第44話 雨の日のカウンセリング

 その朝、代々木の空は灰色だった。

 しとしとと降る雨が、ビルの窓を静かに叩いている。

 《ハート・ラボ》の玄関マットには、濡れた傘のしずくが点々と並んでいた。


 桐谷真司は、ポットのスイッチを押しながら時計を見た。

 予約時間より十分前。

 新規の相談者――30代前半の女性、名は森下結衣(もりした・ゆい)。

 受付のメールには、こう書かれていた。


 > 「雨の日になると、心が落ち着かなくなります。

 > どうしても、あの日のことを思い出してしまうんです。」


 扉のベルが鳴いた。

 白いレインコートに淡い青の傘を差した女性が立っていた。

 濡れた前髪を払いながら、控えめに頭を下げる。


「初めまして。森下です。」

「どうぞ。足元、気をつけて。」


 彼女は小さくうなずき、傘をたたんで室内に入った。

 静かな空気の中に、わずかに雨音が残っている。



---


「雨の日、というのは……」

 真司が尋ねると、森下は膝の上で手を組みながら答えた。


「二年前に、婚約者を事故で亡くしました。

 その日も、今日みたいな小雨で……

 どうしても、空の色と匂いで、体が固まってしまうんです。」


 真司は頷いた。

 白石が横で、そっとメモを取る。


「無理に忘れようとすると、体が抵抗するんですね。」

「はい。晴れの日は大丈夫なんです。

 でも雨が降ると、“あの時間”に戻されるようで……。」


 声がかすかに震えた。

 真由が静かにティッシュを差し出す。

 森下は礼を言って、それを受け取った。


 真司はゆっくりとした口調で言葉を選んだ。


「悲しみというのは、“心がその人を愛している証拠”なんです。

 だから、完全には消えません。

 でも、“かたち”は変えられる。

 たとえば――“思い出すたびに優しくなる”方向へ。」


 森下は涙を拭いながら、小さくうなずいた。

「……そんなふうに変われる日が来ますか?」

「来ます。きっと。」


 真由が続けた。

「今日の雨も、きっと“思い出す練習”なんですよ。

 泣くことも、ひとつの再会の形ですから。」


 森下は目を閉じ、深呼吸した。

 雨の音が少しだけ柔らかくなった気がした。



---


 セッションが終わり、森下が帰ったあと。

 真由はホワイトボードに軽くペンを走らせた。


「……グリーフケア、やっぱり難しいですね。」

「簡単じゃない。

 でも、今の君の言葉――“泣くことは再会の形”はよかった。」


 真由は照れたように笑った。

「先生の“寄り添いの温度”を、ちょっとだけ真似してみました。」

「はは、あれは詩的なだけで理屈になってないよ。」


 二人のあいだに、軽い笑いが生まれた。

 その笑いが途切れたあと、真由が少し真顔になった。


「……先生は、自分の“雨”ってありますか?」


 真司は少し黙った。

 窓の外では、まだ雨が降り続いている。

 遠くで車のタイヤが水をはねる音。


「あるよ。」

「え?」

「今でも、たまに思い出す“雨の朝”がある。

 ――誰かを支えきれなかった日だ。」


 真由は静かに息をのんだ。

 真司は続ける。


「でも、その記憶があるから、今もこの仕事をしていられる。

 たぶん、俺にとっての“再会の形”は、支援そのものなんだと思う。」


 真由は小さくうなずいた。

 その表情には、尊敬と、ほんのわずかな切なさが混じっていた。


 雨脚が弱まり、雲の切れ間から光が差す。

 真由がカーテンを少し開けた。


「……雨、上がりましたね。」

「ああ。」


 真司は窓の外を見つめた。

 街路樹の葉に残る雫が、光を反射して揺れていた。


「先生。次の予約、明日でいいですか?」

「うん。今日はもう閉めよう。」


 真由が傘を持って帰ろうとしたとき、ふと振り返った。


「……先生、もしまた降ったら、

 今度は一緒に“雨の日のカフェ巡り”しませんか?

 観察実習ってことで。」


 真司は少し笑った。

「またその口実か。」

「ええ。便利な言葉ですよ、“実習”って。」


 二人の笑い声が、静かなオフィスに溶けた。

 窓の外で、最後の雨粒が落ちる。


 ――雨のあとには、

 言葉にできない“やさしさの温度”だけが残った。


(つづく)



---


📘次回予告(第45話)

「観察実習 ― 雨上がりのカフェにて」

再び“実習”を口実にした二人の午後。

コーヒーの香りと窓の水滴の向こうで、

支援と感情の境界が、また静かに揺れ始める――。

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