第3話 嘘つきの部屋
三階へ続く階段は、二階よりも足音を吸った。金属の段差を踏むたび、音が床に沈んでいく。吸い込まれた音は返ってこない。かわりに、足首の内側に自分の血の流れだけが脈として戻ってくる。レンは手すりを持ち、汗の薄い膜が金属に貼りつく感触を気持ちの隅に押し込んだ。
三階の扉が開くと、空気は乾いていて、色がなかった。白い廊下に同じ形のドアが左右に十数枚。等間隔に並ぶのは、病室でもホテルでもなく、倉庫の小部屋に近い。各ドアに名札はなく、小さな差込口だけが口を開けている。腰の高さ、封書がすべり込むように斜めに切られた金属の口。壁の角には古い監視カメラの台座だけが残り、肝心の目玉は外されている。目がないのに見られている。それが三階の第一印象だった。
「個室に入り、配られたカードを記入の上、指定の差込口に投函してください」
天井のスピーカーが言う。いつもの中性的な声。だが音の終わりにだけ、砂のようなざらつきが残る。
「項目は三つ。もっとも信頼できる人物。もっとも危険な人物。もっとも役に立つ人物。配点は非公開です。記名は不要。ただし、筆跡が特徴を示す場合があるので、各自ご注意ください。投函後、中央室に集合」
筆跡が特徴を示す——そう告げる声は皮肉のように感じられた。匿名と言いながら、匿名の形を指導する。匿名に責任を持たせないための匿名。レンは足元の白を見た。塗り直しの段差がわずかに残り、靴底の溝に白い粉が入り込む。
各自がばらばらにドアへ散っていく。蒼衣は肩までの髪を耳にかけ、何も言わずに右側の三つ目の個室に入った。甲斐斗は廊下の真ん中で一度立ち止まり、左右のドアの間隔を目で測ってから、一番奥の部屋に消えた。剛は迷いなく左端へ。結は一歩ごとに躊躇いをはさみ、手前から二番目で足を止めた。美雨はレンの少し先へ歩き、振り向いて会釈のように小さく首を動かしてから、静かに個室に入った。
レンは、ドアの冷たいノブに触れてから手を引いた。ノブでは開かない。横の溝に手を差し込み、引く。音は少ない。中は正方形に近い小部屋だった。机と椅子。壁には小さな掲示が一つだけ。
——評価は誰かを守るために使ってください。
やさしい字体だった。丸い、幼稚園の壁に貼られる注意書きのような書体。レンはそれだけで背中が寒くなった。やさしい文字はときに、鋭い刃物の鞘になる。
机の上には白いカードが三枚と、細いボールペンが一本。カードの上部には薄く項目が印刷され、書き込む欄は大きい。カードを裏返すと、隅に銀色の箔押しで「教育再生財団」とだけある。押された箔の角が、蛍光灯の白を跳ね返す。
レンは椅子に座った。座面の合板は軽くたわみ、音を立てかけて踏みとどまる。ペンを持つと、手のひらの汗で軸がわずかにすべる。最初のカード、「もっとも信頼できる人物」。信頼——二階での公開と削除の匂いがまだ指の間に残っていて、単語が肌に触れるのを拒む。誰かの名を書けば、書かれた名前は重さを持つ。書いた自分の手も重くなる。名ではなく特徴を書けと暗に求められている気がして、レンは空欄を見つめたまま、息を細く吐いた。
次のカード、「もっとも危険な人物」。危険とは、ここでは何を指すのか。運営にとってか、集団にとってか、個々人の心にとってか。危険というラベルは、貼れば貼られた相手の形にまで染み込む。剥がしても跡が残るラベル。レンはペン先を落としかけ、止めた。自分の筆跡の癖——最後のハネが強くなる癖——を意識した瞬間、手がこわばる。
三枚目、「もっとも役に立つ人物」。役に立つ——道具の言い方だ。誰かが道具にされる。役に立たなければ、どうなる。二階の「尊重」のように、やさしい言い回しの裏に置き去りが隠れる。
時間は潰れていく。レンは迷いを嫌っているふりではなく、本当に嫌った。嫌うほど、時間は薄くなって伸びる。カードの白が目に痛い。ここで書くことは、ここに残る。書かないことも、残る。二者択一はいつも、第三の選択を隠すための幕に見える。
レンはとうとう、一つのやり方に決めた。名を書かない。代わりに、各項目に短い言葉だけを置く。「信頼できる——選び方を知ろうとしている人」「危険——決めた言葉を他人の口に入れたがる人」「役に立つ——自分の役割を一度手放せる人」。逃げた言い方だ。分かっている。でも、言い方すら選べない世界だと確認してしまうよりはよかった。
カードを持ってドアを開ける。廊下の空気は冷たい。差込口の上には小さく矢印。その口へカードを一枚ずつ滑らせる。紙が奥で受け止められる音は意外に柔らかく、布に埋もれるように消える。最後の一枚を押し込むと、中からわずかな風が出て、レンの指先にあたった。呼吸の気配。機械の肺が中にある。
中央室は三階の真ん中にある四角い部屋だった。壁は白、床も白。中央に低い台があり、その上に天井からぶら下がる掲示板。紐で吊られた古い掲示板は、黒板のような質感で、角がすり減って丸くなっている。全員が戻ると、スピーカーは短く言った。
「投函を確認。集計しています。掲示板の案内が下りるまで、その場でお待ちください」
待つ時間はいつも、均等ではない。甲斐斗は腕を組み、廊下の方角に短く視線を落とした。蒼衣は唇の皮を指でつまみ、噛む代わりにそっと押し返した。剛は両手の指を組んで背中で握り、肩甲骨を鳴らした。結は自分の靴紐を二度結び直して、三回目でやっと手を止めた。美雨は台の角にそっと指先を置き、温度を確かめているみたいだった。冷たかったのか、彼女はすぐ指を引っ込めた。
掲示板が、音もなく下りた。チョークで書いたような白い文字が浮かび、そこにすぐ灰色の板書が重なる。縦に並ぶ参加者の名前。A-03 柊レン、A-02、A-04……それぞれの右に小さな丸がいくつも並び、丸の色が薄く変化する。信頼、危険、役に立つ——色が違う。色の意味は教えられていないのに、見ているだけで何となく分かるように作られている。
レンの名前にだけ、赤い縁取りが走った。突然、そこだけ色が濃く、赤が生きものの口みたいに開いた。掲示板の端に小さく、地の文のように表示が出る。
——危険度上位
息が詰まる音が自分の喉から出たことに、気づくのが遅れた。理由はどこにも書かれていない。数値も根拠も、表示されない。他の誰かの名前の横に、薄い色の三角や四角が点いている。けれど赤い縁取りは、レンだけだ。赤は人間の視線を引きつける。視線が、レンの皮膚に降り注いだ。刺すように、じっとりと、いろんな角度で。
「根拠は?」
剛が短く言った。声は低く、だが震えていない。剛の目には怒りではなく、分からないことへの苛立ちがあった。見えないものは殴れない。
「配点は非公開です」
スピーカーの声が近くなった。ここに降っている。天井のどこか、見えない穴から。
「匿名評価は集団の自己防衛を促進します。皆さんの選択の結果です」
「皆さんの選択——ね」
蒼衣が小さくつぶやいた。「皆さん」という柔らかい言葉の響きが、刃の形に細工されているのが分かる。刃の表面に、やさしいカバーだけが貼られている。
甲斐斗は掲示板の端に表示された注意文に目を走らせ、唇の端だけを動かした。「合理的だよ。外部に見せる指標としては、分かりやすい。危険度上位と示すことで、集団のリスク感度は上がる」
「でも、根拠がない」
「根拠は、集計された恐怖そのものだ」
甲斐斗はさらりと言い、レンの方を見ない。レンの視界の端で、結が小さく肩をすくめた。彼女は目を合わせようとして、やめる。目を合わせることは、ここでは支持にも攻撃にも見える。どちらでもない視線は、置き場所がない。
掲示板の下に、次の選択が表示された。白い文字が、黒の上にくっきりと浮かぶ。
——二択。危険人物の個室に置いた「真実の箱」を開く。あるいは、危険人物を拘束し、全員で上階へ。
息の仕方を忘れるほどの間だった。拘束——その言葉が部屋の空気を固くする。誰かを縛って、残りが上へ。縛るための道具は見当たらないが、見当たらないからこそ、手段は柔らかく暴力的に広がる。言葉で、視線で、無視で、部屋の四隅に追い詰めるやり方。
「レンに、開けさせた方がいい」
蒼衣が言った。声は硬くはない。柔らかくしようと努めた声の奥で、別の硬さが光っていた。演者が舞台で素の声に戻る時の、微かなきしみ。レンは蒼衣の目を見る。彼女の目は、誰かの笑いに耐えた人の目だ。画面の向こう側で火にあぶられた経験を持つ目は、燃える前の木の色を見分ける。
「拘束して上がるのは……簡単だよ。でも、上に行った先でまた出てくるよ、たぶん、もっと大きな形で。なら、ここで開けた方がいい」
「開けるべきだ」
甲斐斗も、即答した。彼は合理の言葉で恐怖を押さえるのがうまい。剛は口をつぐみ、少しだけ頷いた。結は両手を握り、爪を掌に食い込ませた。美雨は俯き、足元の白い塗りの端をじっと見ている。
「わかった」
レン自身の声が、思ったよりも静かだった。静けさは、諦めの音色に似る。だが諦めとも違う。自分の手で、まだ選べることが一つだけ残っていると知ってしまった者の声だった。
個室に戻る。廊下の空気はさらに乾き、鼻の奥の皮膚がひりひりする。ドアを引くと、中の机の上に薄い桐の箱が置かれていた。さっきはなかった。箱は軽い。木目が細かく、指でなぞると毛羽立っていない。蓋の合わせはぴったりで、隙間に爪が入らない。桐は湿気を嫌う箱に使われる。守るための箱だ。守るものは、ここでは何だ。
レンは机の角に箱を寄せ、息を整えた。心臓は速いが、暴れてはいない。暴れると、手は震えすぎる。震えない手で開けた方が、見たくないものにも正確に触れられる。蓋の裏に小さな切り欠きを見つけ、そこで指を滑らせる。蓋は音をたてずに浮いた。中には紙の匂い。新しい紙ではない。人の手の油を吸った紙の匂い。まだ乾かないインクの微かな甘い臭い。それらに混じって、封筒の糊の糸のような匂い。
厚い紙束が入っている。輪ゴムでまとめられた束が二つ。片方の束の上には「匿名投稿」、もう片方には「回覧」とだけ鉛筆で書かれている。レンは先に「匿名投稿」と書かれた方を手に取った。端に黒いホチキスの針が見える。外すと、紙はぱらぱらと机の上に逃げた。SNSや掲示板のスクリーンショットのようにも見えるが、画面の縁は印刷されていない。タイトルの代わりに日付と時間。文は短い。言葉は刺すために研がれている。
「彼女の謝罪はテンプレ。反省してるふりだけ上手い」
「負け惜しみの理屈。言葉の暴力」
「役に立たないのに、目立つのがうまい」
誰かの口癖を真似た悪意。特定の名前は記されていないのに、読む人間には対象が分かるように書かれている。制服のリボンの色。下駄箱の位置。使い込まれた筆箱の汚れ。小さな識別子が挿し込まれて、はっきり名前を出すより残酷だ。名前は剥がせるが、癖は剥がせない。癖は身体の一部だからだ。
もう一方の「回覧」を開く。紙は厚く、実名で回覧された印の赤い丸スタンプの跡が端に残っている。手書き。打ち込み文字の整いとは違う、線の速度と力が露わになる筆跡。学校の保護者会で回った意見書。サークルの「今後の方針」。職場の「雰囲気改善アンケート」。どれも、顔の見えるところで言われた言葉ばかりだ。
「うちの子は夜遅くまで勉強しているのに、あの子は放課後に変な活動をしていると聞きました。公平ではありません」
「配信の内容には教育的観点から問題があると思います。若い人に悪影響です」
「部に貢献しない者は、評価の対象外とする。来期の大会メンバーから外す」
ペン先が紙を擦った跡が、隆起として指に触れる。押し込まれた感情は、紙の繊維に残るのだ。レンは束の真ん中から一枚を抜いた。そこに、自分の筆跡があった。見間違いようがない。最後のハネが強すぎる、あの癖。大学の委員会で回った「活動意識アンケート」。レンは、匿名のふりをして一人の先輩の名前を挙げ、「無責任で場を乱す」などと書いたのだった。場を守るために必要だった。そう思った。群れの均衡を崩す者を指差した時、自分は群れの正義だと信じていた。正義の線は細く、簡単に刃に変わるのに。
胃が、それを認めた瞬間につかまれた。下から上へ握られ、胃酸が喉の手前まで上がってくる。唾液で逆流を押し戻し、レンは机の角に手を置いた。角の角度が親指の付け根に食い込み、現実の形を作る。手を離すと、親指の付け根が白くなった。
目を閉じたくなった。閉じれば見ずに済む。でも、見ずに済むのは、「見ない」という選択を自分に貼る時だけだ。ここまで開けたのに、見ないふりをするのは、目に蓋をすることだ。蓋はまた、別の場所で開く。開けるのはたぶん自分じゃない。誰かに開けられるのは、もっと嫌だ。
紙束を元通りにして蓋を閉める。箱は軽くなっていない。重さは中身の物理ではなく、触れた者の体に移る。箱を抱えて個室を出ると、廊下の空気はひやりと肌を撫でた。中央室に戻ると、全員がこちらを見た。視線は多いほど冷たくなる。集まった視線は体温を奪う。蒼衣の目はまっすぐで、それでも痛かった。甲斐斗の目は表面が冷たく、中に何も浮かんでいないように見えた。剛の眉間にはうっすらと皺。結は唇を噛み、小さく頷いた。美雨はレンの靴先を見、次にレンの手に抱えた箱を見た。
掲示板が、また音もなく下りた。今度は文字が少ない。白い字で短く、機械の息のように正確に。
——危険人物・柊レンは「真実」に触れました。以後、観察ノートの管理を担当させます。
観察。監視と同じ音色を持つ言葉。ノートというやわらかい器で包み直しても、中身の堅さは変わらない。管理——手に持たせることで、責任を貼り付ける。貼られた責任は、はがすと皮膚も一緒に剝がれる。
「観察ノート?」
結が呟いた。スピーカーは答えない。代わりに中央の台に薄い冊子が二冊、静かに現れた。いつの間に置かれたのか誰も見ていない。薄茶色の表紙、罫線は細く、紙はややざらついている。表紙に小さく、「観察ノート」とだけ。下には空欄があり、レンはそこに「管理者 A-03」と書くしかなかった。書く手がわずかに震え、Gの横棒が少し長くなった。
視線がさらに冷たくなった。冷たさは種類を変える。さっきまでの恐怖に近い冷たさは、今は疑いの冷たさに変わっている。レンが彼らを見るのか。彼らを記録するのか。管理者の目——そう名付けられた目は、本人の意思を超えて集団の中で別の形に育つ。レンの手の中のノートは軽いのに、腕は重い。
「やるべきことは簡単だ」
甲斐斗が言った。声は教室の講義のように整っている。「観察は、二種類の価値がある。抑止と記録。君が記録に徹するなら、公平性は自ずと確保される」
「公平?」
蒼衣が短く笑った。笑いは音にならない。「公平って、誰の尺度で?」
「集団の尺度だ」
「じゃあ、集団から外れた目は全部、危険になる」
蒼衣の声の終わりに、紙の切れ端のようなものが引っかかった。レンはノートの最初のページを開いた。罫線がまっすぐに並び、空白が奥行きを持って見える。そこに何を書けばいいのか、分からない。「見たことだけ」「測れること」「推測は推測と明記」「誰かの痛みを軽く扱わない」——そんなルールを心のどこかに持っているが、ここではそれも危うい。見たことは、見せたいように切り出され、測れることは、測る器の目盛りで数が変わる。
「拘束ではなく、開けるを選んだ。それは記録に値する」
甲斐斗が続ける。合理の言葉は正しい場所に落ちるが、人の温度に触れない。剛は腕を組み、ノートを一瞥した。早智は部屋の隅を見る。誰もいない隅に視線を置くのは、ここでは一つの自己防衛だ。結はノートの表紙ではなく、レンの指先を見た。美雨はレンの目を一度だけ見た。見て、何も言わなかった。それがいちばん、言葉に近かった。
掲示板がゆっくりと上がっていく。白い文字は板の裏に吸い込まれ、黒が残る。スピーカーが短く合図を出した。「上階へ」
四文字。二階の時より、ほんの少しだけ強く聞こえたのは、レンの耳が敏感になっているだけかもしれない。あるいは、声そのものが固くなっているのかもしれない。ノートを胸に抱えると、紙の角がシャツの布を押す。角の感触は鋭く、安心する。尖ったものには場所がある。丸いものは、どこにでも転がる。
廊下に出ると、白がまた広がる。差込口の口は、もう閉じている。投函は終わり、戻せない。レンは自分の個室の前で足を止め、ドアの内側に残った桐の箱を思い出した。中身はもう、自分の体に移った。箱は空で、重い。
階段へ向かう列の最後尾に立つ。背中に視線が刺さらない。みんなが前を見ているからだ。前は、上だ。上にしか、道はないと信じさせるように建物は作られている。足を上げる。段差を測る。置く。上げる。置く。単純な動作の難しさがまた始まる。ノートの罫線が、階段の踏み板に重なる。線の上を歩く感覚。線から外れないようにする感覚。外れた方が生き延びることもある。外れた者にラベルが貼られることもある。
ラベルは、剝がれない。指でこすればこするほど、紙の下の繊維に入り込む。危険、信頼、役に立つ——言葉は短いほど深く刺さる。深く刺さるほど、抜いたときの血が多い。レンはノートの一ページ目の右上に小さく、日付を書いた。ここで日付に意味はない。意味がないからこそ、意味のない行為を置いておく。意味を与えられる前に、先に置いておく。
蒼衣が前で一度だけ振り返り、視線がレンのノートに落ち、すぐ離れた。彼女の視線は刃ではない。ただ、薄い紙の端のようだった。紙は切れない。けれど、紙の端は皮膚をかすり、傷をつくる。傷は浅いが、しみる。しみるから、人は動きを覚える。
階段の口がまた開いている。四階につづく闇は、二階とも三階とも違う色をしていた。夜の色に近いのに、冷蔵庫の中の白い光が底に溜まっているみたいに冷ややかだ。空気の層が変わるたび、のどの奥に新しい匂いが生まれる。四階は、何を求めるのか。何を奪うのか。答えはいつも、扉の向こうだ。
レンはノートを少し抱えなおした。胸の骨の上で紙が硬い。硬さは頼れる。頼ったものが刃に変わる、その瞬間までは。美雨の肩越しに、白い階段の先の黒い影が一瞬揺れた。誰かの影か、自分自身の影か。ラベルを貼られた影は、自分の形を忘れやすい。忘れた影は、誰かの形に似てくる。似てくるほど、責めやすくなる。
息を吸う。階段の金属が冷たい。靴底のゴムが鳴らない。鳴らない音の上を歩く。レンは、ノートの最初の行に小さく書いた。
——見たものだけ。測れるものは数で。推測は推測と書く。痛みは軽く扱わない。
それは、ここで無力かもしれない。無力でも、書いた。書いて、持っていく。誰も守られない場所で、誰かを守るために自分が壊れないための、薄い紙一枚の約束。紙は薄い。だけど、紙を束ねれば、箱になる。箱は軽い。けれど、その軽さはいつか重さに変わる。重さを抱えて上へ。上へ。
掲示板の赤い縁取りは、三階に置いてきた。置いてきても、皮膚に跡が残る。跡はやがて薄くなる。薄くなった跡に、別の色が重なる。次の色がどんな名前を持っているのか、まだ知らない。知らないまま、足を上げた。怖さは消えない。消えない怖さだけが、ここでは真実に近い。真実は箱の中にあった。箱はもう、手の中にはない。手の中にあるのは、紙。紙は書ける。書けるうちは、まだ人間だ。
四階の扉が、音もなく開いた。冷たい風が顔に当たる。蒼衣の横顔が白くなり、甲斐斗の眼鏡が一瞬曇り、剛の肩がわずかに盛り上がり、結の喉仏が上下し、美雨の睫毛が一度だけ震える。レンはその全部を、ノートに書かなかった。書かなかったことを、覚えておくことにした。覚えておくことも、観察の一部だ。観察は監視と同じ音色だが、ときどき、違う音を含む。違う音を聴き分けられるうちは、まだ、上へ行ける。
上階へ。スピーカーは言わない。沈黙が合図だ。沈黙の合図で、十五人だった列は十四人の列になり、そして十三に、十二に。足音は減るたびに軽くなる。軽くなるたびに、怖さは重くなる。重くなるものを抱えたまま、レンは次の段を踏んだ。ノートが胸の骨に当たり、音のない音がした。音のない音だけが、いまのところ、均衡だった。
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