熊と猟銃
志央生
熊と猟銃
気がついたとき自分がどこにいるのかわからなかった。ぼんやりとする意識の中で、目の前で驚愕した顔で立ち尽くしている女性がいるのを発見する。登山服に身を包んだ彼女は、声のないまま口を開閉して俺のほうへ視線を向けていた。
よく見れば小さく震えていて、何かに怯えているようにも思える。その対象が、視線の先にいる自分であることが考えずとも分かった。何か誤解を与えているような気がして、俺は慌てて彼女に声を掛けようと手を伸ばす。
「ちょっと待ってください」
確かにそう告げようとしたはずだった。けれど、俺の耳に聞こえてきたのは低く唸る獣の声だった。女性に伸ばした右手は茶色の毛に覆われ、指先は鋭い爪が剥き出し。驚きの声をあげれば、再び耳に聞こえるは獣の鳴き声。
先ほどまでいた女性は生命の危機を感じたのか、全速力で走り去っていた。どういうことなのか頭が追いつかず、混乱する。状況を飲み込めずにいると、腰に痛みを感じて四つん這いになる。その動作が自然とできたとき、自分が熊になったことを自覚した。
こりゃ、クマったな。と阿呆なことを思えるくらいには余裕ができた。四足歩行に違和感があるものの、体は自然と動く。一時的な立ち上がりはいいが、長時間の二足歩行は腰をいわすことも元から知っていたかのように俺は認識していた。
だが、そんな生態的な情報はどうでもいいことだ。本当に必要なのは、なぜ俺は熊になっているのかだ。先ほど気がつくまでの記憶はない。あるのは、昨晩の夕飯までの記憶。新鮮な熊肉の鍋を食べたのは覚えている。
そして、気がつけば熊になっていた。単純に考えるならば熊肉を食べたことで、熊に呪われた可能性だろう。というより、科学的に考えれば人間が熊になることはあり得ないことだ。非科学的なオカルトチックな説明をされたほうが、まだ割り切れなくもない。
問題は夕食から現在までの記憶が一切ないことだ。飯は自宅で食べていた、その後に熊になったとして俺はどうやってここまできたのか。夢遊病のように意識がない状態で、ここまできたのか。それとも狼人間よろしく満月や何かを見て変身したのだろうか。
考えても答えは出ないが、頭を使って腹が減ってきたように感じた。熊として食べたいものは出てくるが、人としての自分が拒絶したいものばかりが浮かんでしまい気が滅入る。ここが地元の山ならば、少しばかり山を下れば街に出るはずだ。人様に迷惑をかけてしまうが、俺はあくまで人間の熊であるから、人に害をなすつもりはない。食うなら山の実りより、食べなれた味を欲する。そうと決まれば下山すべし。
四足で駆け抜ける山は人で走るよりも爽快だった。知識の上で、熊の走る速度が速いのは知っていたが、体験するとなかなかのものだった。日が落ち始めるまでに山を下ることができた。
夕闇の街に、茶色の毛並みは溶け込みやすかった。見立て通り、山里は俺の地元であり人通りの少ない道を選んで進むのに苦労はしない。このあたりで上手いものが食えそうなのは、と考えていると銃を携えた人を何人か見つける。それが猟友会のハンターだとわかった。
この場所に留まるのは危険だと思い、移動をしようとしたときだった。体の大きさを見誤ってしまい、尻が自転車に当たり倒してしまう。その音にすぐ反応したのはハンターだった。音がしたこちらの様子を確認するためにやってくる。
このままでは危険だと再び走ろうとするが、散らばっていた他ハンターが取り囲むように集まってきた。逃げ場がどんどんと無くなっていく。人間であることの証明などできない、まだ人を襲っていないから最悪麻酔銃で眠らされて山に帰されるだけかもしれない。
なら、必死に抵抗する必要もないか。そう冷静に判断してハンターが自分を取り囲むのを待つ。一定の距離でハンターが止まり、こちらの様子を伺ってくる。俺はテディベアのように座り、害意のないアピールをする。
山に戻ったら、人間に戻れる方法を探そう。それまでは熊として生きるとしよう。そう言い聞かせてハンターの顔ぶれを見る。
その中に太々しい顔つきの男が銃を構えて立っていた。昨日まで散々見てきた面だった。なぜ、どうして、頭を駆け巡る言葉が口をついて出る。カッと頭に血が上り、興奮して熱くなり立ち上がった。自分が何者であるかを忘れて。
乾いた音が数発して、意識が遠くなる。目に映る俺の姿をした男は笑っているようだった。
熊と猟銃 志央生 @n-shion
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