一千光年の勇気 〜俺が彼女の宇宙一だった話〜

橄欖石 蒼

一千光年の勇気

 東京の某駅前、道行く地球人も外星人もどこか浮かれた様子の、金曜の夜。


 仕事帰りでスーツ姿の斉藤は、OPENのネオンが輝く鉄製のドアを押し開けた。店内は薄暗いグリーンの明かりで照らされ、落ち着いたジャズがBGMに流れている。


 ここはカウンター席といくつかテーブル席があるだけの、こぢんまりとしたバー『銀河の果て』。


 席はすでに埋まりつつあった。カウンターには斉藤と同じようにスーツ姿の男性が座っている。その横に、ゴミ袋みたいな身体に大きな眼球がそのままくっついた生き物がいた。そいつは自分でグラスから蛍光色の液体を浴びて、ブシュブシュと全身で吸収して嗜むタイプの常連客だ。


 他にも、親指サイズしかない毛玉でできた何者かがグラスの中にぷかぷか浮いていたり、ストローのような口のやつがグラスに入った紫色の泥をじゅるじゅると吸い込んでいたり——。誰もが三者三様に楽しんでいて、斉藤にとっても見慣れた光景だった。


 斉藤は空いていたカウンター席に腰掛けた。


「マスター、いつものください」


 ヒトの形をしているが真っ青な鱗のような皮膚に包まれたマスターが、畏まりました、と静かに答えてくれる。彼の声は渋くて良い。斉藤は仕事鞄を足元に置くと、ほっと息を吐きながら頬杖をついた。


 ある日突然「外星人との平和的な交流を開始します」なんてことが地球規模で発表されてからしばらく経った。初めこそ騒動にもなったが、気付けば斉藤の働く小売業者でも外星人からもたらされた何やらかんやらが商品として取り扱われるようになった。今では外星人の上司も同僚も後輩もいる。


 とはいえ、やる仕事は前と変わっていない。今日は「おたくの商品が動かない」というクレームの対応が一番疲れた。これは地球仕様だからそっちの星ではうまく動かないのだと何度言っても平行線。最後には自動翻訳を挟んでもなおピロピロとよく分からないことを捲し立てられて通信が切れた。一体どこの星なんだ、まったく。


「……どうぞ」


 マスターの青鱗の手が、斉藤の前にすっとオールドファッショングラスを差し出してきた。中には球の氷と、鮮やかに輝く蛍光イエローの液体。


「どうも」


 斉藤は早速それを口に含んだ。ピリッとしたスパイスを感じた後、柑橘のような香りが爽やかに鼻を抜ける。そして最後にはほのかな甘みがふんわりと残った。


 これが何で出来ているかなんて分からない。ただ、華金のこの一口のために一週間頑張っていると言っても良いくらい、生き返るような味わいだった。もしかすると、あのマスターの作る酒には不思議な力があるのかもしれない。事実はどうか分からないけれど。


 じっくりと噛み締めるように嗜みながら、腕につけたデバイスで時間を見る。あ、そろそろだ。そう思った瞬間、バーのドアが開いた。控えめなドアベルの音がチリリンと鳴る。斉藤はどきりと胸を鳴らして、わずかにそちらを見やった。


 入ってきたのは、艶やかな黒髪をポニーテールにまとめた二十代くらいの女性。涼やかな目元にすっと通った鼻、穏やかに微笑む口元。しゃきっと伸びた背筋でグレーのパンツスーツを完璧に着こなし、ヒールの音をこつりと優しく立てながら歩いてくる。


 彼女は毎週金曜日のこの時間に必ずここへやってくる。斉藤は、彼女に会うのが楽しみでならないのだ。とはいっても名前も知らなければ声をかけたことすらない。ただ一方的に憧れてこっそりと見ている、それだけの間柄だった。


 しかし今日の斉藤は決意していた。彼女に、一杯、奢る。そして名前を聞いて、お近づきになりたい。もう何ヶ月も彼女を見てきたのだ。だから勇気を出して、今日こそは。


 運の良いことに、斉藤の隣だけが空席だった。彼女は当然のように斉藤の隣に腰掛けてきた。花のような良い香りが斉藤の鼻をくすぐる。


「マスター、この方に、一杯、お願いします」


 彼女が席につくや否や、斉藤はしどろもどろになりながらマスターへと呼びかけた。驚いたように彼女がこちらを見る。その瞬間、斉藤の肩がわずかに揺れた。——席に着いてすぐ頼むなんて、怪しすぎるんじゃないか。


 やってしまった、と内心青ざめていると。


「……あの、良いんですか? ご馳走になっても」


 彼女から鈴のような声で問いかけられた。斉藤は隣を見やる。彼女は申し訳なさそうな表情をしていた。どうやら怪しまれたわけではないらしい。


「は、はい、もちろんです!」


 彼女がわずかに逡巡する様子を見せた。その黒い瞳が斉藤を捉えて離さない。そうして数度瞬きした後。


「……ありがとうございます。いただきますね」


 彼女が微笑んだ。今その微笑みは斉藤だけに向けられている。その事実が斉藤の頬と耳に熱を集めて、今にも火が出そうだった。


「私はリサといいます」

「あ、さ、斉藤です」

「お仕事帰りですか?」

「はい、近くのビルで働いてて」

「まあ、そうなんですね。私の職場もこの辺りなんです」


 斉藤は女性と話すのが得意というわけでは全くなく、ずっと緊張していた。しかしリサと会話する一瞬一瞬を、彼女が不快な思いをしないよう言葉選びに精一杯に気を遣った。ところがリサは聞き上手で話し上手で。気付けばお互いの仕事や趣味のことまで、いつの間にか緊張が解けて自然と会話を楽しんでいた。


 こうして二人が話している間も、カウンターの中ではマスターの青鱗の手が止まらない。丸くて赤いブヨブヨとした塊の搾り汁に黒い液体、黄金に発光する小さな粒々を、手際よく容器に混ぜ合わせていく。最後にマスターが指先でその容器をちょんとつつくと、ぱしんというかすかな音と共に一瞬だけ白い光が放たれた。


 出来上がった液体がカクテルグラスへと注がれていく。こっくりととろみのある、深い青色に所々で銀の粒の漂うそれがグラスを満たし、リサの前へと差し出された。


「『一千光年の勇気』です」


 カクテルの名前を告げるマスターがちらりと斉藤を見て、その視線と目が合い斉藤はハッとする。勇気、だなんて。今夜彼女に奢ると心に決めていたことをマスターは知っていたのか。しかし彼は何も言わずに緑色の眼をふるりと揺らすと背を向けた。


「いただきます」


 リサが斉藤へ小さく頭を下げる。斉藤も手の先をグラスへと向けて飲むように促した。リサの細い指先がグラスを手に取り、そっと持ち上げた。


「……きれい」


 リサはそう呟くと、グラスを口元へ運ぶ。その瞬間、控えめなルージュに彩られた形の良い唇が、上下左右に裂けてぐばりと大きく広がり、カクテルをグラスごと全て口に収めた。もにょもにょと何度か口が蠢いて、最後にはまるで下ろしたてのようにピカピカのグラスが出てくる。これだけのことをしているのに、不思議と全く音もしない。


 そして“一千光年の勇気”は一滴残らずきれいに飲まれていた。


 その様子を斉藤はうっとりと眺めていた。彼女の可憐な佇まいに加えて、大きく開いた唇の内側に沿ってびっしり生え揃った小さな牙、真っ赤で艶のある肉肌、四つに分かれた舌のようなもの……。初めて見た時は驚いて、持っていたグラスを落として割ってしまったけれど。子どもの頃から大好きなSF映画からそのまま飛び出してきたかのような彼女に、気づいた頃にはすっかり心酔していた。


 いつ見ても、何度見ても、美しすぎる。


「ごちそうさまでした」


 そう呟いたリサの口は閉じきって、ヒトと同じようにすっかり元に戻っていた。


 その後も静かに会話をしながら何杯か飲んだ。“一千光年の勇気”のおかげなのか、いつの間にかくすくすと笑い合うことも出来るようになった。やっぱりマスターの作る酒には、不思議な力があるのかもしれない。事実は分からないけれど。


「……斉藤さんは優しいですね」

「え?」

「これまで突然声をかけてきた人たちはみんな、下心が見え見えだったり、話したら話したで自慢話ばかりしたり、マウントをとってきたり。斉藤さんみたいに、対等に私の話を聞いてくれる人はいませんでした」


 リサがカウンターの上にある空になったグラスの縁を指先でそっとなぞった。斉藤はその指先を目で追った。何だか自分にも経験のあることばかりだ。そんな扱いを受けるの、嫌だっただろうな。


「あなたは本当に、優しい人です」


 彼女はそう言って斉藤と目を合わせて微笑んだ。


 ——優しい人。斉藤はグラスを握る手にわずかに力を込めた。もうリサとはこれ以上の関係になれることはないかもしれない、そう思った。


 これまでの人生、何度も優しい人だと言われたことはある。しかし、それまで。なんなら優しいだけでつまらないと揶揄われたこともあった。


 とはいえ、今夜は憧れていた彼女に一杯奢るという目標も達成できたし、こんなにたくさん話もできた。もうこれ以上は望むまい。そう考えたとき。


「斉藤さん、このあと予定はありますか?」

「えっ……。いえ、特には……」


 リサからのまさかの言葉にどきまぎしながら返事をすると、彼女は斉藤の耳へと唇を寄せた。


「……あなたを、食べたくなってしまって」


 ひそひそと放たれたその言葉にどくんと斉藤の心臓が跳ね、全身に一気に血が巡った。これは、そういうことなのか、それとも。いや、“一千光年の勇気”のおかげだと思いたい。ええい、どうにでもなれ……!


 結局、斉藤は顔を真っ赤にしたまま、こくりと頷いた。


 支払いを済ませて二人でバーを出る。地球人と外星人の客たちの静かなざわめきの中、チリリンとドアベルが小さく音を立て、鉄のドアが閉じた。


 二人でビル街の大通りを、無言で歩く。大通りから裏路地に逸れ、小さくネオンの輝くホテルの一室に入った。部屋の中は蛍のような光の粒がいくつもふわふわと浮いていて、キングサイズはあろうかという反重力ベッドが床より少し高い位置に浮かんでいる。


 二人の背後で部屋の自動ドアがぶぅんと軽妙な音を立てて閉じた。その途端、リサが何も言わずに斉藤の手を引いてベッドの前まで導くと、斉藤のジャケットを引き剥がす勢いで脱がせて、そのままベッドへ押し倒した。


「わ!」


 二人で倒れた衝撃で反重力ベッドが一瞬だけ沈むも、またふわりと浮き上がった。


 リサが頬をほのかに赤らめて微笑んでいる。彼女は斉藤の上に馬乗りになって、斉藤のネクタイをしゅるりと抜き取ると、そのままシャツのボタンも外して襟元をくつろげた。彼女もグレーのジャケットをすとんと脱ぎ落とす。顕になったノースリーブのブラウスから華奢な肩が覗いた。


 斉藤の心臓は、口から飛び出るのではないかというほど暴れていた。生まれてこの方、女性と成り行きでホテルに行ったことも、女性の方から押し倒されたことも、一度だって無い。おまけに相手がずっと憧れていたリサだなんて。“一千光年の勇気”がとんでもないことになってしまった。


 リサが見下ろしてきながら、その細い指先で、浅く呼吸している斉藤の喉元をつうと撫でる。


「……ほんとに、おいしそう」


 そう呟いたかと思うと、口が裂けて大きくぐばりと開いた。あのびっしりと生え揃った牙が、四本に分かれた舌が、斉藤を寸分の狂いもなく捉えている。


 ——ああ、そっちの、食べたいでしたか……。


 さすがに全て察した。この可能性を全く考えなかったわけではない。ただ、リサと深く触れあえることの方を、ほんの少し期待してしまっていただけ。


 暴れていた心臓と身体が徐々に落ち着いていく。このに及んで、このまま食べられたら次の月曜から会社に行かなくて済むな、なんてことを考えていた。


 なんかもう、自分の人生これで良いかも。だって今、目の前にある光景は。


「……綺麗だなぁ……」


 斉藤が呟いた一言に、リサの動きが止まった。今まさに斉藤を頭から食わんとする体勢のまま。


「……あれ……?」


 斉藤はほんの少しだけ首を傾げた。あまりにも事が進まない。しばらくしてリサの長い四本の舌が、ちろりと斉藤の頬を舐めた。それは意外にも生温かく、実家の犬に舐められたような感覚だった。


 リサの大きく裂けた口がしゅるしゅると閉じていく。そして最後には、頬を真っ赤に染めて至極困った表情をした、いつものリサの顔に戻った。


「食べないんですか」

「……食べません」


 リサは斉藤の上から退きながら言うと、ベッドの縁に腰掛けた。


「……そうですか」


 斉藤も身を起こして、あぐらをかいた。指でぽりぽりとリサに舐められた頬を掻く。どうやら命拾いしたらしい。


「……すみませんでした」


 ベッドの縁でリサが俯いている。


「あの、罪滅ぼしといいますか……。今から私を、地球人の男性がするようにしていただいて構いません」

「ぇえ?」


 斉藤から素っ頓狂な声が出た。


「いや、それは、さすがに」

「大丈夫ですから」

「ほら、もう俺なんか今、使い物にならないですし」

「使い物にならないって……?」

「真顔で尋ねられると困るなぁ……」


 よくわからない押し問答が続いて、二人とも黙りこくった。リサはベッドの縁に腰掛けて俯いたまま、斉藤はベッドの上であぐらをかいたまま。


「……あの、なんでこんなことを?」


 しばらく続いた沈黙を破ったのは斉藤だった。問いかけに、リサは両手を膝の上でぎゅっと握り合わせた。


「……私の種族は一生に一度だけ、優秀な知的生命体を捕食するんです」

「優秀な、知的生命体?」

「はい。バーで話した時から斉藤さんはずっと優しくて……。私がこれまで出会ったどの知的生命体とも、比べ物にならないくらい優しいから。食べたくなったんです」

「……ん? ちょっと、意味がわからない」


 斉藤はつい自分の額に片手を当てた。つまり、斉藤がリサの種族にとって優秀だったから捕食対象になった、と。やっぱり意味がわからない。


 自分が優秀だと思ったことなどないし、言われたこともない。普通の学校を出て、普通の会社に就職して、普通に生きているだけ。なんなら地球人男性としてはモテない部類だ。いつも“優しい人ね”と言われるだけで終わってきた。


 ——待てよ、優しいが、何だって?


「……リサさんの種族にとっては、優しいことが、優秀ってことですか……?」

「それ以外あり得ません。地球では違うのですか?」

「えええ……」


 青天の霹靂とはこのことだ。頭をフル回転させるが理解が追いつかない。これまでの人生で経験してきた価値観をひっくり返すようなことが、こんなにたった一瞬で起きるだろうか。いや、今起きたのだけれど。


 目を白黒させる斉藤をよそに、リサは頬を赤らめたまま自分の両手で自分の頬を包んだ。


「しかもですよ、死を目の前にしても『綺麗だなぁ』なんて、優しいにも程があります! ああ……少し舐めたらとんでもなく美味しかったし……」


 リサの表情がうっとりしていく。


「これ以上の優秀な相手には、宇宙広しと言えどきっともう二度と出会えないわ。慣例通りに食べて終わりなんて、そんなの……!」


 リサが、あぐらをかいたままの斉藤の前にずいっと近寄って、斉藤の両手をがっしりと握った。彼女の目はきらきら輝いている。


「斉藤さん! 私のつがいになってください!」

「は!?」

「お願いします!」

「ちょ、番って、待って待って! こういうのにはね、順序があるんです!」

「お願いします!!」

「だから待ってええ!!」


 土下座する勢いのリサを何とかなだめて、まずはお友達から始めることになった。連絡先を交換した後は何事もなくホテルを後にして、斉藤もリサもそれぞれ家路に着いたのだった。


 ——ということがあったのが三年前。


 夜明け前のまだ薄暗い寝室の中、キリキリキリ……という歯軋りともつかない音に、斉藤は目を覚ました。腕につけた極小デバイスを軽く振ると、ふわりと空中にホログラムで文字が浮かび上がる。AM3:00、そう書かれていた。


「……もうそんな時間か」


 ぽつりと呟いて大あくびをすると、静かにベッドを抜け出す。隣に置かれている小振りながら柵の高いベッドへと歩み寄り、中へと手を伸ばした。


 キリキリと音を立てているそれを抱え上げ、軽くぽんぽん叩いてあやしてやる。円状の肉塊からミミズのような触手が五本生えたなりのそれは、キリキリ音を立てるのをやめた。その代わり今度はきゅうきゅうと可愛らしい音を出しながら、触手の一本が甘えるように斉藤の腕に絡みつく。


「……あら、起きちゃったの?」


 もぞもぞと布の擦れる音を立て、斉藤が抜け出したベッドからもう一人が起き上がった。艶やかな黒髪をかき上げながら目を擦ったのは、リサ。


「うん、腹が減ったみたい」

「もうそんな時間なのね」


 リサも大あくび。口が上下左右に裂け、びっしり生えた牙や四本の舌が覗く。


 リサが緩慢な動作でベッドから降り、二人と我が子でキッチンへと向かった。自動で照明がついて、リサが湯を沸かし、斉藤は子どもを抱えたまま、棚から地球には無い文字が書かれた金属製の箱を取り出した。


 これはいわゆる「リサの種族向けの乳児食」。リサの故郷の星から取り寄せた。なにせ一千光年も離れている星なので、ワープがあると言えど届くまではさすがにちょっと時間がかかった。


「うちの子も、地球産の乳児食を食べてくれると助かるんだけど。毎回個人輸入はちょっと大変だよね」


 斉藤が箱の中から茶色いフレーク状のものを皿に出しながら言った。


「そうね。でも、◯*☆♪¥が入ってないんだもの、地球産だと」

「ん? 何て……? あ、リサの星で乳児に要る栄養素ってやつか。だから地球産のは食べてくれないのかなぁ」 


 斉藤の用意したフレークの上からリサが湯を注ぐ。それは急速に冷えながらたちまちふやけて柔らかくなっていった。斉藤の腕の中で、子どもが五本の触手を嬉しそうにぱたぱた揺らしてきゅうきゅうと鳴く。


「さ、どうぞ」


 斉藤は子どもを皿の前の椅子にそっと降ろした。触手のうちの一本の先端が、リサの口のように四つに裂ける。そのまま皿に突っ込んだかと思うと、もちゃもちゃと勢いよく食べ始めた。斉藤は子どもの肉塊の部分を優しく撫でてやる。


「うちの子、ほんとに俺たちみたいな姿になるの?」

「なるわよ、もう二年くらいで」

「……不思議だなぁ」


 あっという間に皿から綺麗に平らげた我が子は満腹になったらしく、今度はリサの方へと触手を伸ばしてきた。リサが優しく抱き上げると、その腕の中で丸まってくうくうと小さな音を立て始める。この音は眠ってしまった時の音。リサが微笑みながら触手を撫でた。


「……あの時、あなたを食べなくて良かった。食べちゃってたらこの子にも会えなかったし」

「またその話?」


 小さく笑う斉藤とリサの目が合う。


「あなたがあんなこと言うから……調子狂っちゃって」

「だって、本当に綺麗だったんだ」


 斉藤がふわりとリサの肩を抱く。リサも素直に斉藤へと頭を預けた。


「でもね、あなたは今でも美味しそうよ」

「こわ……」


 そう言いつつ斉藤は苦笑した。本当はもうちっとも怖くなんてないけれど。


「食べられたら俺死んじゃうよ」

「そうよ。でもそれだけは絶対に嫌。……ねえ、いつものさせてもらってもいい? ちょっとお腹空いちゃった」


 リサが上目遣いで見上げてくる。


「ははっ、いいよ」


 斉藤とリサは寝室へ戻った。リサが、腕の中でくうくう寝息を立てている我が子を、起こさないようゆっくりゆっくりベビーベッドの中に置いて手を離した。二人でベッドのそばでじっと息を潜める。しばらくしても子どもが動く様子はない。よく眠ってくれているようだ。斉藤はリサと顔を見合わせて一緒にホッと息をつき、自分たちのベッドの縁に並んで腰掛けた。


 斉藤は自分のシャツの袖をまくり上げた。リサの口が大きく四方に裂ける。そのまま斉藤の前腕を、あむっと口に含んだ。彼女にとって斉藤は今でも捕食対象であることに変わりない。そこで折衷案として、こうして身体の一部を時々彼女の口に含ませてあげているのだ。


「くすぐったい……」


 斉藤は奥歯を噛み締めて、何とか笑い声を抑え込む。子どもを起こしてしまっては敵わない。


 リサの口内の肉壁が皮膚に吸い付き、牙が甘噛みする。四本に分かれた舌は、前腕に絡んでは舐める動きを繰り返した。斉藤はちらとリサの顔を見やった。暗がりでも分かるほど、彼女の表情は恍惚としている。


「はあ……」


 満足したらしいリサが、小さく吐息を漏らして斉藤の腕を解放した。


「食べなくてもこうするだけで十分満足できちゃうだなんて、未だに不思議よ」


 元の顔に戻ったリサが、自分の唇を長い舌でちろりと舐め取りながら笑う。斉藤もつられて笑った。自分たちはよほど相性が良いのかもしれない。捕食対象としても、番としても。


「……あ、そうだ」


 斉藤がふと思い出して、腕の極小デバイスを軽く何度か振った。ホログラムで浮かび上がったのはポップでカラフルな広告。


「地球でも、外星人向けの託児サービス始まったんだってさ」

「へえ……」


 リサがぱちぱちと目を瞬かせて広告を見る。


「子どもちょっとだけ預けてさ、また行こうよ、『銀河の果て』」


 それは、二人が出会ったバー。東京の某駅前の、あのこぢんまりとした店。


「そろそろ結婚記念日だし」


 得意気に話す斉藤へ、リサがくすくすと笑う。


「あなたってマメよね。記念日とか、その日には特別なご飯を食べるとか。私の星にはそんな文化なかった。地球人の男性はみんなそうなの?」

「うーんどうだろう。でも多分、俺自身はマメだと思うよ」


 小首を傾げるリサが可愛らしくて、斉藤はぎゅっと彼女を腕の中に閉じ込めた。


「……ほんと、優しいんだから」


 リサの華奢な腕が背中に回されて、同じように力を込めてくれる。斉藤は彼女のほんのり冷たい体温を感じながら、穏やかに息をついた。


 『銀河の果て』に行ったらまた頼むつもりだ。あの“一千光年の勇気”を。あの時は「あなたを食べたくなってしまって」なんてやり取りがあったけれど、今では「二人で食べさせている」。本当に、奇妙なこともあるものだ。


「託児の予約しなくちゃね」

「うん」


 抱きしめあったままリサが笑って、斉藤もこくりと頷いた。


 ——あの一杯からできた二人の道はいつの間にか地球の片隅で、静かに続いている。




 おわり

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一千光年の勇気 〜俺が彼女の宇宙一だった話〜 橄欖石 蒼 @kanransekiao

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