平成サウンド・ルネサンス――呪縛を祝福へ
@U3SGR
第1話
外の「危険等級の酷暑」は、街路をかすめる陽炎にまで番号を振ってしまう。最寄り駅に着くと、アスファルトの熱が靴底から脈を打ち、思わずコンビニへ避難した。冷房の白い息に包まれながら、私は値札の数字をじっと見つめる。十月からの価格改定が先回りして貼られた缶チューハイ、いつの間にか内容量が痩せたスナック菓子。かごの底に落ちるたび、硬貨の感触が指先の温度を奪っていく。
こうして小さな支出に身構えるのは、仕事の帰り道が長くなったからでもある。毎日の残業は、もはや「例外」ではなく「仕様」になった。「労働様式刷新策」が始まって五年——それでも会社では、残業枠協約・零号の文字が配布資料の端でまだ眠っている。テレワークの実施率8.4%という数値は、掲示板に貼られた安全ポスターのように、現場の空気を一ミリも動かさない。
四十歳。来年には四十一になる。数字は一つ増えるだけなのに、心の中では項目が増える。独り身の暮らしは、たしかに気楽だ。冷蔵庫の中身も、休日の時間割も、すべて自分で決められる。その自由は軽い羽毛のようで、いつしか「このまま」を包む毛布になった。ところが今夜に限って、その毛布の端がほどける音がした。漠然という名の影が、光熱費や保険料、医療費の見積もり表に置き換わり、影はもう“具体的なお金の不安”と名乗り始めている。
統計では、四十代は将来不安が最も高い世代だという。私はその平均の中にいるのだろうか。それとも、平均より少し下で強がっているのだろうか。数字は慰めにも刃にもなる。レシートの端に印字された合計額を丸める指先に、昼間の会議で握りしめたボールペンの癖が残っていた。
だからといって、拙速に転職サイトを開くわけでも、婚活アプリを滑らせるわけでもない。望むのは劇的な転機ではなく、明日も同じ鍵で同じドアを開けられる保証、そのための手触りだ。たとえば、今月の固定費を一行だけ軽くすること。たとえば、次の昇給が来ないとしても、来なかった事実を飲み込める備えを一つ増やすこと。小さな選択を並べていけば、気づかぬうちに「このまま」は「まだ大丈夫」へと呼び名を変えるのかもしれない。
店を出ると、夜風がわずかに温度を落としていた。信号の青は短く、赤は長い。それでも、渡り切った先に自分の影がついてくる限り、私は歩幅を測り直せる。四十から四十一へ。その一の増分を、失点ではなく、計画という得点に付け替える——そんな試合運びを、明日から静かに始めてみようと思う。
気づけば私の人生は、「大きな転機」を待つ舞台ではなく、値札とニュースをにらみながら資産を守るだけの作業台になっていた。上がり続ける物価、薄く延びる将来予測。防衛という名の家事を、毎日、黙々とこなしている。転機よりも、今日という勘定——そう思ったところで、汗の滴が現実に引き戻す。
最寄駅から十五分。連日「危険等級の酷暑」と報じられる熱波は、歩幅の数だけ体力を削っていく。やっと辿り着いたエントランスで、エアコンの冷気がTシャツの汗を一気に冷やし、さっきまでの灼熱が嘘のように引いていく。高温から低温へ、体の外側が素早く切り替わる。その反動のように、内側の温度だけが取り残される。
この部屋は、一人暮らしとしては上出来だと今も思う。五年前、思い切って分譲で購入した。我が家という言葉の手触りは、ローンの重さと引き換えに、確かな居場所をくれた。趣味はあるが、見た目ほど散財はしない——そう自負していたから、貯金も“それなりに”あった。玄関に鞄を置くたび、その“それなり”が静かな誇りになっていた。
だが、2024年は、その誇りに過去形の影を落とす。レシートの合計欄、電気代のグラフ、保険の更新通知。四十代が統計上もっとも金銭不安を抱えやすい——そんな記事は、慰めにも警告にもなる。私も例に漏れず、「新少額投資免税制度〈シーナ〉」の口座を開いた。攻めより守り。大勝より取りこぼしを減らす。小さな防壁を一段、また一段と積むように。
そして、積み上げた一段一段を撫でながら思う。劇的な上昇ではなく、崩れない勾配を選ぶこと。十五分の道のりを短くはできないが、歩幅は調整できる。同じように、未来の暑さは変えられなくても、いまの体温は整えられる。そうやって今日をつなぐうち、防衛は作業台から設計図へと呼び名を変える。明日もまた、同じ鍵で、同じドアを開けるために。
三十五歳の私は、たぶん何かの風向きを変えたかったのだと思う。大きな転職でも結婚でもない、もっと手に触れる変化——帰る場所の名前を「賃貸」から「我が家」に替えること。そう決めたとき、視界の端に一枚の値札がふいに光った。
水害でわずかに水没した、と但し書きのあるエリアの物件が、常識外れの安さで並んでいた。見学に出向くと、陽当たりも悪くない。エレベーターの前には、売主が用意した過去の修繕記録がきちんと綴じられている。値段の数字は、こちらの鼓動よりも静かだった。その静けさが、逆に心を急がせた。
今になって思えば、年初の岬ヶ原地震の余韻を考慮すれば、慎重さをもう一枚重ねるべきだったのかもしれない。いまでは八割の人が災害危険度図を確認するという調査もある。けれど当時の私は、紙の地図より、目の前の鍵の重みを信じた。地図は未来を指し示す。鍵は現在を回す。私は現在を選んだ。
行政は「この地域の水害対策をしっかり進める」と明言し、マンションの安全性も点検済みだと説明された。そもそも水が入り込んだのは一階の床下だけで、適切な補修を施せば構造的な問題は残らない——そう聞けば、値段の説得力はさらに増す。私の購入予定は三階。ならば直撃の心配は少ない。そうやって不安を一つずつ言葉に変え、言葉を根拠に変え、根拠を決断に変えた。
そして私は、その決断に署名した。インクが乾くまでの短い時間、心は確かに軽かった。いま振り返ると、その軽さは値札の軽さでもあったのだろう。それでも、あのときの私が求めたのは「動くための理由」だった。後知恵という名の静かな影が、当時の私の背中にそっと手を置く。——あの鍵を回した音を、いまも私ははっきり覚えている。
長く住めば、どんな場所にも綻びのひとつやふたつは見えてくる。年の初め、岬ヶ原地震のニュース映像を眺めてから、その感覚は急に輪郭を持ち始めた。毎年のように更新される「危険等級の酷暑」、瞬く間に街を呑み込む水害。その脅威を思えば、「その時はその時だ」と笑い飛ばして水没エリアの物件を選んだ、あの頃の自分は、たしかに楽観的だったのかもしれない。だが今の私は、新少額投資免税制度〈シーナ〉で細々と資産を防衛するのが精一杯で、この部屋から軽やかに離れていく選択肢など、現実には持ち合わせていない。
それでも、購入した当時は信じていた。この鍵を手に入れれば、人生の風景が少し変わるのではないかと。玄関のドアを開ける音が、新しい物語の幕開けになるような気がしていた。しかし、五年は驚くほど静かに過ぎ去った。昇進も、劇的な出会いも、ドラマのような転機も訪れないまま、気がつけば物価高と、再生電力負担金〈リアット〉が上乗せされた電気代の明細に目を細める日々だ。いざとなれば在宅避難を、と口では言いながら、備蓄は中途半端な段ボール数箱だけ。その曖昧さこそが、「今」という時間の正体なのだと苦笑する。
エレベーターのドアが閉まり、ゆっくりと三階へ運ばれていく間、その「今」と向き合うことになる。自宅のドアを開け、靴を脱ぎ、シャワーで汗と街の熱気を洗い流す。ジャージに着替え、いつものソファに腰を沈める。ローテーブルの上に並べるのは、十月からの値上げが決まった缶チューハイと、気づけば容量だけ痩せていた安いつまみ。かつてはささやかな贅沢だったそれらが、今では「まだ大丈夫か」を測る目盛りに変わっている。
夕食は職場の近くで軽く済ませてきたから、腹はもう足りている。あとは飲み物と静けさがあればいい。そしてふと気づく。明日は仕事が休みだ。テレワーク実施率の低い職場から、丸一日だけ解放される。たった一日の猶予にすぎないが、それでも私の中で何かが少し緩む。この部屋を選んだあの日の自分と、〈シーナ〉にすがりつく今の自分。そのどちらも抱えたまま、缶を一本開ける音が、小さく夜に溶けていく。
テレビをつけると、画面いっぱいに鮮やかな青が広がった。今週末に開幕するアルジュール世界競技祭の特集だという。史上初めてリュミエール運河を舞台に行われる開会式——水上を行進する選手団、歴史的建造物を照らす光の演出、その完成予想図を、アナウンサーは陶酔気味の声でなぞっていく。エアコンの風が頬を撫でるリビングの片隅で、その熱狂だけが「どこか遠い祝祭」の音のように聞こえた。
「今日は、二〇二四年七月二四日の金曜日だったか……」と、缶を持つ手の中で小さく確認する。チビチビと一口ずつやりながら、華やかなプレビュー映像をぼんやり追う。これから数週間、アスリートたちは「遠いアルジュール」で自分の人生をかけて競い合うのだろう。その眩しさを見ていると、ここでひとり缶チューハイを傾けている自分の時間だけ、わずかに速度を落としているように感じられる。
特集が締めくくられ、スタジオの拍手が途切れた瞬間、空気が一段低くなった。ニュースキャスターが神妙な表情で原稿に目を落とす。『東都競技祭入札不正事件、栄宣グループに罰金三億円の有罪判決』。テロップには、組織委員会元次長が起訴内容を認めたこと、元理事をめぐる贈賄でARKコミュニケーションズ前社長が「大会に汚点を残した」と断罪されたことが次々と映し出される。四年前の祝祭が、今さら帳簿の端で清算されていく様子を眺めながら、さっきまでの水上セレモニーの眩しさが、急に白々しいライトに見えてくる。
スポーツそのものは嫌いではない。必死に走る選手の呼吸も、ゴールの瞬間の歓声も、胸にくるものはある。ただ、今、画面の中で値踏みされている「祝祭」と、その裏側で積み上がる数字や判決文を見せられるたびに思うのだ。自分が本当に救われてきたのは、スタジアムの歓声ではなく、一枚のアルバムや、一曲のイントロだったと。リモコンをテーブルに置き、小さく息を吐く。——そう、俺の趣味は、やっぱり音楽なんだよな。
テレビは、アルジュール世界競技祭のきらびやかな特集から、四年前の祝祭の「清算」を告げるニュースへと、音もなく態度を変えた。祝砲と罵声が同じ画面に押し込まれるのを見届ける前に、私はリモコンを押す。静寂が戻る。代わりに手を伸ばしたのは、薄い光を放つスマートフォンだった。
スクロールする親指の向こう側で、Axis(旧Feather)のタイムラインが忙しなく更新されていく。その流れをふと止めたのは、「音楽生成AI『Sona』が制作」というタグの付いた一曲だった。私はスマホをテーブルに置き、居間の隅に立てかけてある愛用のギター、リュミナス・ソリッドを手に取る。ネックに触れた瞬間、さっきまでのニュースのざらつきが、少しだけ指先からこぼれ落ちる。
Sonaの曲を再生する。スピーカーから流れてきたのは、「それらしく」整った旋律だった。耳に馴染むコード進行、どこかで聴いたようなフレーズたち。寄せ集めのはずなのに、耳障りは悪くない。半ば反射的に、私はそのラインを耳コピーでなぞり始める。指板の上で指が迷いなく滑っていく。「久しぶりに弾いたな」と、自分の中のどこかが苦笑いする。
プロンプトを打ち込めば、AIはいくらでも新しい曲を吐き出し、それらを途切れなく次の曲へとリレーしてくれる。終わりのないプレイリスト。ソレイユ映像音楽社やユニゾン・グローバルレコーズが、SonaやAudiaを著作権侵害で提訴したという記事も、同じタイムラインで見かけた。この速度、この量産、この即席の熱狂。彼らはそれを「高速音響潮流(ファストサウンド)」と呼ぶらしい。
私はリュミナス・ソリッドの弦を軽くはじき、その言葉を反芻する。世界は加速し、音楽さえも「速く」「多く」「すぐに忘れられる」ために生まれては消えていく。その流れの端で、久しぶりに鳴らした自分の一音が、妙に生々しく部屋に残った気がした。AIが無限に奏でる「それらしい曲」と、拙くても自分の指で選んだ音。その境界線を確かめるように、もう一度ゆっくりとフレーズをなぞる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。