のない顔をして閉ざされたまま。


蒼衣は、その光の縁に立った。白が彼女の髪の糸を一本ずつ透かし、まつ毛の影を長くする。彼女は振り返り、レンを見た。目だけで言う。「行け」。唇は動かない。声は出ない。でも、伝わる。


「行かない」


レンは叫んだ。叫びの形が喉の奥で崩れる。空気が重く、声が重く、靴底が床に貼りつく。「行かないよ。そんな——」


蒼衣が首を振った。小さく、しかしはっきり。振ったのは首だけなのに、周りの光まで揺れたように見えた。


「わたしたち、ここまで何をした? 誰かを外に出して、誰かを残して、誰かを『遅延』って紙で刺して……。今日は、わたしが選ぶ側じゃなく、選ばれる側に立つ。それで、この階は終わる」


彼女は背中から光へ踏み入った。光が衣の裾を拾い、足の甲をなぞり、指先の輪郭を奪っていく。白は優しい顔をしている。優しい顔は、飲み込むときの音を消す。


スピーカーが、乾いた調子で付け加えた。


「誠実な犠牲者に仮の天国を」


言葉が、壁に吸われて薄くなってから、やっと意味が落ちてくる。仮。天国。犠牲者。全部並べると、紙芝居みたいにきれいなのに、中身は冷たい。


「蒼衣!」


レンの叫びに、返事はなかった。返事の代わりに、光が少しだけ強くなり、すぐ弱くなった。光が弱くなったところには、もう誰もいない。扉は静かに閉まる。白の継ぎ目が戻り、壁になる。壁になった壁は、最初から壁だった顔をする。


しばらく、時間がどこにもいなかった。砂時計はもう尽きているのに、砂の音だけが遅れて胸に落ちてきた。剛が唇を噛む。早智は肩を強く抱き、千景は自分の爪の先を見た。甲斐斗は、開かなかった方の扉の前に立ち、しばらく動かなかった。


レンの足元に、薄い紙のカードが一枚落ちていた。音はしなかった。いつからそこにあったのかも分からない。白。四角。角はまだ鋭い。拾い上げると、カードはほんの少しだけ暖かかった。誰かが直前に触った温度が、紙の繊維に残っている。


観察者ノート。


表に小さく印刷してある。裏返すと、最初のページに均一な筆跡で書き出しがあった。癖のない字。印刷みたいに、揺れがない。


見たものだけを書け。測れるものは数で示せ。推測には印を。痛みには名前を。


レンはその四行を、口の中で静かに読み上げた。読み上げた瞬間、四行が喉の内側で別の形になって張りついた。四角い紙が、胸の骨の裏側に差し込まれたみたいに。


誰が最初に書いたのか、誰も知らない。ここに来る前から存在していたのか、今この瞬間に生まれたのか。分からない。分からないことを、分からないまま持っていくしかない。


剛が拳を開いた。「どうする」


彼の声は、厚みを失っていた。厚みは怒りでできていたのかもしれない。怒りが行き先を失うと、声は薄くなる。


「行くしかない」


甲斐斗が言った。彼の顔には感情のしわが少なかった。感情は、奥に隠れるほど長持ちする。「この階は成立した。判断は済んだ。次の課題に進む」


「判断、ね」


早智が笑った。笑いは音にならない。笑いの形をしているだけで、そこに笑いはない。「『誠実:充足』『機能:成立』。きれいに整った。誰の心拍も、たぶん整ってはいないけど」


千景が初めて口を開いた。小さな声。埃の下にしまわれていた鈴の音を、布越しに鳴らすみたいな声。


「……仮の天国って、どこ?」


誰も答えられない。天国という言葉は、ここではいつも、扉の向こうでしか意味を持たない。向こうへ行った人の言葉は、戻らない。


レンは新しい観察者ノートを胸に抱え、指の腹で紙の角を確かめた。角は冷たい。冷たい角は、方向をくれる。ノートを開く。罫線は細く、まっすぐ。ペン先を置く場所が、縦にも横にもある。


——八階。天秤の部屋。誠実と機能。誰かが自分の胸に「嘘」を貼った。嘘の形を借りて、今日の天秤は水平になった。水平に見えた。


書きながら、手が少し震えた。震えは恥ではない。震えのないときの字は嘘に近い。震えの線が、事実の端を示すこともある。


——証明できない誠実は、ここでは罰に近い。罰に近いものを自分から選ぶのは、自由の残し方のひとつ。けれど、その自由を『機能』はすぐに消費する。消費された自由の跡に、白い粉が残る。


ノートの紙に、どこからか粉が落ちた。七階の黒板の粉か、八階の床の細かい塵か。指で払うと、粉は消えるふりをして、線の間に潜った。


——見たものだけを書け。測れるものは数で示せ。推測には印を。痛みには名前を。これは命令ではなく、約束として読む。


最後に小さく、印をつけた。推測、という意味の丸。丸は目に似ている。目は、よく閉じる。閉じる目を、紙は開けない。紙にできるのは、閉じられた目の数を数えることだけだ。


「上階へ」


スピーカーの四文字が、薄い刃になって落ちてくる。床の天秤の指針がもう一度だけ揺れ、止まる。壁が静かに開き、次の階段の口が、暗さと明るさの境目みたいに現れる。境目は、いつも細い。細い線を踏むのは怖い。怖さは、紙に残すときだけ、少しだけ軽くなる。


レンはノートを閉じ、薄い音を聞いた。蒼衣の「行け」が、まだ耳の一番奥で鳴っている。行く。行きながら、戻らないことを書き続ける。戻らないものの名前を、できるだけ間違えないように。


白い部屋が背中に張りつく音がした。振り返らない。振り返ったら、白が目の中に入って離れなくなる。目の中の白は、のちのち、見たい色を奪う。奪われないように、前を見る。前の段差は、今日だけ少し高い。高いと感じるのは、足が一本分少ないからだ。


階段の一段目に足を置くと、靴底が小さく鳴った。鳴らない粉の音も、同時に鳴った。どちらの音も、紙は覚えている。紙が覚えている間は、まだ人間だ。人間のまま、上へ。怖さを薄くたたんで、ノートの挟み込みにしたまま、上へ。

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