澱音
駄駄駄目
第1話
放課後のチャイムが鳴った途端、教室は無数の雑音で包まれた。
椅子が引かれる音。
誰かの笑い声、話し声。
本をめくる音。紙のこすれる音。
そのすべてが混ざり合って、人間の耳には曖昧なノイズとして入ってくる。
ミユキは自分の席で、じっとノートを見つめていた。
そこには、びっしりと数式が書かれている。
微分積分。極限。関数。
授業中、教師の説明を聞きながら、すべてをノートに写したものだ。
黒板にはまだ「数Ⅲ」の文字が残っていて、その横には、複雑な数式。
教師は黒板消しを手に取り、それを消し始めた。
そういえば、授業終わりに質問しようと思っていたのを思い出す。
わからない問題があったわけじゃないが、自分の理解が正しいのかを確かめたかったのだ。
でも、教師は明かるげな生徒の集団に囲まれて話しかけられそうにない。
「先生、この問題もう一回説明してください」
「ここがよくわからなくて」
「次の小テスト、範囲はどこまでですか?」
質問攻めだ。
教師は笑顔で、一人ひとりに答えている。
ミユキは、その輪に入ることをしない。
いや、もちろん入ろうと思えば、入れる。
でもそこまでして質問したい問題があるわけじゃない。
彼らが話し終わるのを待たず、ノートを閉じて、席を立つ。
教室を出る。
廊下には、たくさんの生徒が歩いている。
笑いながら。楽しそうに話しながら。
ミユキは、その流れに逆らうように歩きだした。
――行かなきゃ。
ただ何年と積み重ねてきた習慣が、体がそう動くように誘導してしまっている。
階段を上る。
ローファーが一段ごとに硬く鳴った。
コツ、コツ、コツ。
規則的な音。
この校舎は古い。
踏み板が少しきしむ。
手すりも、年季が入っている。
古い木の手すりには、何年分もの傷跡が染みついている。
誰かが彫った落書き。
「H.M ♡ R.T」
イニシャル。
誰のものかはわからない。
そんな落書きを指でなぞりながら、階段を上った。
一階から二階へ。
二階から三階へ。
息が少し上がる。
渡り廊下を経てたどり着いた旧校舎は、新校舎とは違う空気が流れている。
古く、静かで、どこか懐かしいような気がする。
窓の外には、校庭が見える。
サッカー部が練習している。
野球部も、声を上げている。
その声が、遠くから聞こえてくる。
それでも、旧校舎の中は静かだ。
薄暗い踊り場を抜ける。
電気がついていない。
窓から差し込む光だけが、廊下を照らしていて、埃がその中で舞っていた。
ミユキは、その光を眺めながら歩いた。
旧校舎三階の端。
音楽室の扉の前で、立ち止まる。
ここまで来ると、さらに静かになる。
この階には、音楽室と美術室しかない。
そして美術室は、もう使われていない。
だから、この階を使っているのは、音楽部だけだ。
いや、正確には、音楽部も廃部になった。
今、この階を使っているのは、ミユキとハルトだけ。
音楽部と呼ばれているが、実態は部活ですらない、ただの作曲同好会。
深呼吸。
胸の中に、何かがつかえている。
言葉にできない、もやもやとした感情。
それを押し込めて、ミユキは扉に手をかけた。
ドアノブが、冷たい。
ゆっくりと、扉を開ける。
――音。
最初に聞こえたのは、ヘッドフォンから漏れた低音だった。
規則的なビート。
重低音が、扉を通して振動する。
次にマウスのクリック音。
その合間に、わずかにこぼれるピアノの旋律。
美しい音色。
流れるような旋律。
ミユキは、音楽室の中に入った。
部屋は広い。
壁には、古いピアノが置かれている。
グランドピアノではなく、アップライトピアノ。
鍵盤の一部は黄ばんでいる。
窓際には、楽譜棚。
その奥に、使われていない楽器が積まれている。
トランペット、クラリネット、バイオリン。
どれも埃をかぶっている。
部屋の中央に、二つの机。
そこに、パソコンとMIDIキーボードが置かれている。
一つは、ハルトのもの。
もう一つは、ミユキのもの。
彼は、自分の机に向かっていた。
猫背の楽な姿勢のまま、DAWソフトが映ったモニターを見つめている。
ハルト。
本名は、白石陽斗。
活動名は、"halt"。
ネット上で数十万のフォロワーを持つ、若き天才音楽クリエイター様だ。
彼が最初の曲を投稿したのは、中学三年のとき。
それが、瞬く間にバズった。
一万再生。
十万再生。
百万再生。
数字は、どんどん増えていった。
それ以降、彼が投稿する曲は飛ぶように売れた。
曲を出すたびに反響を呼び、聴くたびに新しい発見があると話題になった。
複雑な音色が絡み合い、聴く者の心を揺さぶる。
理論的で、計算され尽くされた完璧な音楽を描く。
その人気から、タイアップの依頼も絶えない。
ゲームの主題歌、アニメのOP、CMソング。
高校生にして、プロの音楽クリエイター。
それが、ハルトだった。
ヘッドフォンをつけたまま、モニターを見つめている彼のその目は、真剣そのものだ。
ミユキは声もかけずに、ハルトの正面の席に座る。
椅子を引く音が鳴る。
でも、ハルトは気づかない。
いや、気づいているのかもしれないが、反応しない。
別に険悪というわけではない。
ただ、昔からの知り合いに、毎回部室に入るたびに話しかけるのも変な感じがするというだけだ。
それに、ハルトは作業中だ。
邪魔をしたくない。
ミユキは、バッグを机の上に置いた。
そして、ハルトを眺める。
真剣な顔でモニターと向き合い、自分の存在に気が付いていないであろうハルト。
その横顔を見ながら、昔のことを思い出す。
――いつから、こうなったんだろう。
昔は、もっと違った。
もっと、対等だった。
いや、違う。
昔は、自分の方が上だった。
ミユキは、ハルトに音楽を教える立場だったのだ。
そしてハルトは、ミユキに教わる立場だった。
でも今は違う。
完全に逆転してしまった。
――あれは、中学二年の秋だ。
ミユキは、音楽室で一人でピアノを弾いていた。
放課後、誰もいない音楽室。
ここが、ミユキの居場所だった。
その日も、いつものようにピアノに向かっていた。
ショパンの「ノクターン」。
夜想曲。
指が、鍵盤の上を滑る。
音が、部屋に響く。
美しい旋律。
でも、完璧ではない。
所々、音を外す。
リズムも、少し狂う。
それでも、ミユキは弾き続けた。
音楽が好きだったから。
ピアノが好きだったから。
誰かに聴かせるためではなく、自分のために弾く。
それが、ミユキにとっての楽しみだった。
曲が終わる。
深呼吸をした。
そのとき、後ろから声がした。
「……すごい」
振り返ると、そこに男子生徒が立っていた。
ハルトだった。
「いつから、いたの?」
ミユキは驚いて尋ねた。
「ずっと。最初から」
ハルトは、少し恥ずかしそうに答えた。
「聴こえてきたから、つい……。すみません、勝手に聴いて」
「……別に、いいけど」
ミユキは、少し顔を赤らめた。
誰かに聴かれていたなんて、思わなかった。
しかも、最初から。
「あの、僕も……ピアノ、弾きたいん、です」
ハルトが言った。
「でも、全然弾けなくて。どうやって練習すればいいのか、わからなくて」
ミユキは、ハルトを見た。
真剣な目をしていた。
本当に、弾きたいんだと思った。
「……教えて、あげようか?」
「本当ですか!」
ハルトの顔が、パッと明るくなった。
それから、私たちは放課後、音楽室で会うようになった。
私は、ハルトにピアノを教えた。
最初は、基礎から。
ドレミファソラシド。
音階を弾く。
「指は、丸く」
「手首は、固定して」
「リズムを意識して」
ハルトは、真面目に練習した。
でも、最初は全然弾けなかった。
指がうまく動かない。
音も、ぎこちない。
「難しいですね」
ハルトは苦笑した。
「みんなそうだよ。私も、最初は全然弾けなかった。でも、続けていれば、必ず弾けるようになる」
ハルトは頷いた。
そして、練習を続けた。
一週間。
二週間。
一ヶ月。
少しずつ、ハルトは上達していった。
指が動くようになった。
簡単な曲が弾けるようになった。
「すごい、弾けました!」
ハルトは嬉しそうに笑った。
私も、嬉しかった。
自分が教えたことが、ハルトの役に立っている。
それが、誇らしかったのだ。
「次は、コード進行を教えるね」
ミユキは、楽譜を広げた。
「コード進行?」
「うん。和音の進み方。これがわかると、曲が作れるようになるよ」
ハルトの目が、輝いた。
「曲が作れるんですか?」
「うん。作曲ってね、実はそんなに難しくないんだよ。コード進行がわかれば、誰でも作れる」
ミユキは得意げに説明した。
「例えば、C、G、Am、Fっていうコード進行があるでしょ。これは、すごくよく使われる進行で――」
ハルトは、真剣にメモを取っていた。
あの頃はまだ自分のほうが上手くて、知識もあって、ミユキは得意げに彼にコード進行やリズムの取り方を教えてあげていた。
それが、楽しかった。
誰かに教えること。
誰かの成長を見守ること。
それが、ミユキにとっての喜びだった。
――でも。
それがどうだ。
ぎこちない指で鍵盤を押していた少年が、いつのまにか「halt」として、ネットの中で数十万のファンを持つ存在になった。
動画サイトでは“神曲”と呼ばれ、頻繁にタイアップの依頼が舞い込む売れっ子。
それに対して、自分のちっぽけな存在がひどく情けないような気がするのだ。
彼は私を音楽の先輩として敬ってくれるが、周囲から見れば私はどんなみじめな存在に見えているのだろう。
空いてしまった距離が、いまは痛いほど遠く感じた。
「……あ、いたんだ」
ハルトの声に、ミユキが顔を上げる。
ようやく自分の存在に気が付いたらしい彼に向って呆れた顔を向けつつ、「今日も早いね」と声を返した。
無機質な蛍光灯の光が、彼の目の奥で細く反射する。
「うん。ちょっとミックス調整してた」
「例のタイアップのやつ?完成近いんじゃなかったっけ」
「そうだったんだけど、リテイク入っちゃって、ちょっとだけ調整です」
彼はそう言って浮かべた笑顔は、どこか空っぽに見える。
ミユキはバッグを机の上に置き、椅子を引いた。
古びたノートパソコンとMIDIキーボード。
コードが絡まり、机の上には使いかけのメトロノームが置かれている。
針が半分壊れていて、リズムがわずかにずれる。
「それ、まだ使ってるんですね。新しいの買ったほうがいいですよ」
ハルトが苦笑した。
「買うの面倒だし、壊れかけてるくらいがちょうどいいの」
「……変なこだわりですね」
ミユキはそれには答えず、作曲用に使っているDAWソフトを立ち上げた。
音楽室のスピーカーがかすかにノイズを鳴らす。
キーボードを叩く指が、リズミカルな運動を始める。
画面の中では、無数のトラックが並んでいた。
ピアノ、シンセ、ベース、ドラム、バイオリン。
そのどれもが未完成で、仮タイトルのまま止まっている。
“new_song_v13.mid”
“remake_test”
“未定2”
「……ねぇハルト、曲、ちょっと聞いてくれない?」
ようやく完成しかけたデモを再生して、ミユキは問いかけた。
ヘッドフォンを外して、ハルトが聴く。
数分間の沈黙。
「悪くないですよ」
「……悪くない?」
「進行、すごく綺麗だと思う。構成もちゃんとしてるし。でもボーカルのメロは、少し上げてもいいかもですね」
ミユキはうなずいた。だが、その声の奥にある“温度のなさ”を、敏感に感じ取ってしまう。
彼の褒め言葉は、どこか義務のようだった。
美辞麗句を並べているだけ。
彼が本当に感動したときの“間”を、ミユキは昔に見たことがあって知っている。
あの時の表情と言葉に比べたら、今の彼が言った言葉は落第点を突きつけられているようなものだ。
「……あんたの曲、昨日十万再生いったね」
「うん、もうあんまり数字の実感はないんですけどね」
「いいねも五千以上。コメント欄もすごかった」
「ありがたいですよね」
淡々とした口調。
まるで他人事のようだ。
「私のは二十三再生だった」
声に出してから、しまったと思った。自嘲気味な本音が、たまにぽろっと漏れてしまうことがある。
今回もそうだ。言わなくていいことを、わざわざ言ってしまう。
「……」
ハルトは何も言わない。
かわいそうだとか、頑張ってるとか、そんな言葉を彼は口にしない。
ハルトは黙ったまま、視線をモニターに戻した。
波形が揺れている。音の塊がスクロールしていく。
彼は何かを言いかけて、結局飲み込んだ。
「先輩は、音楽楽しいですか?」
「そりゃあ、まぁ」
「そっか、よかった」
ハルトの声色は優しい。
「……ねぇ、ハルト」
ミユキは、自分でも驚くほど唐突に口を開いた。
「もし私が、あんたに曲を見てもらって、アドバイスもらったとするじゃん」
「うん」
「そしたら、完成したときに、私の作品は何%残ってるのかな」
ハルトは、手を止めた。
モニターから視線を外し、ミユキを見る。
「……どういう意味ですか?」
「あんたに教わると、全部あんたの音楽になっちゃうじゃん?私の音楽じゃなくて、ハルトの音楽になる。その方が正しいから」
ミユキは自嘲気味に笑った。
「昔は、私があんたに教えてたのにね。今は逆。私があんたに教わる立場になってる」
「……先輩」
「いや、いいの。そういうものでしょ。才能の差って」
ミユキは立ち上がった。
「ごめん、変なこと言った。忘れて」
ハルトは何か言いかけて、やめた。
言葉が出てこない。
ミユキの言葉は、正しい。
自分がアドバイスをすれば、その曲は自分の影響を受ける。
それは、ミユキの音楽ではなく、ハルトの音楽に近づいていく。
でも、それを認めることは、ミユキを突き放すことと同じだった。
「……先輩の音楽は、先輩の音楽です」
ハルトはそう言った。
ミユキは微笑んだが、その笑顔はどこか悲しみを帯びている。
「あんたは優しいから、そう言ってくれるんだけどね。私の音楽は、あんたの音楽の劣化コピーで───「そんなことない」」
ハルトは強く否定した。
「先輩の音楽には、先輩にしか出せない音がある。僕にはない音が」
「……そう思う?」
「本当に」
ミユキは目を伏せた。
「……そう」
でもそれが逆にいたたまれなくて、逃げるように広げたノートパソコンのキーボードを閉じ、立ち上がった。
「……今日は帰る。ごめん」
ハルトは視線をこちらには向けずに、
「うん」
とだけ返してきた。
扉を開ける直前、振り返る。
ハルトはもうヘッドフォンをつけ直し、画面の向こうに戻っていた。
メトロノームが小さく刻む。
カチ、カチ、カチ……。
一定のはずのテンポが、わずかに狂っている。
机に忘れた私物のそれを回収しようとも思ったが、どうせ明日も来るのだしと、ミユキはそのまま音楽室を後にした。
階段を降りると、夜風が頬を撫でた。
街の灯りが遠くで瞬いている。
スマートフォンを開くと、ハルトの新曲がタイムラインを埋め尽くしていた。
〈#haltの新作〉
投稿の数は桁違いだった。
彼女のアカウントにも、新しい通知がひとつだけあった。
「いいね:1」
送り主は、不明。アイコンもない。
もちろんそれはとてもありがたい存在なのだが、ハルトという大きな才能を前にすると、どうしても自分のやっていることが霞んでしまう。
ミユキはスマートフォンをポケットにしまい、家路を急いだ。
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