情炎の果てに立つ、君を愛した責任~愛の残響、そして託された命の重み~

舞夢宜人

第1話 境界線の崩壊


 鳴り響いた電子ブザーの無機質な音が、瀬戸 陽斗(せと はると)の高校三年間の部活動に終わりを告げた。体育館のフロアに、汗と涙で濡れた選手たちが崩れ落ちる。インターハイ予選、決勝リーグ。一点差で敗れた相手校の歓声が、やけに遠く聞こえた。陽斗もまた、ユニフォームの裾で顔を覆いながら、熱気と湿気のこもった床に膝をついた。悔しさよりも、すべてが終わったという喪失感が胸を占める。もう、この体育館でボールを追うことはない。ロッカールームで、泣き腫らしたチームメイトたちと最後のミーティングを終え、陽斗は一人になった。シャワーで汗を流しても、敗北の重さは洗い流せない。ぼんやりとした頭で、陽斗は旧校舎へと足を向けた。彼には、戻るべき「日常」がまだ残っていたからだ。運動部に所属しながら、陽斗はもう一つの顔を持っていた。幼馴染の水瀬 咲(みなせ さき)と共に籍を置く、写真部の部室。それが彼の本当の居場所だったのかもしれない。


 旧校舎の三階、一番奥。引き戸を開けると、古い薬品のツンとした匂いと、陽光で暖められた床板の埃っぽい匂いが、陽斗を迎えた。


「陽斗」


 水瀬 咲が、彼の名前を呼ぶ。彼女は、丸テーブルに頬杖をつき、陽斗の姿を待っていたようだった。その距離は、他人が見れば不自然なほど近い。けれど、物心ついた時から隣にいる陽斗にとって、それは呼吸と同じくらい自然なことだった。


「ん?」


「……お疲れ様。見てたよ」


 咲は、くすくすと笑いながら、自分のマグカップを陽斗の前に滑らせた。安っぽいプラスチック製のカップから、インスタントコーヒーの甘ったるい香りが湯気と共に立ち上る。


「……そうかも」


 陽斗は曖昧に笑い、その席に着いた。レンズの表面には、窓から差し込む初夏の西日が、細かな埃の粒子を反射させていた。オレンジ色の光が、この澱んだ空気の中で聖なる光のようにきらめいている。会話が途切れる。しかし、苦にはならない。この沈黙こそが、陽斗と咲の関係そのものだった。言葉にしなくても伝わる安心感。あるいは、言葉にすることを互いに放棄した、甘やかな停滞。部活は終わった。だが、おそらくはこの先もずっと、咲とのこの曖昧で責任のない関係が続いていく。陽斗は、何の疑いもなくそう信じていた。それは、彼が高校三年生の初夏に抱いていた、あまりにも甘く、無責任な信念だった。


 その箱庭の均衡を破ったのは、乾いたノックの音だった。コン、コン。陽斗と咲は、同時に顔を上げた。来訪者など、ほとんどない部室だ。陽斗が反射的に「どうぞ」と声をかけると、古い引き戸がゆっくりと開いた。


 そこに立っていたのは、青井 葵(あおい あおい)だった。陽斗とはクラスが違うが、その存在は校内でも際立っていた。常に学年トップクラスの成績。凛とした佇まい。そして、他者の介入を許さない、理知的な雰囲気。葵の登場で、部室の澱んだ空気が一瞬で張り詰めた。彼女が纏う清潔な石鹸の香りが、この部屋の古い薬品の匂いを圧していく。


「……水瀬さんも、いたのね」


 葵は、陽斗と咲の近すぎる距離を、その冷静な瞳で一瞥した。感情の読めない声だった。


「青井さんこそ、どうしたの? 写真部じゃ、ないよね」


 咲が、わずかに声のトーンを硬くして応じる。陽斗は、二人の間に走る見えない火花を感じ、居心地の悪さを覚えていた。


「瀬戸くんに用があるの」


 葵は咲の視線を真っ直ぐに受け止めると、陽斗に向き直った。


「瀬戸くん、少し時間をもらえる?」


 その揺るぎない声に、陽斗は頷くことしかできない。立ち上がろうとした陽斗の制服の袖を、咲が、無意識に、しかし強く握りしめた。陽斗が驚いて咲を見ると、彼女は慌てて手を離し、俯いてしまう。その指先が、不安を示すかのように小さく震えていた。


 旧校舎の廊下は、西日を受けて床が赤く染まっていた。葵は、陽斗よりも二歩先で立ち止まり、振り返った。逆光の中で、彼女の黒髪のショートカットが鮮やかな輪郭を描く。


「部活、お疲れ様。今日の試合、見てた」


「あ……ありがとう」


 葵が試合を見に来ていたとは、陽斗は知らなかった。


「ううん。……それで、本題に入る」


 葵は一度だけ息を吸い込むと、真っ直ぐに陽斗の瞳を射抜いた。


「単刀直入に言う。あなたのことが好き」


 陽斗は、息を呑んだ。思考が停止する。葵の理知的な瞳の奥に、陽斗が今まで知らなかった確かな情熱の炎が揺らめいていた。


「あなたが部活を引退するのを待っていた。……私と、付き合ってほしい。ただ、馴れ合いや、今のあなたの曖昧な関係は望んでいない。私と、責任ある関係を前提に、付き合ってほしい」


 責任。その言葉が、引退で空っぽになった陽斗の胸に重く突き刺さった。葵の知性には、ずっと憧れがあった。彼女との会話は、咲との依存的な空気とは違う、刺激的なものだ。しかし、彼女の手を取ることは、咲を失うことを意味する。その決断の重さが、陽斗の喉を締め付けた。


「……ごめん。急には、」


「答えは今じゃなくていい」


 葵は、陽斗の優柔不斷さを見透かしたように、静かに続けた。


「でも、あなたの答えは、あなた自身のものじゃなきゃダメ。……誰かのためじゃない、あなたの答えを聞かせて」


 それだけ言うと、葵は陽斗に背を向け、迷いのない足取りで階段を降りていった。廊下に一人残された陽斗は、自分の手のひらが冷たい汗で湿っていることに、ようやく気がついた。


 重い足取りで部室に戻ると、咲は窓の外を眺めていた。その背中は、ひどく小さく、頼りなげに見えた。


「……何を言われたの?」


 咲は、振り返らないまま、震える声で尋ねた。陽斗は言葉に詰まる。葵の真剣な告白を、どう伝えればいい。いや、それ以上に、この依存的な幼馴染に、どう切り出せばいいというのか。


「いや、その……進路の、ことで」


 陽斗が、我ながら最低だと思う嘘を口にした、その瞬間だった。咲が、猛然と振り返った。その瞳は、不安と、陽斗が初めて見る激しい独占欲で潤んでいた。


「嘘!」


 咲は、陽斗の胸倉を掴んだ。華奢な体からは想像もつかない力だった。彼女は、陽斗をよろめかせ、そのまま部室の隅にある現像用の暗幕の中へと引きずり込む。平衡を失った陽斗が壁に背中を打ち付けると、咲は彼の両腕を壁に押さえつけた。暗幕が下ろされ、西日が遮断される。世界は、古い薬品のツンとした匂いと、咲の荒い呼吸の音だけが支配する暗闇に変わった。


「陽斗は、私のものだから」


 咲は、涙に濡れた声でそう囁いた。そして、葵への牽制と、失われかけた境界線を再設定するかのように、熱を帯びた強引なキスを陽斗の唇に叩きつけた。


 それは、陽斗が知っている、いつもの甘やかなキスではなかった。咲の涙で濡れた睫毛が、陽斗の頬を打つ。彼女の唇から伝わってくるのは愛情ではない。陽斗を失うことへの絶望的なまでの渇望だった。


 暗闇と、薬品の匂い。陽斗は、咲の行為が間違っていると頭で理解していた。葵への裏切りであり、咲の依存を助長させるだけだと。だが、その背徳感と同時に、抗いがたい性的興奮が湧き上がってくる。陽斗の体の奥底から、その興奮を止められなかった。


 葵の理知的な告白と、咲の強引なキス。二つの強烈な刺激が、陽斗の中で長年保たれてきた均衡を粉々に破壊した。誰も傷つけたくない。その甘い嘘が崩れ落ちた暗闇の中で、無責任で身勝手な欲望が産声を上げた。全員から愛されたい。全員を独占したい。その欲望が、確かに産声を上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る