第36話 ハート・ラボ解散会議
冬の夕暮れ、代々木の雑居ビル三階。
《ハート・ラボ》の灯りだけが、まだついていた。
テーブルの上には、真由の提出した大学院実習レポートのコピー。
タイトルは「グリーフケアを通じた恋愛行動支援の実践報告」。
その赤い朱書きの一行が、真司の目に刺さる。
> 「恋愛感情を扱う心理支援は、倫理的に不適切の可能性あり」
――その報告書が、大学院の倫理審査委員会で議題に上がったのだ。
「……つまり、臨床心理の枠を超えてるってことか」
真司がため息をつく。
「“恋愛実習”という言葉が、引っかかったみたいです」
真由はノートを閉じ、うつむいた。
「クライアントと“感情を共有しすぎている”って指摘されました」
真司は苦笑を浮かべた。
「共有しなきゃ、支援なんてできないのにな。」
窓の外では、街の灯りが少しずつ滲みはじめていた。
ヒーターの音だけが部屋に響く。
「先生……もし、このまま続けたら、
大学側から《ハート・ラボ》への関与を禁じられるかもしれません」
「……なるほど。つまり、解散勧告ってやつだな」
真由は黙って頷いた。
いつも冷静な彼女の瞳が、少しだけ揺れている。
「俺が辞めれば済む話じゃないのか?」
「違います。これは、先生と私、両方の責任なんです」
短い沈黙。
真司は机の上の報告書を指で叩いた。
「……やっと、少しずつ形になってきたのにな。
“心のリハビリ”を、恋愛の形でやっていくっていう実験が。」
「わかってます。私も、そう思ってました」
真由は深く息をついた。
「でも、“恋愛”と“心理療法”の境界は、まだ社会が受け止めきれないんです。」
真司は静かに頷く。
「結局、誰かの心を支える仕事って、いつも“越境”なんだよ。」
その言葉に、真由が顔を上げた。
ほんの一瞬、目が合う。
そこには、支援者としての誇りと、ひとりの女性としての迷いが重なっていた。
「……一度、閉じましょうか。」
「ラボを?」
「はい。公式には“活動休止”。
でも、支援を続けたい人は、どこかでまた会えます。」
真司はゆっくりと立ち上がり、
白いボードに手を伸ばした。
《ハート・ラボ》のロゴの下に、彼は黒いマーカーで一行を書き足した。
> 「人の恋を支える者、また会う日まで」
マーカーのインクが乾く音だけが、静かに響く。
真由が小さく呟いた。
「……先生、これで終わりにしないですよね?」
「終わりじゃない。これは、次の形を考える時間だ。」
外では、代々木駅のホームに電車の音が響いている。
それが、ラボの“最後の夜”のBGMのようだった。
二人は同時に深呼吸をした。
この小さな部屋で始まった物語は、
形を変えて、まだ続いていく。
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📘次回予告(第37話)
「凍えるラボ、残されたノート」
活動休止後の静かな日々。
真由は大学院へ戻り、真司は一人で片づけを始める。
そのとき届いた一通のメール――
件名「もう一度、誰かを応援したい」。
送り主は、かつてのクライアント・川瀬海斗だった。
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