第一部:キンモクセイと世界の騒音――ハロー、グッドバイ、セカイ系―― 序章『コンビニの裏に神はいる』

 第一部:キンモクセイと世界の騒音ノイズ ――ハロー、グッドバイ、セカイ系――

 序章『コンビニの裏に神はいる』


   1

 十一月の夜、金木犀キンモクセイの香りは街の呼吸みたいにそこらじゅうに満ちていた。

 俺はそれを嗅ぐたびに、誰かが死んだ後の空気みたいだと思う。

 甘いのに、どこか冷たい。冷たいのに、なぜか懐かしい。

 つまり、どうでもいい。けど、どうでもよくない。

 深夜三時。

 セブンイレブンの自動ドアが、俺の存在を確認するようにウィーンと開いた。

 店内は明るすぎて、まるでこの世で俺だけが間違っているような気がした。

 いや、実際そうなのかもしれない。俺は十四歳で、ひきこもりで、この時間にビールを買おうとしてる。つまり、間違ってる。完璧に。

 忌野清志郎いまわのきよしろうの『デイ・ドリーム・ビリーバー』のインストが流れていた。

 清志郎きよしろうが死んでも、音楽はコンビニで再生される。

 死んでも働かされるって、ちょっとブラック企業みたいだな、とか思いながら、

 俺は震える手で冷蔵ケースを開けた。

 缶ビールがずらりと並んでいる。

 アサヒ、サッポロ、キリン。

 どれが“初めてのビール”にふさわしいのか、まるで分からない。

 俺は迷った末、いちばん金色が神々しい気がした「キリン一番搾り」を選んだ。

 祝福のビール。十四歳の俺の洗礼。

 レジへ向かう途中、心臓がどんどん脈打つ。

 レジヘを歩むに連れ、全身がビリビリと痺れて来る、思っているより緊張しているらしい。

 年齢確認。あれが怖い。

 あの「ピッ」という音と一緒に、俺の人生が終了しそうで。

 レジの向こうにいた店員は、想像してたよりずっと異質だった。

 背丈は俺と同じくらい、百六十八センチ程、ショートカットに紫のインナーカラー。耳に金の十字架クロス

 名札には「真希波まきなみ」。

 レジの横に貼られた「身だしなみルールを緩和しました」という張り紙。髪色・髪型。爪。ひげ。メイク。ピアス・装飾品。

 店員の身だしなみなどのルールを緩和したらしい。

 画一化していくと思われたコンビニでも、個人への自由は促進されているらしい。

 今時はこんな格好でもコンビニで雇って貰えるのか……

 令和の時代を生きる俺に、令和以前のコンビニがどんなだったかなんて、実際知らないのだが。

 真希波さんは缶を手に取ると、無表情でバーコードを「ピッ」と通した。

 そして俺の目を見た。いや、正確には、俺の“奥”を見た。

 瞳の奥に、俺の小さな嘘や罪や、さっきまで読んでた小説の言葉まで見透かされた気がした。

「あのぉー……」

 真希波さんは、甲高いがハスキーな、アニメチックな声で言う。

「お客様、申し訳ないのですが、年齢確認出来るものはお持ちでしょうか……?」

 真希波さんの方が申し訳なさそうにそう言う。

 その瞬間、俺の脳内で非常ベルが鳴った。

 あ、これ無理。バレる。死ぬ。世界終わる。

 俺は笑顔を貼りつけたまま、硬直した。

 0.5秒。

 いや、もしかしたら永遠。

 次の瞬間、俺はビールを置きっぱなしにして、店を飛び出していた。


   2

 夜の空気は刺すように冷たかった。

 目に見えない夜の住人たちが俺の逃走を目撃して笑ってる気がした。

 俺は走った。どこに向かうのかも分からずに。

 ただ、あの店員の目を思い出すたびに、心臓が焼けるように痛かった。

 深呼吸をして息を整える。十一月の尖った空気が肺を満たし、どこからか漂ってくる金木犀キンモクセイの香りが少しだけ身体を落ち着かせてくれる。

 わざわざいつも寄る、自分の住むアパートから徒歩五分のコンビニではなく、徒歩十五分程の少し離れた住宅街の中に有る客の少ないコンビニに来て良かった。

 俺はひきこもりだった、歳は十四才。不登校。中学二年生。

 中学校へは一ヶ月しか通っていない。

 もう一年以上まともに人と接していない。

 母は今頃、自身で経営しているスナックから帰って来る頃だろうか。

 俺は自分の父親が誰か知らない。

 母の前の旦那はバイクで軽トラックと事故り、電柱から伸びるボルトに頭蓋をぶつけクラッシュし、脳症が飛び出たまま、しばらく動いていたらしいが、そのまま亡くなった。

 母は居酒屋や定食屋、お好み焼き屋などを経て、現在のスナックで落ち着き、若い女性を二人雇って、それなりに稼いでいるようだ。

 その稼ぎと、前夫ぜんぷの残した遺族年金いぞくねんきんとで、母は女手一つで俺をこの歳まで育て上げた。

 俺が母と二人で暮らすアパートにこの時間帰っても、もう寝ているか、もしくは別の所で眠っているのだろう。

 どうせ客の男の家かどこかだ、別に気にしない。

 だけど、ある日突然「この人が新しいお父さんよ」なんて言われたら、俺は完全にグレて極道ごくどうの道に進むか、頭を剃って仏門ぶつもんの世界へ入ってしまうかも知れない。

 でも母親がどこで誰と居ようが、あまり興味は無かった。好きにすれば良い。俺と母はたまたま家族だが、面と向かって話し合った事は一度も無かった。

 俺の深夜の外出にも口を出さない、むしろ、深夜でも少しは外に出るのは良いことだ、くらいに思っている。

 愛情が無い訳じゃ無い、ただ、俺は母とは、家族というより貧乏な家で一緒に苦難を支え合う者どうしといったほうがしっくりくる。 

 無駄に干渉しあったりしない、お互い自由だ。

 俺はもう一年ひきこもりで、たまの外出は、深夜に近所のコンビニか公園に行くくらい。

 まだ心臓はどくどく鳴っているが、気持ちは落ち着いてきた。

 あの女性店員、真希波さんの顔が浮かぶ、大丈夫、学校に連絡などはされないだろう。そもそも俺がどこの学校に通っているかなんてわからないだろうし、それに、学校に連絡が行ったところで、ひきこもりで不登校の俺には関係無い、教師だって無視するさ。

 いつもはもっと近い、家から徒歩五分のコンビニに寄って、漫画や週刊誌、文芸誌などを立ち読みし、肉まんなんかを買って帰るだけだった。

 しかし、今日は違ったのだ。

 俺は、本を読むのが好きだ。

 といっても、中学に上がってから本というものを読むようになったので、まだ詳しくは無い。

 ひきこもりなのでネット通販で本を買う事になる。

 貧乏なので、中古の本しか買えない。

 俺が今日読んでいたのは、中島なかじまらもさんのエッセイだった。

 俺は中島らもさんが好きだった。なんでそんな、もう亡くなって久しい、世間から忘れ去られ始めた作家の本を読むようになったのか、そして何故そんな作家に入れ込んでいるのか、自分でもわからない。でもらもさんの書くものは、俺にとても馴染なじむのだ。

 中島らもさんは、九十年代からゼロ年代初頭に活躍した作家で、現在の”サブカル”の流れの一端いったんになった一人だった。

 総ての文化やムーブメントというのは、ただ自然に発生するのでは無く、固有こゆうを持った人達がつむぎ上げて生まれるものなのだ。

 二〇〇四年、らもさんは個人的なギターライブが終わり、その帰り際にライブハウスの階段から足を踏み外して、頭を打って亡くなった。五十四歳だった。

 らもさんは兵庫ひょうご尼崎あまがさきで生まれ、幼少は神童しんどうと呼ばれて、有名進学校しんがっこう灘校なだこうに、上位の成績で入学した。

 だが途中で酒、煙草を覚え、卒業する頃には、成績の順位はガタ落ちし、下から数えるほうが早かったそうだ。

 大学に上がると、髪を伸ばし始め、酒やドラッグに溺れ、いわゆるドロップアウトした。

 六十年代から七十年代、学生闘争がくせいとうそうの時代だ。

 俺は学生闘争の事なんてこれっぽっちも知らない、だが、当時の”お兄さん”達の、情熱に憧れるのだ。

 革命かくめい

 そういう言葉に胸が高鳴る。

 太宰治だざいおさむも書いていた、「人間は恋と革命のために生まれて来たんだ。」

 俺は政治などにはかなりうといが、ロックの精神は受け継いでいた。

 だが、らもさんは当時の学生たちの思想には迎合けいごうせず、ただそういう人達に混ざり、酒や煙草、ドラッグに溺れるだけで、自身では思想を持たないノンポリとしていた。

 実際のところは、らもさんにも色々思う所は有っただろうが、当時の事をこう書いている。

「フーテンとヒッピーは似て非なるものだ。ヒッピーは「思想」を持っている。ことにウッドストック以来、愛だ自由だ平和だと五月蝿い。おれは、思想の砦の中でぬくぬくしている連中は嫌いだ。」

 らもさんは十代の頃からよく、ウイスキー、トリスを飲んで、酒を鍛えたらしい。

 らもさんの本から漂う七十年代のフレイバー、当時のジャズ喫茶や、大阪とは少し違う、関西の兵庫という土地。そして、ドラッグ、セックス、ロックンロール。

 らもさんが過ごした兵庫の倦怠アンニュイな風景が、ひきこもりで東京の端っこ、俺の生まれ育ったこの神洗井かみあらいという灰色のコンクリートの団地の風景とは別に、らもさんの過ごした七十年代、兵庫のフレイバーというのが、俺の原風景げんふうけいとして染み付いている。

 俺はらもさんのエッセイを閉じて、ムクリと立ち上がった。

 そして鼻息を荒立てながら、黒のロングのダウンコートに灰色のニット帽を被り、深夜三時、人生初の飲酒をするため、家から一番近いコンビニより少し離れたコンビニへ向かったのだった。

 だが、真希波さんの厳しい慧眼すいがんによって、人生初の飲酒は残念ながら失敗に終わった。

 やはり、ひよわなひきこもりの俺は、成人には見えなかったのだろうか、初めからバレバレだったのだろうか。もうあの店には立ち寄る勇気は無い……

 俺は、最初は人生初の飲酒に心躍らせて、寝静まった町を出ていったのだが、出鼻をくじかれた。

 自宅にはそろそろ母が帰ってきている頃だろうか、鉢合わせるのは気まずかった。

 母は前の旦那を亡くし、その後俺の父親との間に、高齢出産で俺を産んだ。

 父親は俺が物心付く前にはどこかへ姿をくらまし、俺には父の記憶は無い。

 母は自身のスナックを閉めて、大体、深夜二時から三時頃帰って来る事が多く、酔っ払って返ってくる日も少なくない、そんな時は面倒だ、相手をしたくない。

 俺はとぼとぼとあてもなく、あまり土地勘の無い住宅街を進んでいると、その中に住宅と住宅の合間に不自然な程長く続く細道を見つけ、光に向かって進んでいく虫のように、闇に向かって興味本位で勝手に歩が向かい進んでみると、何故かこんな奥まった所に小さな神社が有った。

 夕方以降、鳥居をくぐっちゃいけないとされているが、気にしない事にした。

 この神社は入口に灰色の鳥居があり、鳥居をくぐり、左手側には滑り台、ブランコ、ベンチなどがあり細い電柱と電灯の柱と時計が立っており、時計は深夜三時半を指している。

 右手には人の気配の無い一軒家とガレージがある、人が住んでいるようには見えない。

 そしてその真ん中には本殿が建っているが、こじんまりとしていて、ボロい。

 賽銭箱の奥、本殿の扉に空いている穴から中を覗き込むと、中に小さな台座とその上に一つ、巻物が置いてある、それだけだった。

 本殿の横にある看板に書かれているこの神社の謂れ(いわれ)を、か細い電灯の元読んでみると、「当神社は江戸中期に建立され、土地の産土神うぶすながみとして…」等と書かれており、暗くてなかなか読めない。

 俺はスマートフォンのライトを照らしてみる。

 と、ふと視線を横にやると、隣の看板には今読んだのとは違う、禍々まがまがしい筆致ひっちで文字が刻まれている。

 そこには、




   ――ふるつたえにとく

   終焉しゅうえんとき、黒き牝山羊めやぎ仔鬼こおにとして悪が産まれ落ちる時、この地にわざわいがちる。

   されど、恐れることなかれ。 日輪にちりんの子と月の娘が出会いし時、封印はかれる

   真理しんりの女神は、颯爽さっそうと現れ、あの世から与えられたつるぎを手に取り、悪鬼あっきを打ち砕き、その御霊みたまをこの地にしずめられた。

   悪鬼あっき真里しんりの女神の戦いは、いつか終わりに来る、神と悪魔の最後の戦いの一つであったがこの女神の勇姿ゆうしは、誰にも知られることも、語られることもなかった。




 これは、世界の至る所で見られ、予言され、神と悪魔の最終戦争などの話にも近いように思われたが、神と悪魔の最後の戦いにおいて、神が絶対に勝つ事は決まっているという話は良く有る。代表的なのが聖書だ。その戦いの一つが日本で起き、真理しんり女神めがみというのが、悪に打ち勝つというような事だった、そしてその女神をまつっているようだが、聞いたことの無い、名前も無く、真理の女神とだけ記されており、謂れ(いわれ)の不明なマイナーな神を祀っている神社の様だ。

 俺は気にせず、遊具の周りのベンチに座り、イヤフォンを取り出してし、スマホでTHE YELLOW MONKEYの曲を流しながら、ケツポケットから中島らもさんの文庫本を取り出し、あわい外灯の灯りの下で読み始める。

 こんな時間にこんな神社に人は来ない、ここは完全な聖域せいいきだ。

 警戒するものは何も無い、文字を置い続け、時間が溶けていく。しばらく音楽と活字の海に浸っていると、突然イヤフォンがあらぬ方向に引っ張られ、耳からすっぽ抜け、俺は思わず叫び声を上げる。

 両手で持っていた中島らもさんの文庫本がひったくられる。

「な、何?!」

 思わず叫ぶと、ベンチに座る俺の前に、先程のコンビニの女性店員、真希波まきなみさんがニヤニヤしながら右手には俺の手からひったくったらもさんの本を掲げ、左手にビニール袋を下げて立っていた。

 俺はポカーンとしてしまった。

「こら、不良少年、こんな所で何しちょる」

 真希波さんは例の甲高いが、ハスキーでアニメチックな声で言う。

 俺は黙って目を見開き、固まってしまう。黙って真希波さんを見つめる。なぜこんな所に?

 真希波さんは、俺からかっぱらった中島らもさんの文庫本を見て言う。

「中島らもって、君はその歳でこんな渋いもん読んどるのか、君は文学青年か?」

 真希波さんはカッカッカと笑いながら言う。

「文学不良少年、さっきはビールが買えなくて残念だったね、お姉さんは今、仕事の帰りなんだ、丁度、晩酌用にビール数本とサラミを買っ帰る途中だ、良かったら君も一本飲むかい?」

 いきなりそんな事を言う真希波さんのショートヘア―は風に揺れ、内側だけ染めた鮮やかなパープルが覗き、灰色のロングコートがひるがえって、その内側は肩が大きく開け、お腹が露出している、パンクなグラフィティ模様の服は肌の露出が多く、思わず見惚みとれてしまった。

 真希波さんは続ける。

「不良少年、夕方を過ぎたら神社の敷居しきいまたいではいけないって知らないのかい? 最近の子は教わらないのかねぇ? 親も若者になって、伝える人が居なく成るのか? 未来の世界はどうなるんだろうねぇ、大事な事もちゃんと語り継がれず忘れられていくだけなのかねぇ?」

 甲高いがハスキーなアニメチックな特徴的な声で何かぶつぶつ独り言を言っている。この人こそなぜこんな時間のこんな奥まった場所に有る小さな神社にやって来たんだ?

 真希波さんは、コートのすそを両手で丁寧に整え、ベンチの俺の横に座る。

 持っていたビニール袋を自身の横に置き、ビニール袋をゴソゴソやって、中からビールを取り出す、アサヒスーパードライだ。

 一本取り出して、

「ほれ」

 と言って、僕に差し出す。

 俺ははまだこの人の事を測りかねるが、とりあえず説教をしたりする理解の無い大人では無い事様で、とりあえず俺は、

「ありがとうございます……」

 と言って、アサヒスーパードライの500ml缶を受け取る。

 真希波さんも自分の分を手に取り、

「じゃあ」

 と言って、プルタブをカシュッ! と開ける。

 僕もそれに習って、プルタブをカシュッ!

 初めての飲酒だ、ドキドキする。

 真希波さんはごくごくごくごくと一気に半分程飲み下し、

「ぷっはぁー!!」

 大きなため息を吐く。

 実に美味そうに飲む、大人はいつもビールを美味そうに飲む。

 飲み口をジーっと見つめていた俺も、意を決して一気に飲み込む。

 ごくごくごくごくごく

「ごっふあぁ!」

 想像していたより炭酸が強く、思いっきり吹き出してしまった、しかも思っていたより何倍も苦い!

 俺は、ゴホゴホと咳込み、手の甲で口を拭いながら、息を整える。

 真希波さんがケタケタと笑いながら俺を眺めていて、俺は恥を隠すように、改めてゆっくりビールを口に運び、ちびっと一口飲み、初めてのビールを味わう。

 ん……

 思ったより美味しかも知れない、ビールは喉越しと聞くが、味もしっかり爽やかな苦みだ。

 真希波さんはニヤニヤしながら尋ねる。

「文学不良少年よ、初めてのビールの味はどうだい?」

 俺はもう一口飲み下し、言う。

「思ったよりも、美味しいです」

「そうかそうか! そりゃあ良かった! 大人の階段を一歩登ったなぁ!」

「はぁ……」

 やたら高いテンションについていけない。

 既に酔っているのだろうか、そのまま受け流す。

 真希波さんはカットされているサラミの袋を開けて俺に勧めてくれ、一枚頂く。

 美味しい、俺はサラミを噛み締め、油をビールで飲み下す。

 美味い。これが飲酒というものか。

「さぁ、文学不良少年、気にせず飲んで食べてくれ」

 なかなか太っ腹な人だった。

「ありがとうございます、いただきます」

 俺はそう言ってビールをもう一口飲む。顔が火照っていくのが分かる。身体が軽くなり、ふらっと横に傾く。

 真希波さんはサラミを齧りながら尋ねる。

「そして不良少年、君の名前は? 歳はいくつだ?」

 俺は答える。

遠野とおのなぎと言います、歳は十四歳、中二です」

「私の名前は真希波まきなみ真里まり、あそこのコンビニでいつもこれくらいの時間、アルバイトをしている。君はアレか、不登校って奴か、いつから行ってないの?」

「中学校の初めからです、一ヶ月しか通っていません。だから人生で一度も数学も英語の授業も受けたことが無い」

「そりゃあ大変だ」

「社会から、世界から孤立してしまった人間なんです」

「……まぁ、気にするな。私も32歳になって真夜中のコンビニアルバイトなんだが……」

「年齢より若く見えますね」

 俺は素直な感想を言ったのだが、真希波さんは眼を細め、俺をジッ! と見て。

「それ、褒めてねぇからな」

 と言った。

 ビールは500mlの缶がもう半分空いていた。

 十一月の寒空の下でも、コートの下の身体はカッカと火照り、身体がフラフラと軽くなって左右にゆらゆら揺れる。

 頭の中の、不要なネガティブな物がどこかに霧散し、訳も無いのにニコニコと晴れやかで楽しい。

 これがお酒か。

 俺はまたごくごくごくごくとビールを一気に飲み下し、ぷっはぁー! と息を吐いて人心地、俺はお酒を気に入る。

 そんな俺を見て、真希波さんは俺に注意する。

「あんまり一気に飲むなよ、後から一気に酔いが廻ってくるからな、顔、赤いぞ」

 そう言われた俺の顔は火照り、深夜の風を受けて寒い。どこからか金木犀キンモクセイの香りがする。

 もう少しで本格的な冬が来る。

 俺はまた無為に一年を繰り返そうとしている。

 だが俺はどんどん楽しくなってきた、これが酔いというものか!

 今まで酒を知らなかったなんて! なんて損をしていたんだ!

 俺は本来は対人恐怖症で、人と話すが苦手で、恐怖を感じていたが、酒の酔いも有り、真希波さんには心を開き、気づけば酔いに任せて、自然に口が喋っていた。

「僕は不登校のひきこもりで、今、中学二年生、中学には最初の一ヶ月しか行ってません、もう不登校になって随分経ちました。最初の頃はクラスの皆から励ましのメッセージの手紙が届いたり、俺としては逆に迷惑でしたが、そういう物が届いたりもしました、だけどもう最近は何もありません」

「なんで行かないんだ? それは人生において大変な問題だぞ?」

「……クラスの皆は、先生も、皆、いい人です……だけど俺は……人が怖いんです」

「でも私にはもう慣れたんだろ?」

「まあ、少なくとも酔っ払ってる限りは」

「当たって砕けろで色んな人と関わって、少しずつ慣れていったりする事は無理なのかよ?」

「……それは……俺が人が怖いのは、俺の中の奥の方の、根源的な所から、人が怖いんですよ……」

「何か有ったのか?」

「まあ……ちょっと色々……」

「言えない事か」

「喋りたくは無いですね」

「聞かないほうがいいか?」

「簡単に喋れる様な内容では無いです」

「……聞かないでやるよ、こんな話止めて、もっと飲め飲め」

「ありがとうございます」

 そう言って、俺はまたビールを飲み下す。

 慣れてくるとビールは美味い。

 最初から薄くカットされて、10枚ほどしか入ってないのに、それが大袈裟にパッケージされていてお高そうなサラミを味わいながら、500ml缶ももう残り少ない。

 真希波さんは俺に訪ねた。

「そんで、日中は普段何してんのさ」

 この時点で俺は自分が思っているより、よっぽど酔っ払っていたのかも知れない。

 俺は最近有った、俺の人生においてトップクラスに重要な事件について、高揚して語り始めた。

「最近、俺……恋をしたんです、初恋を……」

 真希波さんは眼を丸く見開き、真面目な雰囲気で顎に右手の親指と人差し指をやり、

「ほう……?」

 と言った。

 俺はベンチに深く腰掛け、両手を組み、両肘は太ももに置いた。そして組んだ両手の上に顎を乗せ、真剣な顔で語り始めた。

「僕は中二で、不登校で、もう数年ひきこもりです。たまに外に出るのは深夜のコンビニか公園。買い物があれば大体Amazonで済ませます。ここから少し離れたアパートに母と二人で住んでいます、父親はいません。母は自分でスナックを営んでいて、帰って来るのは深夜二時から三時頃、朝まで帰って来ないことも良くあります。客の男の所にでも泊まってるんですかね」

「ふむ、色々あるな」

「ロクな家庭じゃありませんよ」

「でも東京の端っこで、ひきこもって暮らす男の子の人生として、正しい世界の在り方なんじゃないの」

 正しい世界の在り方……

 真希波さんの言葉の真意が読めない、だが、否定できない正しさも感じた。

 彼女が大人の女性だからだろうか?

 否定できない真実を含んでいる様な言葉に頭をひねったが、それ自体に返す返事は思い浮かばなかった。

 俺は俺が普通で無いことが悩みだった。

 俺は本を読み、俺も何かを書いてみようと思ったことは何度も有った。

 だが、バックボーンの無い人間に何が書ける?

 俺は苦悶していた。しかし真希波さんは、世界の普通の在り方だと言った。

 この人も、やはり普通と違う人間なんだと思った。

 だが、普通とは違うが、本当の事、そして正しい常識をちゃんとわきまえている人間なんだとも思った。

 俺は続ける。

「もう何年もひきこもって、やることと言えば部屋にこもってパソコンくらいです、しかし……俺は人が怖い、インターネット上に書き込みもできない……そんな俺が一度、一世一代の思いで勇気を出し、メンタルヘルスの人達の、メル友募集掲示板に書き込みをしたんです、文字をタイピングする手は震えて、それでも何とか頑張って文章を書き、投稿しました」

 真希波さんは真面目な顔で、まっすぐ目を見据え、答えてくれた。

「それで、どうなった?」

 そういいながら真希波さんは無言で新しいビールを手渡してきて、俺は二本目のビールを受け取り、プルタブを開け、また一気にごくごくと飲み下して、話を続ける。

「メールはすぐに来ました」

「ほう」

「メールはすぐに何通か来ました、俺は震えながら返事を返しました、だけど会話が続かない、どの人もいい人なんですが、普段テレビも見ない、小説とアニメしか見ないひきこもりには雑談なんてできなかったんですよ、それで結局、メールをくれた人達とはすぐに会話は途切れ、そのままやり取りは終わりました、そんな事が十件ほどありました」

 真希波さんは真面目な顔で話を聞きつつ、ビールを一口飲み、

「それで?」

 と会話の続きを促した。

 俺は続ける。

「書き込んでから一ヶ月ほど経ち、もう一度書き込む勇気もなく、もう誰からも連絡は来ないだろうな、と諦めていました。ですが、そんな時、一通のメールが来たんです、相手のメールには「会話が苦手で、どんな話をしたらいいか分かりませんが……」と書かれていました。お互い他愛ない短文の会話しかできず、俺の方も「キンモクセイが咲きましたね」なんて、お爺さんの文通の様なメールしか送れず、このままではマズい、どうせこの人も居なくなると思って俺は焦りました、そうしたら俺は結局ひきこもりのまま、友人もおらず一人きり、今までと同じく、社会的に死んだまま孤独に過ごすことになる。そう思ったら焦り、強烈な不安感に襲われました。そして俺は自分の趣味の話をしようと思いました、好きな本の話をしてみました、自分の好きな作家の話をしてみました、すると相手は「大槻ケンヂ」や「海猫沢めろん」「滝本竜彦」「舞城王太郎」「西尾維新」「高橋源一郎」「江戸川乱歩」「坂口安吾」「ラブクラフト」なんかの作家の名前を上げて来ました、俺にドンピシャでした。俺は、もうこれは運命だと思い、色々な事をすっ飛ばし、何をトチ狂ったのか、いきなり相手に「良かったら会いませんか」とメールを送っていました。自分でもよく覚えていません、しかし、気づけばそういうメールを送っていました。年齢も性別も住んでいる所も知らない相手に、いきなりそんな事を送って、送ってから後悔しました、だって俺は深夜しか外に出れない、しかも近場だけ。だけど、そう送るしかなかったんです。何か環境を変えるには、勢いでも、そうとでも送るしか未来が開ける展望が見えなかったんです」

 そして俺は声を強め、続ける。

「ですが! そこで奇跡が起きました! なんと相手は、僕の家から三十分の所に住む、同い年の女の子だったんです」

 ダン! とビールの缶をベンチに叩きつけ、勢いよく叫ぶ。

 真希波さんは、目を見開いて、

「そりゃすげえな」

 鼻息を荒くして語る俺に、真理さんは冷静に言う。

 俺は続ける。

「お互い近くに住んでると知って、すぐに合う約束をしました、彼女は同い年で不登校でした。中学二年生になってから学校へは行かなくなったそうですが、非行などはないので、彼女の親も、結構遅くまで外を出歩くのは許可していたみたいです、ですが俺の様に深夜に外出とはいきません、最初の待ち合わせは駅前のサイゼリアに夜の九時に待ち合わせました。九時のサイゼリアと言ったら、まだ人がごった返していて、俺は震えましたが、このチャンスをのがしたら、一生ひきこもりだと思い、震える足で、気合いで出向きました。

 彼女はひきこもりでは無いですが、不登校でした。中学校は一年生の時はちゃんと学校に通っていたらしいですが、二年生になってから不登校になったそうです。俺がサイゼリアに着くと、彼女は先に店で待っていて、文庫本を読んでいました、俺は彼女を人目見た瞬間、運命を感じました、これこそ運命の出会いだと思いました。だったそうでしょう? こんな奇跡的な出会い無いですよ」

 肘を曲げ、握り拳に顎を載せて表情のない顔で俺の話を聞く真里さんは、

「まあねぇ」

 とだけ返した。

 だがビールの酔いもあり、俺はヒートアップしていく。

「広大なネットの海で、こんなドンピシャで巡り合うなんて、やっぱり奇跡、運命だとしか思えないんですよ、しかも歳も同じで彼女、名前は月野つきの(つきのこよみ)こよみさんと言うんですが、彼女はその上めちゃくちゃ美人だった。僕より少し背が高くて、うす顔の日本人的な顔つきで、理知的な顔をしていた、俺が来る前、暦さんが何の本を読んでいたかは聞きそびれちゃいましたが、彼女も本読みで、それで更に好感を持ちました。俺は最初は緊張して喋れませんでしたが、彼女はこちらに気を使う訳でもなくフランクに話してくれました、それで彼女の話は、オカルトやスピリチュアル、陰謀論とか都市伝説とか、ちょっと前からネットで流行ってるようなそういう怪しい話に流れて行きました、どうやら彼女はそういった、怪しげな話が好きな様でした。僕は詳しくないのですが、彼女は熱心にそれらを本気で語って、俺は最初少し引いてしまったんですが、彼女があまりに熱心に語るので、こちらも耳を傾けて、そうしたらすぐ時間が経っちゃって、彼女は帰ることになったんです。俺が色々考え何か言おうと考えていたら、彼女の方から、近い内にまた会おうって向こうから言ってくれて、それで僕は彼女の変わった所も含めて気になって、ずっと彼女の事ばかり考える様になり、今まで小学校でも、男友達どうしで、好きな子は誰か、なんて話になる事があって、俺も適当な好意を持っている子の名前を上げたりしましたが、それは、周りに合わせて、好きな子だと思ってたのは無理やり、なんというか、好きな子くらいいなきゃいけない、と作り上げたもので、俺は暦さんと出会い、今回初めて、本当の、恋というものを知ったんです!」

 熱心に語った俺の言葉を聞いて、真希波さんは、ふぅーと息を吐き、

「運命の初恋ねぇ、そりゃあいいけど、オカルトだの都市伝説だのろくでもない趣味の子を好きになって大丈夫なのかよ」

「確かに俺も最初は引いちゃいましたけど、そういうのって実際に有ると思うんですよ、それにそういうミステリアスな世界を思う暦さんの眼はキラキラしてて……」

「童貞拗らせた中年みたいだな、いや、少年の恋愛なんてこんなもんか」

「だから、ただの恋愛じゃなくて、絶対何かの運命なんですよ」

「はいはい、応援するよ」

 俺はこれが本当に運命的な出会いだと、本質的に真希波さんに理解して貰えないのかと、頭の中で言葉を探っていると、真希波さんは、腕を突き出し、空を指さした。

 いつの間にか遠くの空が白んできていた。

 俺は公園に立っている柱時計を見上げると、もう五時半時近くなっていた。

「もう朝だな」

 真希波さんは言う、俺は、

「もう朝が来ますね、俺は夜しか外に出れないんですよ」

「ドラキュラかよ、まあ、今日は帰ろう、またいつでもコンビニに寄れよ、アル中にならない程度になら、また酒奢ってやるよ、暦ちゃんにもよろしくな」

 そういうって真希波さんは俺の背中を軽く叩き、立ち上がって、

「じゃあ、またな」

 と言った。

 お互い手を降って、別々の方向へ別れた。

 俺も帰路に着いた、久々に人と語り、酔いのせいもあって、久々の人との交流で興奮している。

 俺は酔いに任せ、迷惑も考えず暦さんに、LINEでメッセージを送った。

〈もう寝てるかな? 今日はとても良い日でした俺はこれから寝ます、おやすみなさい、また会いましょう〉

 帰り道、返信が来ないかドキドキして帰ったが、返事は無かった、流石に朝五時には寝ているか。

 家に着き、既に帰宅して寝ていた母親を起こさないように音を立てないように、ドアを後ろ手に閉めた。

 母親は適当に服を脱ぎ散らかし、そのまま布団に入ったようで、薄着で、酒の臭いがした。

 風邪をひかないように、厚手の毛布をかけてやる。

 そうして自分の部屋に入り。一日の事を思い返し、ひきこもりの俺には色々な事が有ったなと、心が満たされて別途にバタンと横になり、酔いのせいもあってか眠気に誘われて、俺も適当に服を脱ぎ散らかし、薄着になった、身体は火照っていた、今日の事を思い返そうとすると、脳みそがぐるぐる周り、いつの間にか眠っていた。

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