敬して遠ざけられるという名誉

 あえて句読点を減らし、平仮名と漢字のバランスにまで配慮してみっちりと刻まれた美しい文字列は、まるでブリューゲルの銅版画でも見ているような気持ちになる。
 それとも三島由紀夫を愛好される千織さんの最推しなのだから、夭折した清原啓子のほうが適当だろうか。

 カクヨムの沼の底、星の数ゼロ~一桁層には、こういった作風の方が多くいる。
 どの方も文学にまことに真摯であり、明治大正昭和の文豪に通ずる少々古めかしい作風を確立されている。

 いったい何人、このタイプの書き手を見てきたことだろう。
 我が道をいき、おのれの美学に生きる彼らは、決してこちらに媚びてこない。
 どの方も硬めの文体をもち、比喩表現にこだわり、凡には落ちるまいとする気概をみせる。
 汚濁であれ怯懦であれ、その文体で鋭く、美しく、一文字たりともおろそかにせずに彫り上げては、書き上げたものを半紙のようにそっと持ち上げて遠くへと置いてしまう。

 机に向かい、この方々はただ待っている。
 彼らの書いたその世界に耽溺してくれる唯一の読み手を待っている。
 わずか二千文字少々。
 二千文字だからこそ許される、徹底したこの独りよがり、この密なお経を、息すら止めて、一文一文、ぴりつく山椒の味見のように緊張感をもって味わってくれる稀なる人の訪れを。
 たとえ99%の人たちが最初の数行で根を上げても、残りの一人だけは、かっと眼を見開いてきっと食らいついてくれるはずなのだ。

 遺族に売り飛ばされでもしたのか古書店の隅で未来永劫うす埃をかぶっている自費出版を、たまにわたしは拾い上げてめくってみては元の場所に戻してしまうが、どこかあれに通じるような閉じた世界。高麗納戸色をした沼の底はいつも静かで、時折、点のようなあぶくが浮かび上がる他は、その存在を知られることもない。
 しかし多くの人が首をひねって通り過ぎた後に、ひとりだけは脚を止めて、特異なあなたをじっと見てくれる。

 ほとんどの人には理解されない、限定的な一部の人にしか響かない、そんなものを、わたしは決してその理由により高尚とも文学の頂点だとも思わないが、気楽に感想をつけることすらはばかられて遠巻きにされてしまうこの侵しがたい雰囲気には、やはり憧れてしまう。