奏でるサイフォンに誘われて

@EnjoyPug

第1話

「おはようルミ、もう空いてるかい?」

「いらっしゃい、ニフさん。今日は早いですね。どうぞどうぞ、入ってください」


 木漏れ日が広がる森の中に、ぽつんと一軒のお店。

 ──喫茶店『カクレヤ』。このお店を切り盛りしているのは少女のルミである。

 一人の老人ニフがドアベルを鳴らしながら顔を覗かせてくる。

 時刻は十時前。開店前に訪ねたことをニフは申し訳なさそうにしていたが、ルミは快く中へと招き入れた。


「いつものを頼めるかい?」

「コーヒーのセットですよね? かしこまりました」

「ありがとう。それにしても……相も変わらずだが、今日もすごいね、ここは」


 席に着く前、ニフは周りを見ながらゆっくりと腰を下ろす。

 まず目に入ったのは、ダイニングテーブルの近くで伏せている白い狼。

 ルミがコーヒーの準備をしているカウンターには、黒い猫があくびをしながらこちらを見ている。

 見上げれば、天井の柱にはフクロウとカラスがせわしなく顔を動かしていた。

 さらに店の奥側には巨大な鹿──ムースが邪魔にならないように佇んでおり、その背中には小鳥たちが囀っていた。


 森の動物たちもこの喫茶店で休憩しているようで、皆おとなしい。

 これだけの種類がいても、きつい獣臭はない。

 暖かな森の匂いが広がっていた。


「ふんふんふ~ん」


 鼻歌交じりに、ルミは粉にした豆が入った容器と、一杯分のお湯が入ったフラスコを用意する。

 コーヒーサイフォン。この喫茶店ではこれを使ったものを出している。

 マッチでアルコールランプに火をつけて下に置き、二つを重ねると、あとは出来上がるのを待つだけだ。


「いつもごめんなさいね。時間かかっちゃって」

「構わんさ。こういう暇な時間というのは、私にとって贅沢だ。悪くはない」


 窓の外から柔らかな朝の風と陽の光。

 動物たちの微かな鳴き声、ルミが動く足音とランプのチリチリ音。

 それぞれの音が調和し、目を閉じれば睡魔が優しく抱いてくるような感覚だった。


「だいぶお疲れなんですね。最近は忙しいんですか?」


 ルミの一言に、ニフは思わず眠ってしまいそうな体を起こす。


「そうだねぇ。ここのところは特にね」

「見回りですか?」

「うむ。老いた体を酷使させないでほしいものだよ、全く……」

「ふふっ、いつもこの森を守ってくれてありがとうございます」


 やれやれと溜息をつくニフに、ルミは微笑みながら感謝を述べた。

 しかし、ここに来ればそんな気分はどこかへといってしまう──そんな密かな楽しみがあった。


「そろそろですね」


 トーストを焼いている合間に、ルミはコーヒーサイフォンの方へトタトタと走る。

 フラスコの中のお湯が沸騰したのを見て、ルミは上の容器に入ったコーヒー粉を攪拌した。

 すると、二つを繋いでいるガラス管を通ってお湯が上へと吸い上げられていく。

 ある程度の水が昇ったのを見計らい、ランプの火を遠ざけていった。


「これ、いつも見てますよね」

「面白いからね。こういうのはあまり見ないもんでね。なかなかに興味深い」

「もうちょっとで出来ますからねぇ~」


 ランプの火を消し、ルミはさらに攪拌を続ける。

 適度に混ぜていくと、今度は上から下へとコーヒーが少し勢いをつけて降りてきた。

 先ほどまで透明だったフラスコに、黒く艶のある液体が満ちていく。

 耳を澄ませば、フラスコ内に滴る光景が心地よい。

 この演出が、ニフにとって癒しそのものだった。


「はい、お待たせしました~」


 コーヒーと焼いたトーストを、トレーに乗せてニフの元へ運んでいく。

 彼女の丁寧な仕草を見つつ、置かれた食事に顔を近づけた。


「う~む。いい香りだ。とても落ち着く……」

「それはよかったです。ごゆっくり~」


 笑顔を見せながらルミはカウンターへと戻る。

 ニフはまずコーヒーカップから手に取った。

 湯気と共に立ち上る豆の香りを楽しみ、口をつける。

 程よい苦みと酸味が舌を楽しませ、喉を通すと後味の心地よさがたまらない。


「──美味い」


 ニフの口から、一息と共に言葉が漏れる。

 椅子に深く座り直し、カップを持ったまま天井を見上げていく。

 そこではフクロウとカラスが興味深そうにニフを見下ろし、首を傾げている。

 彼らもカップから立ちのぼる香りを楽しんでいるようだった。


 ニフはカップの半分ほどを飲み終えるとそれを置き、今度はトーストに手を伸ばす。


「おっ、熱っ」


 熱々のトーストに少し驚きながらも、両手の指でつまむ。

 小さな長方形に整えられたトースト。

 表面のカリッとした音を聞きながら一口サイズにちぎる。

 口に入れると、薄く塗られたバターの風味が広がった。


「んっ、うむ……」


 口の中がコーヒーの味で少しくどくなったところに、このトースト。

 小麦と少しのバターの味が口の中をまったりと変えてくれる。

 そこに濃厚なコーヒーを含み、流し込む。

 この繰り返しが、とても美味いのだ。


 森の中で過ごすこのひと時。

 何かに追われることもない、暇を持て余すという贅沢な時間の使い方。

 たったそれだけ。だが、小さな幸福がそこにはあった。


「ご馳走様」

「はい。お粗末様です」

「今日も美味しかったよ」

「ありがとうございます」


 食べ終えたニフはトレーを手に持って返却口へと運ぶ。

 そこからカウンター越しに見えるルミは、リスに木の実を与えているところだった。

 小さな客人をももてなす彼女。ルミのいる喫茶店は、この森の中では貴重な存在なのかもしれない。


「これからお仕事ですか?」

「ああ。楽しい時間は終わりだよ。名残惜しいねぇ」

「ふふっ、頑張ってください」

「さて、と……」


 ルミと他愛ない会話を交わした後、ニフは店内を見渡す。

 様々な動物たちがいる中を静かに、そして射抜くような目つきでそれらを見た。


 先ほどまで柔らかな雰囲気だったのに、ピリリと緊張が走る。

 カウンターにいる猫は顔を逸らし、テーブル近くで伏せていた狼はその下に潜り、口から僅かに唸り声を漏らす。

 ムースの背に乗っていた小鳥たちは、天井へ避難するように飛び立った。

 ムースだけは悠然としている。だがその目だけは何かを警戒しているようでもあった。


 ニフは木の床を靴で鳴らしながら店内を歩いていく。

 立っているムースの横を通り過ぎ、さらに奥──店内を彩るアンティーク家具の前に立つ。

 ニフは膝を曲げてしゃがみ、隙間に枯れ木のような手を伸ばした。

 しばしのあと、何かを掴み、それを引きずり出す。


「いたいた。こんなところに」


 姿を晒したのは灰色のネズミ。

 尻尾を指で掴まれ、バタバタと手足を動かしているが、宙にぶらんと揺れるだけだ。

 まるで最後の抵抗と言わんばかりの様子に、ニフはため息をついた。

 それは先ほどのような幸福を味わう吐息ではない。

 呆れた存在を見下すための、冷たい吐息だった。


「どうかされたんですか?」


 異変に気づいたルミはエプロンで手を拭きながらニフの方へ近づく。

 この店内に漂う緊張感は未だに消えない。

 彼女の声を聞いたニフはゆっくりと振り返った。


「ネズミがね、紛れ込んでいたのさ。探していたんだよ、こいつを」

「その子が何かしたんですか?」

「外の世界で悪さをして、ここに逃げ込んできた奴さ。まったく、“人間”っていうのは碌でもない連中ばかりだ」

「あ~……だからこの子たち、朝からちょっとだけ様子がおかしかったんですね」

「何かの間違いでここに入ったのならともかく、こいつは意図的だ。気配と匂いで分かる。しかもよりによってネズミに変化するとは」

「最近多いですよね、入ってくる人間さん。それで、その子は結局どうするんです?」

「処分するさ。外の連中はここが禁域だということが伝わっていないのか? この森を避難所か何かと勘違いしているのかもしれないな」


 やれやれと、ニフはもう一度ため息をついて歩き出す。

 ルミの横を通り過ぎるその時、ぶら下がっているネズミと視線が合った。

 何かを懇願するような哀れな目と鳴き声。

 しかし、ルミの表情は変わらない。

 無機質で無感情。このネズミを見てもそこに一切の情はなかった。


「さて、騒がせてすまないね。また来るよ」

「いえいえ。いつもお疲れ様です。次もおいしいコーヒー淹れますね」

「楽しみにしてるよ」


「それじゃあ」とお互いに軽く挨拶を交わしてニフは扉を開ける。

 そこから流れ込む外気は少し肌寒い。

 ネズミとニフが閉まる扉の向こうに姿を消すまで皆がじっと見つめていた。

 音と共に扉が閉じると店内に張り詰めた緊張が解け、動物たちはほっと安堵した。


「ふぅ~。動物さんにもいろんなのがいるんだねぇ」


 カウンターで木の実を齧るリスにルミは豆を挽きながら話しかける。

 ここは森の喫茶店。人の出入りの代わりに、動物たちが憩う場所なのだ。

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