ジェムストーンズ『GemStones』

@Tashito_Sprite

第1章 真実と目覚めのあいだ

もし、この世界に二つの王国しかないのだとしたら―

一つは「光」の王国、もう一つは「闇」の王国。

たくさんの『真実』、たくさんの『選択』。

けれど、すべてが焼き尽くされた先に残るものは、いったい何なのか。


***



金曜日の放課後。


夏の熱気が校舎を包み、手すりは触れると少し熱い。蝉が鳴く。グラウンドの向こうから、部活の掛け声が響いてきた。


二階の廊下の窓辺に、小林斎斗(こばやし・サイト)は立っていた。


中庭では数人の生徒が、手のひらサイズの小さな彫り物を囲んで言い争っている。狐の形をした根付(ねつけ)―片目は小さな宝石でできているように見えた。


「じゃあ―『真実』って、結局なんなんだよ?!」

誰かがそう叫んだ。その言葉が、斎斗の胸に引っかかったまま離れない。

真実……?


彼は窓から離れ、教室へ向かって歩き出した。


昼休みは新しくできた聖書クラブに顔を出した。メンバーは五人、机二つ、先輩の落ち着いた声。


―答えは、いくつももらった。けれど、不思議と満たされない。


万物を造られた『はじめ』が真実で、その真実は世界に置かれている―のだとしたら。じゃあ、それはどこに、どうやって見つける?


2年B組の引き戸を開けると、教室はほとんど空だ。


前方では本田先生が答案に赤ペンを入れている。ペン先の小さな音だけが、静けさを刻んでいた。


先生に聞いてみる?


……いや、迷惑だよな。


窓際の自分の席に腰を下ろす。両手で顔を覆って、ひと息。


「自分の真実を生きろ」―ネットでは格好よく見える言葉。でも、胸の奥ではどこか空っぽだ。


たとえ実感がなくても――誰でも『あの御方』のもとに希望を見いだせる。今は、その『知っている』だけで歩いてみよう。

足音。影が机に落ちる。


「マイ・ベスト・フレンド!」


顔を上げると、汗の光るジャージ姿でタナカ・イタイが立っていた。短く刈った髪、はじける笑顔。ジンバブエからの留学生だ。


(「タナカ」はショナ語の名前で、日本の「田中」とは別物だと本人は笑っていた)

斎斗は思わず笑って胸をどん、と叩く。「マイ・ブラザー!」

二人して吹き出す。

「帰るか。……その前に、着替え。汗、やばいよ」

「ラジャー」タナカは大げさにバッグを担ぎ、ロッカーへ駆けていった。


入れ替わりに一年が二人、戸口から顔を出す。「あ、タナカいる? 質問! 『セイノ・オーキ』と『ボルデッド・ケープ』、どっちが『象徴的ヒーロー』?」


「両方読んだ。……どっちも推しじゃない」斎斗は即答。


二人は「えぇぇ」と顔をしかめる。


そこへ着替えを終えたタナカが戻る。「ジンバブエの友だちはアニメもマンガも好き。でも、ぼくはそこまでじゃない。ごめん」


一年たちは肩を落としつつ、再び熱い議論へ走っていった。

廊下を歩きながら、斎斗は言う。「マンガ、好きだよ。別の世界に行ける―『大事なもの』があって、『戦う理由』がある世界に」


「こっちの世界では?」タナカが横目で聞く。

下駄箱で外靴に履き替える。夕方の匂いと熱が流れ込んでくる。

校門のところでタツオが大きく手を振った。「おーい、こっち!」


「昼いなかったね。忙しかった?」斎斗。


タツオはチラシを掲げて目を輝かせる。「アジサイラーメンが格ゲーとコラボ! 『ストイック空手マスター』の限定丼! 今日は小遣いある。頼む、行こう」


「ラーメンって言った?」斎斗はもう乗り気だ。

「案内して」タナカも笑う。



***



暖簾が揺れ、カウンターはサラリーマンで賑やか。


ガラスケースの食品サンプル、レトロな扇風機、スープの湯気が店を抱きしめている。


タツオが慣れた調子で注文し、湯気を立てる丼が三つ降り立つ。

三人で手を合わせる。「いただきます」


しばし、音は麺をすする気持ちのいい音だけ。


斎斗がぽつり。「タナカは、向こうではクリスチャンだったんだよね。どんなふうに信仰してた?」


タナカはスマホを伏せる。「教会で育った。聖書を通読、週三回の集会……でも、指導者が夜遊びとか賭け事にハマって問題になって、みんな離れていった。ぼくは母の『神は神のまま』って言葉で残ったけど、本気ではなかった。ただ、生きてただけ」


選んだ道が、急に色褪せる。

斎斗はスープの表面を見つめ、昼に聞いたフレーズを思い出した―「自分の行いでなく、イエスにより清められる」。

「羊飼いが羊を迷わせたら、誰が『御国』をつくるんだろうね」つぶやきが漏れる。

タナカはその言葉を胸にしまい、うなずいただけだった。


会計(そして恒例の『出す・出さない』攻防)を終え、三人は夕暮れの公園をぶらつく。


自販機が唸り、街灯が点り、土の匂いが濃くなる。

「ごちそうさま」タツオが腹をさする。


「想像以上だった」タナカ。「斎斗は?」


「……うん、よかった」斎斗は微笑んだ。


少し歩いて、斎斗が口を開く。「ねぇ、タナカ。クリスチャンの目的って、やっぱり『イエスに似る』こと、だよね」


「え?」タナカの目がわずかに見開かれる。「……そう、教わった。君、本当に真剣なんだね。どうして?」


「この世界より『大きなもの』のために生きたい。木村先輩に誘われて、先週クラ

ブに行った。メンバーは五人。ぼくも三人、声をかけてみた」


「……じゃあ、今度行ってみる、かも」


「それって―」


「おいタナカ!」タツオが割り込んで、エアドリブル。「今日の一歩目、キレがエグかった! 今季、優勝ありえます!」


タナカが笑い、斎斗も笑って流す。


「屋上で最終回、見ない?」タナカが提案した。「今夜、星が出てる」



***



年季の入ったブラウン管テレビを箱の上へ。


風が抜け、遠くで街が瞬く。


天の川は淡い白の帯。


「あーっ! またファンブル!」タツオが叫ぶ。

「台本どおり」タナカがため息。

「次のシーズンまでおあずけ、か……」斎斗は天を仰いだ。


三人でラムネをカチンと鳴らし、手すりにもたれて話す。


『意味』『真実』、誰も見ていないときの自分―。


タツオのスマホが震える。「やば、妹の宿題!」


慌てて荷物をつかみ、「また明日!」


「週末だぞー」斎斗が手を振る。


扉がバタンと鳴って、静けさが戻った。



***



その夜。


タナカは遠い故郷とビデオ通話をつないだ。


父は日本語の上達を気にかけ、「ちゃんと通じているか」と笑う。


「文化は時々しくじるけど、知ったかぶりをしないようにしてる」とタナカ。


母はいつも通り、勉強と食事の心配をする。


双子の弟たちは画面に顔を押しつけ、「ニンジャ覚えた?」「毎日スシ?」と大騒ぎ。


姉はわざとらしく唇を尖らせる。「うらやましいんだから。今を全部、楽しみなさい!」


通話を切ったあと、タナカはベッドの横で膝を折った。


短い祈り―ありがとう。正しく生きられるように。友だちを守ってください。

着信。タツオだ。

『数学のワーク、置き忘れたかも。そっちにない?』


「机の上にある。明日、渡すよ」


『助かる。……それと、その、今日はありがとう。友だちでいてくれて』


プツ、と切れた。


妙な余韻。


充電器につなぎ、タナカは目を閉じた。



***



―雷。


―雨。


建物がきしむ。


稲光。暗闇。


床が、揺れた。

カーテンを開ける。


そこにあるはずの街灯も家並みもなく、黒い奔流がうねり、車が玩具のように流れていく。


洪水―音は列車のようで、滝のようだ。

「屋上へ! 上だ!」


階段。息。闇。


非常灯の緑だけが頼り。


二階の踊り場には、すでに水がじわりと満ちていた。


屋上。雨が顔を叩く。


住人たちが寄り添って震え、下では水位がじわじわと上がっていく。


―ミシ。


―ゴゴゴ……。


コンクリートがうめく。

建物が、傾ぐ。

神さ―

世界が、落ちた。



***



静寂。


そして、呼吸。


タナカは空にいた。


雲の切れ間から、溺れた町が見える。


自分のアパートは、砕け、飲み込まれていた。


水面に浮かぶ―それは、自分の腕。


理解は静かで、冷たかった。死んだのだ。


洪水の『前因』と『後』が、鎖のようにつながって流れ込んでくる。


上流の堤。崩壊。連鎖。重なった偶然。


やがて、下からやさしく、しかし抗えない『引き』が生まれる。


光が遠のき、闇がふくらむ。


熱。臭い。


地に叩きつけられ、炭のような大地が息をしているのを感じた。


鋼のような爪が、彼の上腕をつかみ、無理やり引き起こした。


見上げると、それはいた。


炭から引き出したばかりのような黒焦げの皮膚。


頭蓋から弧を描いて伸びる巨大な角。


生の炭火のように燃える赤い眼。


背丈は三メートル近い。


そいつは、口を裂いて笑った。

「やっとだ! やっとだ! ガキのころからずっと待ってたんだ。今度こそ、捕まえた!」


焼けた鉄を引き裂くような笑い声。


爪が食い込み、タナカを引きずる。


見世物のように、影の群れへと。


膝が震え、足元の大地が熱を孕んで唸る。


音が立ち上がる。


嘆き。きしみ。歯噛み。


影のようなものが揺らぎ―人が、人であったものが、各々の好んだ罪に似た形で責

め苛まれている。


その間を、影よりなお黒いものが行き来する。爪。笑い声。嘲り。


―ここはハデス。


最終の『火の湖』ではなく、裁きを待つ場所。


けれど、指し示す先は同じだ。


膝が笑う。「ここは―誰の場所でもない」

次の瞬間、喉がちぎれそうな声が出た。「神さま!」


すべてが、退いた。


点のような白が、光へとふくらむ。


闇のものたちは散り、炎は恥じらうように身をすくめた。

声が降る。


幾多の水音のようで、雷のようで、しかし耳元のささやきのようでもあった。

「―静まれ」


角のあるそれは、嘲りの笑みを浮かべたまま凍りつき、笑い声はぷつりと断たれた――命令の重みが上から押しつけられたかのように。


ハデスは、従った。

「わたしは聖なる御方である」


その声は告げる。「憎しみ、殺し、偽り、みだら――それにしがみつく者の神ではない。


汚れたものは、御国には入れない。

ここから逃れたいなら、洗われなければならない――小羊の血によって」


温もりが胸を満たす。


母の祈り。賛美。屋上の会話。

「たえられない……どうか、憐れんでください」タナカは崩れ落ちた。

光が近づく。


その内に人のかたち――白い衣。


伸ばされた両手の傷痕が淡く光り、足下に触れた灰は、静かに癒えていく。


顔は見えない。ただ、光そのもの。


「―タナカ」


呼ぶ声。


それだけで、わかった。イエスだ。


「わたしは、あなたがここに来ることを望まなかった。母を通して、言葉を通して、斎斗(サイト)を通して、何度も語った。


あなたは知っていた。けれど、黙った。


信じてはいたが、証しはしなかった。


気の散るものが、あなたの心の王座に就いていた」


正しさと、悲しみが同じ呼吸で語られる。


タナカは泣きながらうなずく。


「……ぼくはどうでもいい。でも、家族を。友だちを。―ここに来させないでください。どうか、知らせてください」


静けさが深く降りた。


「恵みが、あなたに及んだ」


光の中の御方が、肩に手を置かれる。


重さのある平安が、骨の奥まで沁みた。


「今は、あなたの時ではない。戻りなさい。


生きて、戒(いまし)めなさい。


真実のために戦い、心を清く保ち、生き方そのもので示しなさい。


わたしが遣わす者として、揺らぐな」


「やります」息をのみながら、タナカは言った。「必ず」


「行きなさい。わたしはともにいる」


光が波のように押し寄せ、ハデスは遠ざかった。



***



静けさ。


ほのかな檜(ひのき)と畳の香り。


絹のように軽い掛け物。


彫りの入った梁、障子にはちみつ色の朝。


上体を起こす。


身体が―軽い。


筋肉は張りがあり、どこも痛まない。


掛け物をはね、手を見る。細く、若い手。


ふらつきもなく立ち上がり、青銅の鏡の前へ。


映ったのは、十一歳の少年だった。


年の割に手足がすらりと長く、全体に細身の体つきをしている。


短く縮れた艶やかな黒髪、銀灰色の瞳、キャラメル色の肌。


その瞳には微かな光が宿り、まるで原石に秘められた輝きのように静かに瞬いてい

る。


手を上げると、鏡の中の少年も手を上げる。

「……生きてる」


低い声で笑いがこぼれた。


飾り棚には、狐の根付が一つ。

―宝石の目。


校庭で見たものに、よく似ている。いや、こちらは微かに脈打つような気配があった。


障子が二度、コツ、コツと叩かれる。


「若旦那さま、お目覚めでいらっしゃいますか?」


名が、部屋に降りてきて、肩にそっと掛けられたような感覚がする。


ギン―銀。


障子が開き、きちんとした身なりの男が一礼して入ってきた。


白手袋、落ち着いた声。目の下には、安堵の影。


「失礼いたします。この屋敷の持ち主にして、管理人兼執事のレイドと申します」


レイドは一歩進みかけ、しかし自分を抑えるように微笑んだ。「この三日間、意識がおありになりませんでした。どうか急にお立ちになりませんよう」


「三日……」ギン―いや、かつてのタナカはその言葉を反芻する。「ご心配をかけました」


「いいえ」レイドは首を振る。「まずは温かいお茶を。それから朝食を整えます。深呼吸をして、身体の声をよくお聞きください」


「お願いします」


レイドは一礼し、障子に手をかけ―ふと、言いかけて振り向いた。


「もう一つだけ、若旦那さま」


言葉を選ぶように、目を細める。


「落ち着かれましたら、『銀の間』へお越しください。お見せしたいものがございます」


短い間。


「あなた様がいつもお持ち歩きになる狐の根付―その『目』が、昨夜……変わりました」


障子が静かに閉まる。


ギンは視線を根付に戻した。


朝の光を受けた宝石が、一瞬だけ、答えるように瞬いた気がした。


障子の外で、屋敷が目を覚ます。


屋敷の外で、世界が待っている。


そして、どこか遥かで―二つの王国が見ていた。



(第1章・了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る