塔の子たち:二十五階の審判
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 塔の扉が開く
山の影は、夕方になると形を変える。尖った岩肌が人の横顔に見えたり、尾根が寝転がる巨獣の背に見えたりする。舗装の剝げた道を登るマイクロバスの窓から、柊レンはその影をぼんやり追っていた。秋の空気は乾いていて、息を吐くと白くなるほどではないのに、胸の内側だけが冷えていた。バスは最後の曲がり角を抜け、白い箱を正面に捉える。四角い、やたらと新しい塗装の建物。ガラスはすべて曇り、外側から格子状の金具で締められている。看板には達筆で「天秤教育センター」とあった。
ハンドルを切る音が止まり、ドアが押し開かれる。若者たちがぞろぞろと降りる。レンはスニーカーのつま先で砂利の感触を確かめ、深呼吸してからバスのステップを降りた。背中で、キャリーバッグが小さく跳ねた。
無言の警備員らしき男が出入口の前に立ち、首から下げた端末をちらと見せた。薄い笑顔、声は出さない。ドアが開閉するたび、機械の息のような音が漏れた。レンは受付台の前で名前を告げる。首にプラスチックの札をかけられる。A-03 柊レン。札はひやりとして、皮膚の熱を奪った。
「十……四、十五。全員ですね」
受付の女性はそこだけ微笑んだ。笑い皺の深さだけが、建物の白さと不釣り合いだった。
ロビーの奥へ導かれる。天井は低く、照明は均一で影を作らない。壁は真っ白だが、どこか塗りたての匂いがする。表面が不自然に滑らかで、指で触れたら塗膜が剝がれそうな気配。右側は曇りガラスの大窓だが、外の山の影は一切映らない。窓は飾りに過ぎないと、レンは思う。
階段を降りたのか上ったのか、自分でも曖昧な感覚のまま連れて行かれた先が「第1階ホール」だった。開けた空間。床に黒い格子模様。中央に台座、その上に二つの木箱。どちらも胸の高さほど。濃い木目。片方には焼き印のように「幸福」、もう片方には「責任」とある。文字はどちらも、手のひらで撫でたくなるような温度を持っていた。
「着席ください」
スピーカーの声が天井から降ってきた。男とも女ともつかない中性的な声。耳に痛いほどの音量ではないのに、鼓膜に直接触れるような近さがある。
折りたたみ椅子に、見知らぬ十四人が腰を下ろしていく。レンも端の方に座った。体温と緊張が混ざって、椅子の金属がぬるくなる。視線を上げれば、皆の胸にさまざまな札。A-01、A-02……数字だけが違う。顔は、どこか疲れている。化粧の濃い者、髪を刈り上げた者、ジャージのままの者、スーツとネクタイの者。年齢はレンと同じくらいか、少し上が多い。
「あの、すいません」
一人が手を上げた。スマホで有名になったとネットで見たことがある顔だ。教育系インフルエンサーとして、昔は笑顔で勉強法を語っていた。その人が今は、やせて目の下に影を作り、口角の上がりがぎこちない。
「質問は、どうぞ」
「このプログラム、主催は『教育再生財団』とのことでしたが……ここは教育施設ですよね。外鍵の意味は?」
「安全のためです」
間が、ほんのわずかに長かった。スピーカーの向こうに人間がいるのか、録音なのか、レンには判別がつかない。だが、答えそのものよりも、その間の長さが怖かった。何かを選び取るとき、人は小さな沈黙を使う。音のない部分に、答えの色がしみ出す。
「これより、選択教育プログラムを開始します」
スピーカーの声が少し明るくなる。レンは膝の上で手を組む。手の甲の細い血管に、鼓動が小刻みに当たっていた。
「第1階の課題は、投票です。台座上の二つの箱のうち、多数決で一方を選びます。正解の箱であれば、上階への扉が開きます。不正解であれば、参加者の一名が脱落します」
ざわ、と空気が揺れた。笑い声に似たもの、咳払い、靴底のきしみ。レンは自分の喉仏が動くのを感じる。
「脱落の定義は?」
別の声が飛ぶ。低い、乾いた声。角刈りの体育会系ふうの男が腕を組んでいた。肩幅が広く、筋肉が言葉の代わりをしているみたいだ。
「定義は、ここでは必要ありません」
「必要だろ」
「必要なことは、投票で決まります」
返す言葉が見つからず、男は鼻を鳴らした。
「それでは、準備ができ次第、投票を開始します。最年少の方が鍵を回してください」
視線が一斉に揺れた。末席に座っていた小柄な少女が、肩をすくめる。制服っぽいスカート。足首に細い傷跡。札にはA-15 美雨とあった。彼女は自分に向けられる空気の重みに耐えるように、視線を下げた。
「えっと……」
誰かが言う前に、他の誰かが言う。
「幸福でよくない? 最初だし、罰ゲームとかやめよ」
「責任って、響きからして罰じゃん」
「ゲームの最初でハード選ぶやついないって」
笑いがいくつも重なる。冗談の声色には、かすかな震えがある。レンの胸に、小さく針を刺すような違和感が残った。幸福、責任。文字は簡単なのに、背中の意味が重い。幸福を選ぶのは、逃げだろうか。責任を選ぶのは、挑戦だろうか。正解があるとしたら、どちらにあるのだろう。
「合理的にいこう」
眼鏡の青年が言った。座り方がきちんとしている。足首が揃っている人は、だいたい言葉にも揃いを求める。札には甲斐斗。年齢は二十を少し過ぎたくらいに見える。
「多数決は集団としてのリスク回避策。初手で痛手を負えば、次の選択に影響する。これだけ情報がない状況では、短期的な損失を避けるのが妥当」
「つまり、幸福で」
「いや、『責任』の可能性も考慮するべきだ」
甲斐斗は言葉を切り直す。声は落ち着いているが、その落ち着きは自分を守るための壁にも見えた。
「主催側が『責任』というカードを出してくる心理。参加者の多くは、楽な道を選ぶ。そこを逆手に取るのが、教育的には“正解”である蓋然性が高い」
「むず……」
「つまり、どっちよ」
「多数が幸福って言って、不正解だったら、誰かが落ちるんだよね?」
質問したのは、顔色が悪い女性だった。化粧の下に疲労が隠しきれない。札には早智、二十二。奨学金の返済、という文字が、彼女の肩の少し上に見えた気がした。幻覚のように、でも確かに彼女の上で揺れていた。
「落ちるって、どこに?」
誰も答えられない。スピーカーは喋らない。ホールの空気が少し冷える。レンは足先に神経を集中させる。床の模様の黒い線の上で、靴のゴムがこすれて、小さな音がした。
「とりあえず、やってみようよ。最初から責任とか、嫌だし」
明るい声が、意図的に軽く響いた。元インフルエンサーの蒼衣だった。声だけなら、かつての動画で聞いた陽気さに近い。だが目尻の硬さが、声の終わりにひっかかり傷をつける。
「幸福に挙手、でいい?」
手が上がっていく。蒼衣、体育会系の剛、早智、通信制を渡り歩いたらしい結、何人もが空気に腕を差し出す。レンは手を膝から離しかけて、止めた。喉が乾く。舌先に金属の味。多数に乗れば、間違っても「自分一人の責任」にはならない。その計算が頭をかすめた瞬間、胸のどこかで嫌な音がした。自分の中の何かが、音を立てて擦り減る音。
「A-03、どうしますか」
隣の少女が囁いた。美雨だ。驚いて顔を向けると、彼女は申し訳なさそうに笑った。笑顔の形だけがそこにある。心は別の場所に隠れている。
「え、あ、俺は……」
レンは言葉の尻を濁した。自分でも、どちらを選びたいのかが分からない。責任、と言えれば格好が付く。幸福、と言えば楽だ。喉の奥で舌がもつれ、肺に酸素が足りなくなる。
「多数は幸福、で」
甲斐斗が冷静に数える。挙手の林の間から、彼は手を上げなかった。観察者の位置に立つのは、知性だけが選べる特権のようだった。だが、彼の視線の奥にほんのわずかの羨望が見える。自分も楽な選択に紛れ込みたい、という願いが、瞳の表面で形を作っては消えた。
「決まりですね」
スピーカーが言い、美雨の札に光が灯る。鍵を示す小さなアイコン。台座の前で立ち止まり、彼女は深呼吸をひとつした。指の関節が白くなる。鍵穴は箱の側面にあった。銀色の小さな口。鍵は最初から差してある。誰かが先に用意した合鍵のように。
美雨が軽く力を込め、ゆっくり回す。金属がこすれる音。箱の中で何かが外れ、無数の歯車が連動して動き始める想像上の音が、レンの頭のどこかで鳴った。
その瞬間だった。ホールの照明が、昼から夕方に変わるように赤く反転する。音はしないのに、耳の内側で風が吠える。床の細いスリットが一斉に開いた。落ちる、と思ったが床は沈まない。天井の換気孔から冷気が降り、霧のような何かが舞い落ちる。白い、しかしすぐに透明になる靄。レンの鼻腔の奥に、薬品とも金属ともつかない冷たい匂いが張り付いた。心臓がひとつ鼓動を飛ばす。その空白のあと、脈は急に速くなった。耳の横で波が砕けるように、血が跳ねた。
床の黒い線が、じわ、と濃くなり、文字に変わる。誰かが床下から巨大なスタンプを押したみたいに、無機質な宣告が浮かび上がった。
正解は責任でした
声はない。だが、文字は声よりも大きく届いた。レンは喉で息を飲む音を聞いた。誰かの、ではない。自分の音だ。肺が縮み、視界の端が黒く滲む。美雨は鍵を握りしめたまま固まっていた。唇が少し震え、微かな白い息が漏れた。
「おい、脱落って、誰が」
体育会系の剛が叫んだ。誰に向けてでもない叫び。スピーカーはすぐには答えない。代わりに、ホールの端のカーテンが、ゆっくりと風に押されるみたいに揺れた。そこはベッドエリアと呼ばれていた。最初に案内されるとき、担当者が「休憩はここで」とだけ言い、薄いカーテンを指した。さっきまで、その一番奥で青年が眠っていた。フードを目深にかぶり、呼吸だけが布を動かしていた。誰も話しかけなかった。眠っている見知らぬ人間に、安易な言葉をかける勇気を、誰も持っていなかった。
カーテンの中に、いま、人影はない。布団の皺は、誰かが慌てて抜け出したような乱れ方もしていない。枕は冷たそうに沈んだまま。ベッドの上に置かれていた端末の画面が、すっと暗くなる。ホールの壁のモニターに並んでいた参加者一覧から、一つの名前が音もなく消えた。誰の名前だったか。レンは見ていなかった。見なかった自分を、次の瞬間に激しく悔やんだ。
「ふざけるな!」
誰かが足を踏み鳴らした。床のスリットが振動し、小さな埃が跳ねる。その跳ね方が、どうしようもなく人間的で、レンはそこに救いを求めたくなった。しかし救いは埃には宿らない。埃はただの塵だ。光がないときは見えないくせに、呼吸のたびに肺へ入り込む。
「説明しろよ! おい!」
剛の怒号は、ホールの高い天井にぶつかって、すぐに力を失った。スピーカーが咳払いのようなノイズをひとつ吐き、冷たい声が落ちてくる。
「上階へ」
それだけだった。四文字分の冷たさが、皮膚の上を滑っていく。命令に主語も目的語もない。だが、意味は致命的に明確だ。ここでは、誰も守られない。レンの脳裏に、その言葉が溶け出した。誰かが、ではなく、誰も。
美雨が鍵を離す。鍵は自動で元の角度に戻る。カチリ、という音が、骨に触れた。甲斐斗は椅子から立ち上がり、眼鏡の位置を直した。その手はほんのわずかに震えていた。合理主義は、無音の恐怖に弱い。数式は恐怖を計算しない。
「行こう」
蒼衣が言った。さっきの軽さではない。声が低く、言葉の端が荒れている。彼女の唇の周りには皮むけがあった。緊張すると、人は同じ場所を何度も噛む。
「どこに」
早智が返す。困った子どもみたいな声だった。年上のはずなのに、声は年齢を忘れていた。
「上階」
「でも、脱落って」
「ここにいても、何も起きない」
蒼衣は自分に言い聞かせるように言う。自分の言葉に背中を押してもらわなければ、足が動かないのだ。
レンは立ち上がる。膝裏がうまく伸びず、関節の中に砂がたまっているみたいだ。歩くことはできる。怖いのは、歩いてしまう自分の方だ。言われたとおりに動く体。従順と、恐怖の区別がつかなくなる。
ホールの奥に、灰色の扉があった。扉には装飾はない。真四角な金属の板。ノブもない。ただ、横に手を差し入れる溝が掘ってある。そこに手を入れて引けば、開く。こういう扉は、逃げるときに指を挟む。そんなことを考える余裕が自分にあることに、レンはぞっとした。恐怖は脳のどこかを鈍らせ、どこかを鋭くする。
最初に溝に手を入れたのは、美雨だった。彼女は振り返らない。肩甲骨が薄い肌着越しに浮いている。あの肩に、脱落という言葉の重さは乗っているだろうか。乗っているはずだ。目に見えないだけで。美雨は息を吸い、ゆっくりと扉を引いた。音はしない。真空の中で何かが動くみたいに、スムーズに開いた。冷たい階段が口を開ける。上へ上へと続いているが、階段の先には光がない。灯りは、登る人間が持ち込むものだけだ。
「待って」
背後で、誰かが小さく言った。レンが振り向くと、ベッドエリアのカーテンがまた揺れた。風はない。換気の空気の流れだけ。布の揺れが、誰かの手のように見えた。ひらひら、と別れを告げる手。レンは一瞬、その手を握り返したくなった。握ってしまえば、何かが救われる気がした。手を伸ばしかけ、指先で空気を握る。空気は形を持たない。指は自分の皮膚とぶつかるだけだ。
「行くぞ」
剛が言い、階段の最初の段に足を置いた。靴底が金属を踏む音が、冷たい。甲斐斗が続く。蒼衣、早智、結、他の誰か。皆の足音が、階段の蛇腹の中を上下に響かせる。レンは最後から三番目くらいに立った。背中に誰かの視線を感じる。振り向くか迷って、振り向かないことを選ぶ。振り向いた瞬間に何かと目が合うのが怖かった。生きているのか、いなくなったのかも分からない「何か」と。
階段は、意外に狭い。二人が並んで上ることはできない。手すりは冷たい。汗で滑りそうな手のひらを、レンは握り直す。三段、四段、十段。数えることで、現実を保つ。足を上げて、置く。上げて、置く。その繰り返しが、ひどく難しい作業のように思える。頭の中で、床の文字が反芻される。正解は責任でした。責任、と口の中で言ってみる。舌の根元が硬くなった。
踊り場に着く。壁の角に、かすかな傷がある。何年もの間、この角を何人が曲がったのだろう。塗り直されたはずの白い壁の下に、古い層が透ける。人間の皮膚が日焼けを繰り返したときのように、色の違いがまだらに出ていた。レンはそこに触れたくなる衝動を抑え、前を向く。
上から、冷たい風が降りてくる。風に匂いが乗っている。金属の匂い。血ではない。鉄の匂いが、血の記憶を呼ぶだけだ。足音が重なり、誰かの呼吸が乱れる。美雨の背中が少し揺れる。蒼衣が彼女の肘にそっと手を添えた。触れた時間は短い。誰かを支える手は、長くそこに留まれない。支える側も、支えられる側も、倒れてしまうから。
「ねえ」
結が、息の合間に小さく言った。彼女は前髪をピンで留めている。ピンが震えるたび、光が瞬く。
「『脱落』って、こういう意味だと思ってなかった」
「どういう意味だと思ってたの」
早智が答える。声は乾いている。喉が水を求めている。ここまで来る間に、水のことを誰も考えなかった。今になって、舌の裏がざらざらする。
「せいぜい、失格とか、退場とか……それで、帰れるとか」
「帰れる?」
「うん。怒られて、説教されて、帰されるとか」
「帰れるの?」
返事はなかった。足音だけが続く。誰もが自分の中で、帰る、という動詞の形を探していた。帰る場所の形を、思い出そうとしていた。レンの帰る場所は、急ごしらえの下宿の小さな部屋だ。机の端に溶けたカップ麺のフタが貼りついている。窓は小さく、夜の風は埃っぽい。ここに来る前夜、二重窓の間に挟まっていた小さな羽虫を指で潰した。その感触が、指先に残っている。帰ったら、窓を拭こう。そんな取るに足らない計画を、レンは心の中で作った。計画があると、人は少し生きやすい。
階段の次の踊り場に、細い扉があった。開いている。誰かがそこを見た。誰かが見ないふりをした。レンは横目でちらと中を覗く。狭い物置のような空間。白い壁、白い床。中央に立つ黒い柱。柱の側面に、小さなスリットが開いている。その中に、何かが入っている。四角い金属の箱。郵便受けみたいに、誰かが手紙を入れられる構造。だが差し込まれているのは手紙ではない。更に小さなケース、その中に折り畳まれた紙切れ。紙の端に、青いペンで引かれた線。誰かの筆跡。レンは目をそらした。見てはいけないと直感した。見ることが責任を生む。責任を取れないとき、人は目を閉じる。
「A-03」
背中から、声。甲斐斗だ。呼ばれて、レンは振り向く。彼の眼鏡のレンズに、階段の白が映る。瞳の位置がわずかにずれているように見えた。ほんの僅か。恐怖がピントを狂わせている。
「さっき、手を上げなかったね」
「うん」
「理由は?」
「分かんなかったから」
「分からないとき、人は多数に乗る」
「乗りたくなかった」
自分でも驚くほどはっきりと言えた。甲斐斗は一瞬だけ口角を上げ、それをすぐ消した。
「偉いね」
褒め言葉でも皮肉でもなく、ただの観察結果のようだった。レンはその単語を背負ってしまわないように、耳から離す。偉い、は、危ない言葉だ。人を立たせるふりをして、崖のふちに運ぶ。
階段はまだ続く。上に新しいドアが見えた。そこはたぶん、第二のフロアだ。扉の表面には、小さな擦り傷が無数にある。爪で引っかいたような細い線が、光を拾っていた。誰かが過去に、ここで躊躇い、戻ろうとして、戻れなかったのかもしれない。あるいは、別の意味。意味は、常に複数ある。
「着きました」
前を歩く蒼衣が言い、振り返る。額にうっすら汗。息は乱れていない。プロの作り笑顔ではない、ただの人間の顔。レンはその表情に、変な安堵を覚えた。偶像は崩れた方が、近くに来る。
扉の横に、また銀色の溝。美雨が、迷いながら手を入れる。今度は誰も、彼女に「任せたよ」とは言わない。任せる、という言葉が重すぎる。美雨は手を固くして、ゆっくり引く。扉がわずかに開き、冷たい空気がまた降りてきた。中は暗い。だが、闇の奥に、何かがぼんやり光っている。光は箱の形。木箱。第一階と同じものが、二つ。ラベルは違う。
右に「秤」。左に「穴」。
誰かが笑いそうになり、喉のあたりで止めた。笑いは逃避の薬だが、ここでは服用量を間違えると死ぬ。
「秤って、天秤の……」
結が言い、言葉が空中でほどける。穴。秤。どちらも抽象だ。幸福や責任よりも、いっそう答えの輪郭が見えない。秤は重さを比べる道具。穴は、落ちる場所、あるいは空白。どちらも、ここにいる私たちに近い。
スピーカーが、また静かに息を吐く。上の天井から。下からも。いつからか、声は場所を選ばなくなった。
「第2階へようこそ。規則は先ほどと同じです。多数決で箱を選び、最年少の方が鍵を回してください。正解なら上階、誤れば、脱落」
誰も何も言わない。第一階の結果が喉の奥に棘を残したまま、言葉を通さない。美雨の肩が小さく上下する。蒼衣が何か言いかけ、やめた。甲斐斗は目を閉じ、ほんの数秒だけ眉間に指を当てる。思考の筋肉をほぐす動き。剛は拳を握る。早智は舌で唇を濡らす。
レンは、扉の縁に片手を置いた。冷たい金属が皮膚から熱を奪い、手の甲の血管が細く収縮する。胸の奥で、見えない小石がコトンと音を立てて落ちた。第一階。正解は責任でした。では、第二階は。秤か、穴か。秤は、比較。穴は、消失。比較は、判断の責任。穴は、責任の放棄。前の正解に従うなら、秤が正解に近そうだ。だが、それは単純すぎる。ここは教育施設の形をした何かだ。単純な昇順は、許されない気がした。
「レンくん」
名前を呼ばれて振り向く。美雨だった。彼女は目の縁を少し赤くしている。泣いたわけではない。眠っていた誰かの消失を、涙に変換する時間がまだないのだ。
「さっき、手、上げなかったよね」
「うん」
「今回も」
彼女は言葉を飲み込み、代わりにレンの目を見る。その視線は頼っていない。救いを乞うのとも違う。誰かと同じ重さを持ちたい、という目をしていた。秤の皿に乗るための意思。
レンは頷いた。頷く動作は簡単だが、首の後ろの筋肉が痛んだ。その痛みが、判断の実感になった。
「では、挙手を」
スピーカーの声が、また平坦に落ちる。蒼衣が手を上げかけ、留める。剛は迷いなく右手——秤——に挙げた。甲斐斗は一拍遅れて、同じく右。早智は目を伏せ、左手を胸に当てたまま動かない。結がゆっくりと、右に。美雨は、数秒ののち、右に。レンは——
そのとき、階段の下から風が吹き上げた。いや、風ではない。空気の圧が、ひとつ段を飛び越すみたいに上へ抜けた。誰かが、遅れている。誰かがまだ、第一階のホールにいる。レンは振り返らない。振り返れば、その誰かの顔と目が合ってしまう。目が合った瞬間、何かの配列が変わる気がした。世界のフラグが別の方向に倒れる。ゲームの話ではない。現実の話だ。現実にも、見えないフラグはある。
レンは手を上げる。右に。秤に。腕が空中で重くなる。重さが増すたび、選択の重みという言葉が現実味を増す。重いから、正しいわけではない。だが、軽い選択がいつも正しいわけでもない。
挙手は過半数に達した。スピーカーは何も言わない。美雨の札が、また小さく光る。鍵のアイコン。彼女は一歩、木箱へ近づく。鍵穴は右の箱の側面に。鍵は、また最初から差してある。その事実だけで、ここがどれほど彼らの上に立っているかが分かる。いつでも、誰でも、回すだけでいい。回させるだけでいい。
美雨は鍵に手をかけ、深く息を吸った。レンも息を吸う。すべての胸が、同じ方向に膨らむ。ひとつの肺のように。この瞬間だけは、彼らはひとつの体になった。誰かが脱落しても、体は歩く。それが一番の恐怖だった。
鍵が回る。金属が静かに歌う。レンの心拍は、今度は飛ばなかった。飛ばないことが、正しいのか間違いなのかも分からない。
照明は、今回は赤くはならなかった。代わりに、白がさらに白くなった。真昼よりも白い白。目の中に白が溢れて、視界が焼ける。床のスリットは閉じたまま。天井から降りる冷気は、ほんの少し和らいだ。箱の蓋がゆっくり開く。中には、古い秤が入っていた。皿が二つ。皿の上に、黒い小石が一つずつ。石の側面に、白い文字。A-15。A-03。
美雨と、レン。
ホールの空気が止まった。呼吸の音が止まり、心臓の音だけが残る。レンは自分の名が彫られた石に目を固定する。彫りは浅い。指の腹で擦れば、消えるかもしれない。だが、擦る指はない。皿は揺れていない。重さは、同じだ。美雨の石と、レンの石が、同じ高さで止まっている。
「判断」
スピーカーが低く言った。声に温度がある。氷点の手前。
「秤を正すには、片方の重さを増すか、片方を減らすか、二つに一つです」
美雨が、喉を鳴らした。小さく、鳥の鳴き声みたいに。レンは手のひらが汗で濡れていくのを感じる。指の間を伝う汗は、冷たい。滴る前に、蒸発する。
「上階へ」
同じ四文字。だが意味はもう、さっきの四文字とは違って聞こえた。扉の向こうで、また階段が口を開けているのだろう。上るたびに、何かが剝がれる。皮膚か、心か、名前か。何が剝がれているのかを確認する暇は、与えられない。
誰もが知っている。ここでは、誰も守られない。それを知った瞬間から、人は自分の守り方を探し始める。正しさの重さを、皿に乗せなおす方法を。
レンは、美雨の横顔を見た。顔立ちは幼い。だが、顎の線が固い。歯を食いしばっている。彼女の肩に、目に見えない重さが積もっていく。秤の皿ではなく、彼女自身の上に。レンはそれを見て、ひどく静かに、恐ろしく落ち着いた声で、自分に言い聞かせた。
ここで選ばなかったものは、後で必ず自分に戻ってくる。
階段の口が、冷たい息を吐く。扉が、少しだけ開いている。白い光が細く走る。先に進め、と光は言わない。ただ、そこにある。存在だけで人を押し動かす光。レンは一歩、足を出した。美雨も、同じタイミングで。甲斐斗が後ろで、何かをメモした音がした。蒼衣が、唇の皮をまた噛んだ。剛が拳を握り直す音が、骨の中で鳴った。早智が、小さく祈る声を飲み込んだ。
階段の最初の段に足を置いたとき、レンはようやく気づいた。自分の靴底に、第一階の床の黒い線の粉が付着している。粉は指で触ればすぐに指先を黒くし、その黒が消えにくい種類の黒だろう。きっと、洗っても落ちない黒。今日の夜、もし帰れたとして、シャワーの床に黒い水が溜まるだろう。水は薄まっていく。黒も薄まっていく。薄まったからといって、無くなったことにはならない。
上へ。上へ。白い箱の中を、静かに歩く。誰も守られないと分かった世界で、レンは初めて、自分の手のひらの重さを意識した。手のひらは小さい。小さいからこそ、置けるものは限られている。その限られた皿に、何を、どの順番で、どのくらいの重さで置くのか。その選択が、これからのすべてになる。恐怖は消えない。だが、恐怖があるという事実だけが、いまのところの唯一の真実だった。
第二階の扉が完全に開き、冷たい匂いが喉に刺さった。レンは唾を飲み込む。美雨が小さく息を吸う。スピーカーが、何も言わない。沈黙が、今回の合図だった。沈黙が、教えるものだった。
誰も守られない。だから、誰を守るのか。自分か、隣か、まだ名前のない誰かか。答えは、階段の先でしか見つからない。レンはもう一段、上へ足を運んだ。足音が、白い箱の中に吸い込まれ、外の山の影の形を、遠い記憶に変えていく。彼らの影は、もう建物の外には映らない。曇りガラスは最初から、内側しか映さないように出来ている。そういう場所だった。
それでも、上へ。扉の向こうには、また二つの木箱が待っている。ラベルはきっと、もっと曖昧になる。抽象の濃度は上がり、人間の輪郭は薄くなる。名前は削られ、重さだけが残る。その重さを、レンは手のひらで受け取る準備をした。震えを押さえない。震えは、まだ人間だという証拠になる。震えを持ち込める限り、ここは、完全な無ではない。
上階へ。白い箱は、開くたびに冷たくなる。だが、冷たさの種類が少しずつ違うのを、レンは確かに感じていた。第一階の冷たさは、告知の冷たさ。第二階の冷たさは、選別の冷たさ。きっと第三階は、別の冷たさになる。名前は、まだない。名前を付けるのは、いつでも最後だ。名前は、物語の終わりに回される。今はただ、物語の中腹で、足を上げ、置く。その単純で、いちばん難しい運動を、続けるだけだ。
背後で、第一階の扉が、静かに閉まる音がした。カチリ。金属の軽い音。それは鍵の音ではなく、蓋の音に聞こえた。箱の蓋。誰かの蓋。世界の、どこかの蓋。音は一度だけ鳴り、ふたたび沈黙が戻った。沈黙は、ここでは一番の教師だ。レンはその授業を、逃げずに受けると決めた。震えた膝を、ひとつずつ前に出しながら。
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