サーカス

三月

サーカス



 どの学生に単位を振舞いそして奪い取るかを選択できる立場を仮に「教授」と呼ぶ。あなたは飲みの誘いが今度もただの社交辞令でないと構えていたが、先日通院した歯医者で偶然邂逅かいこうしたことを指摘されただけで続く話題も教授の家族へと移っていき興味を引くものはない。両隣には顔色の悪くせわしなく辺りへ目をやる学生がもう一人いたがそれはわたしである。夜が更け外は白みがかっていたのが一日の終わりを知らせるように少し晴れた頃合いに扉が開いた。ひとりは店内の照明の当たる所まで入ってきて腰から肩に回る革帯や靴下留めガーターについた金具が歩くたび音を奏ではやし立てた。若い女の白を基調とした外見の持つ幼さと繊細さは裏返って立て札の立った地雷原といった風だった。後ろから天井に届くほどの影が現れ、光に足を踏み入れるのは几帳面に着こなした一張羅ダークスーツが引締める巨大な体躯である。上手く血が巡らないようで首を曲げ伸ばし張り出した僧帽筋を覗かせた。はばかることなく言うが彼が「人殺し」である。剃り上げた頭を撫で部屋の奥に座っている男を指差し、そこの会社員は先刻店に入ったばかりだろう。ああ皆様方は存じ上げないだろうがそこな男は女性に乱暴を働き寸時逃げおおせた所なのだとそう告げた。会社員は立ち上がりもつれた舌で抗弁したがまあ落ち着けと近寄って来る巨体にたじろぎ奥の手洗い場へ駆け込んだ。人殺しの言葉に釣られた別の客が扉のノブに手を掛けたが開かず、直ぐに追いついた人殺しが扉を蹴破ったがもう誰も居らず開けっ放しの換気窓からまた白み始めた外が見えた。

 誰かが通報したあと人殺しは怪訝な目を向ける主人マスターに微笑みかけ教授の座っていた隣に居を構えた。賭けの材料だというように鍵束をカウンターに投げたが傍にいた誰もが見やって目を逸らさなかった。視線を誤魔化したりするより素朴な関心を示している方が得策だというように。一同の様子をみて人殺しは口端にしわを寄せ取り出した車の電子鍵スマートキーを鍵束の丸環に付けると代わりに指輪を抜き出し見える位置まで持ってきた。不格好なほど大きな石のついた指輪。何の宝石か主人が尋ねると答えるようにただの石英だと教授が独りごちた。その言葉を聞いて人殺しはその通りこれはただの石ころだと口を開き指輪を回していって皆それに触れたがそうすれば人殺しの語る指輪の略歴を指先で感じられるというようだった。先刻逃げ出した会社員と同席だったブラウス姿の少女が寄ってきて机の上の指輪を弾き飛ばし、巨漢の背中に向け損害を弁償しろと甲高い声でわめいた。それは無理だと人殺しはいいというのも人はそれぞれ自分なりの損害賠償法を主張するがそれが正当であっても本当に失ったものを取り戻すことだけは誰にも出来ないからだと告げた。そしてしかめ顔の主人に人差し指を立て隣の空席を両手で示すと少女は一時対峙するような視線を向けてから座ったが、警戒してグラスを近づけることもない。確かそこには別の女が座っていた筈だったと思い周囲を見渡すとわたしの居た席に素知らぬ顔で座っていた。教授は奇妙な隣人である巨漢に興味を持ち話しかけると人殺しは快く応じ少女を巻き込んで世間話をしていた。女はあなたの頭越しにその様子を見てから顔を近づけあの男はろくでもない人間よ、他人を強姦魔呼ばわりするのだってただの暇潰しでしかないといった。それじゃなんで一緒に居るんだと尋ねるとヒッチハイクで拾われたのだと応えた。再び店内に目をやったとき彼女が急に腕を掴み覗き込んできたが、それは語り合っても解り合えない者たちが共有できるものは五感しかないというようだった。誰を探してるのと尋ねられたのでアンタに関係ないと応えると腕を放しそれじゃ大変ねといった。だけどこんな人眼の多いところで見つからないものは元々存在しない。貴方に見えて私に見えないものも確かにあるし鏡が無ければ自分の顔も判らないがそれが貴方だけの顔であることも変わりないでしょと訊いたが、あなたは黙ったまま杯を呷った。

 次に目を覚ますと陶器で出来た便座の冷たさが肌を伝わり骨が軋むようだった。寒いので下着を穿きズボンを上げたがその時股がまだ濡れているのに気づいた。床タイルに投げ出された漂着物のような教授の足をまたいで個室の扉を開けると、壁に立っていた女が音に気付いて顔を上げそんなに気持ちよかったのと訊いてきたが答えは期待していないというように肩をぶつけて扉のないS字型の公共トイレの侵入路から外に出ていきわたしもそれに続いた。薄闇が世界を覆い光の片々へんぺんが静かな空に顔を出して前に付けていた車の傍に立つ影を濃くさせていた。トランクの蓋に手を掛けた人殺しは待っていたというように目をやり手を貸せというので寄って行くと少女のめしいたように虚ろな瞳が見えた。そして飛び出ていた彼女の白く薄い脚に体重をかけモール細工のように折り曲げて仕舞った。お前と私はいまや同じ敵を抱いていると人殺しがいった。それは生であり誰もが直面ひためんをつけ猿真似をしているが、決して世界の仕手シテを演じることはなくそれこそは死だといった。いかれてるなと応えるとしかし悪意を止めるには別の悪意が必要でそのことはお前もよく分かっただろうと人殺しはいった。無関心は一度でもお前に向けられた悪意を防いでくれただろうかと尋ねて口端を歪め太い両腕が伸びてくるのを、銃声に反応して狩人へ振り向くため動きを止める兎のようにただ見ていた。



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