爪継ぎ

神木

爪継ぎ

 爪が割れた。工場の機器を整備しているときに、中指を挟んだのだった。安全手袋を脱ぐと、爪の半ばまで亀裂が入っていた。報告書を提出して、剥けないように絆創膏を貼った。

 五十を過ぎてから白い筋が浮いてきたり、分厚くなって表面に凹凸が出たりしていて、脆くなっているのは分かっていた。それでも、これぐらいで割れることがあるのかと思うとため息をつきたくなる。筋肉は衰え、骨は脆くなり、頭は鈍化し、爪は弱くなる。長生きはするものじゃない。


 家に帰ると、崎坂がもう食事の準備を済ませている。八角の甘い匂いが茶の間いっぱいに広がっていて、すでにもう崎坂はビールを開けていた。荷物を置き、私もすぐに夕食につく。豚の角煮と煮卵と白米。崎坂が二本目のついでに私の分の酒も出してくれるので、缶を軽くぶつけあった。乾杯。

 フルリモートになってから、崎坂は気が向いたときに角煮だのぶり大根だの、時間が必要な料理を作るようになっていた。彼の行う料理は生活というよりも遊びに近く、面倒なときはただ肉と野菜を塩胡椒で炒めただけだったり、私が作ったりすることもある。外食も多い。

 酒が入って快活な目がこちらを見た。視線の先は絆創膏だ。


「珍しいっすね。仕事で怪我ですか」

「うん」

「手があってよかったー。安全確認ヨシ! 労災ヨシ!」

「そこまでの作業はもうしない。爪が割れただけだよ」


 あらぬ方向に指さし確認をする崎坂。でも安全確認よくなかったので報告書も出したのだ。それに労災ほどでもないだろう。病院にも行かなかった。


「爪大事っすよ。剥がれると痛いし……。あ、補修材ありますよ」


 崎坂は薬箱を持ってきて、小瓶を取り出す。くるくると開けて、蓋に取り付けられていたブラシを引き出した。酒を飲んでいるので食事中でも崎坂は気にしないで私の傷痕をおもちゃにする。


「手、もらっても?」

「そこまでするほどじゃない」思ったより強い語調が出た。たぶん補修材があまりにマニキュアに似ているからだ。それを誤魔化すように続ける。「これくらいでそんなのしたら周りから笑われるよ」

「上から絆創膏すりゃいいじゃないですか」


 私たちのようなものは隠蔽を最初に身に着ける。呼吸のように嘘をつくこと。それこそが誠実さとなる転倒をよく知っている。途端に補修材を爪に塗ることへ抵抗感が幼稚に思えて、大人しく絆創膏を剥いて手を出すと、崎坂は苦笑した。

 冷たい液を纏った筆が、乾き始めたかさぶたと爪の亀裂をなぞる。濡れた筆の感じが思いのほか優しい。光沢のない透明な補修材が薄く患部を覆うまで一分もかからなかった。問題なく補修材が固まったのを確認すると、崎坂は小瓶をしまって、代わりに絆創膏を取り出す。


「いや、やっぱり絆創膏はいいや」

「そうですか? ま、お任せします」


 補修材と絆創膏を薬箱にしまい、崎坂は残った角煮をかきこんだ。蛍光灯に爪を透かしてみると、薄い肉の色に濁った赤みがさしていて、亀裂が半分ほどまで入っているのがはっきり見えた。塗られた補修材はささやかに光っていた。



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爪継ぎ 神木 @kamiki_shobou

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